訃報:高橋尚愛が死去。フォンタナやラウシェンバーグとの協働でも知られたアーティスト

ヨーロッパとアメリカを拠点に活動し、ロバート・ラウシェンバーグをはじめ、数々の国際的コラボレーションを展開したアーティスト、高橋尚愛が逝去した。85歳だった。

高橋尚愛。Photo: Courtesy of MISAKO & ROSEN
高橋尚愛。Photo: Courtesy of MISAKO & ROSEN

ヨーロッパとアメリカを拠点に活動したアーティスト、高橋尚愛が逝去した。85歳だった。

高橋は、1940年東京に生まれた。アートに関する研究会「ART RESEARCH ONLINE」による2021年のインタビューによれば、多摩美術大学で学んでいた際に、銀座で開かれたイタリア人アーティスト、ロベルト・クリッパの展覧会に鉛の彫刻を持参し贈ったという。この出会いをきっかけに、クリッパから「ヨーロッパで学ぶべきだ。私のスタジオを使えばいい」と知遇を得て、1962年にイタリアへ渡った。

この時期、高橋は工業用ゴム製ローラーを使い、蛍光色や畜光色の絵具でベタ塗りの下地をつくり、その上に花柄などの模様を転写する新たなペインティング技法を開発していた。この技法を用いた作品群は、1966年にはミラノのモンテナポレオーネ画廊で、翌年にはアントワープのワイド・ホワイト・スペースで展示された。アントワープでの展示では、高橋が制作した模様入りの小さなペインティングに、ルーチョ・フォンタナが切れ込みを入れるという形で、両者のコラボレーションが実現した。

1968年にフォンタナが亡くなった後、高橋は1969年に渡米し、著名なアートコレクター、ドミニク&ジャン・デ・メニル夫妻の自宅で開かれたディナーでロバート・ラウシェンバーグとの出会いを果たしたと前述のインタビューの中で語っている。そして、ラウシェンバーグの作品《肉欲の時計》の制作を手伝ったことを機に、長年にわたる協働が始まった。以後、2008年にラウシェンバーグが死去するまで、約40年間にわたって制作を支えた。

1971年、高橋は《FROM MEMORY DRAW ME A MAP OF THE UNITED STATES》という野心的なプロジェクトを始動した。ラウシェンバーグはこの構想に共鳴し、多くのアーティストを紹介。高橋はブライス・マーデンやゴードン・マッタ=クラーク、スーザン・ワイル、サイ・トゥオンブリー、ドロシア・ロックバーン、ジャスパー・ジョーンズをはじめとする22人のアーティストを訪ね、記憶を頼りに米国地図を描いてもらった。このプロジェクトは、1970年代のニューヨーク・ダウンタウンで活動していたアーティストたちのネットワークや創作現場を記録する貴重なドキュメントにもなった。

高橋の作品において「記憶」は重要なテーマだ。1970年から始めた《メモリー・オブ・ノー・メモリー》シリーズでは、大好きだった赤いハンティング・ハットを和紙にクレヨンで描いた。この赤い帽子はのちにポラロイド写真作品にも用いられ、高橋の記憶への関心を象徴するモチーフとなった。1972年には、ゴードン・マッタ=クラークらが開設したニューヨークのアートスペース、112グリーン・ストリート(現在のホワイト・コラムズ)にて《ミラー・ピース》を発表。本作で高橋は、友人のアーティストたちから借りた鏡を用い、記憶と現在が交錯する空間を創出した。

2008年のラウシェンバーグの死後は、リバプール、ニューヨーク、アムステルダム、東京といった各都市の美術機関で精力的に個展を開き、国内外で作品の再評価が進んだ。

近年は、ブリュッセルとマーストリヒトを拠点に活動するアーティスト、奥村雄樹との協働プロジェクトでも注目された。奥村は、高橋の1967年のアントワープでの個展を再構成した展示を約45年後の2013年にブリュッセルで実現し、これが高橋の活動にあらためて光が当てられる契機となった。2016年には銀座メゾンエルメス・フォーラムで「奥村雄樹による高橋尚愛」展が開催され、両者のコラボレーション作品も発表された。

高橋は、個人の創作にとどまらず、他者との関係性や協働を通じて生まれる表現のかたちも模索していた。その姿勢は、フォンタナ、ラウシェンバーグ、奥村雄樹といった異なる世代のアーティストとの対話にも色濃く反映されている。そのように、高橋は一貫して、協働から生まれる芸術の可能性を探求し続けたアーティストだった。

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