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「消えた名作」の情報求む! モディリアーニ、イサム・ノグチ、リキテンスタインなど所在不明の10作品

今年4月、100年近く行方不明だったグスタフ・クリムト作の肖像画に、オークションで約50億円の値がついたことが話題になった。しかし、長年にわたり世間から姿を消したままの作品はこれだけではない。この記事では、美術史家で著述家の筆者がピックアップした、19世紀から20世紀半ばにかけての10作品を紹介する。

Getty Images

アート研究者にとって、行方の分からない作品ほど悩ましいものはない。たとえばカタログ・レゾネ(*1)の編纂や作家のアーカイブ管理、そして学術論文執筆などの際に、追跡できない絵画や彫刻、版画があるのは厄介だ。個人コレクションの中に消えてしまっていたり、紙での記録を一切残さずに所有者が変わってしまったりした作品に個人的な思い入れがある場合、喪失感はひときわ大きいだろう。


*1 特定のアーティストが手がけた全作品のデータを網羅する総作品目録。

1920年代にデビューしたモダニズムの作家アンナ・ワリンスカを、親友のアーシル・ゴーキーが描いた肖像画も長い間行方不明で、アーシル・ゴーキー財団はカタログ・レゾネ編纂のためにこの油彩画の在処を突き止めようとしていた。ワリンスカの姪で、アトリエ・アンナ・ワリンスカを創設したロジーナ・ルービンも、かつてマンハッタンのアッパー・ウエスト・サイドの家の玄関に飾られていたこの絵の所在を長らく探してきた。

アトリエ・アンナ・ワリンスカのニュースレターでそれを知った私は、ルービンとゴーキー財団に連絡を取り、一度も公開されたことのないこの絵が見つかるきっかけになればと記事を書いた。しばらくは何の反応もなかったが、2年後に動きがあった。この絵を所蔵する個人コレクターの隣人が記事を見て肖像画に気づき、そのことを伝えたのだ。結果、作品と捜索者との再会が実現している。

アート作品は、破壊されていなければ実際に消えてしまうわけではない。しかしあちこちを渡り歩いた末、あるいは時には盗まれ、作品の背景を最もよく知る人々の目の届かない所に隠れてしまうことはある。以下、専門家たちが長らく研究したいと切望してきた所在不明の作品を10点紹介する。これらの作品に心当たりはないだろうか?

エヴァ・ゴンザレス《Les Oies(雁)》(1865-70年頃)

1885年にサロン・デ・ラ・ヴィ・モデルヌで開催されたエヴァ・ゴンザレス展の展示風景。Photo: Courtesy of the Wildenstein Plattner Institute

フランスの印象派画家エヴァ・ゴンザレスが、出産がもとで命を落としてから2年後の1885年、彼女の家族とレオン・リーンホフ(エドゥアール・マネの継子)は、88点の油彩画、パステル画、素描、版画などで回顧展を開催した。その際、簡単な作品カタログが刷られたが、図版は掲載されていない。しかし、会場を撮影した3枚の写真のおかげで、研究者たちは展覧会に出品されたゴンザレスの作品を全て把握することができた。その中に含まれていたのが、《Les Oies(雁)》と題された正方形の小さな油彩画だ。

キャリア初期に制作されたこの絵の題材は雁の群れで、肖像画や静物画で知られるゴンザレスとしては珍しい。作品が描かれた当時、すでにゴンザレスがマネに師事していたかどうかは不明だが(彼女はマネにとって唯一の正式な弟子だった)、この絵がマネと何らかのつながりがあったことは分かっている。1885年の回顧展に出品された際、マネの未亡人であるシュザンヌ・マネのコレクションから貸し出されているからだ。回顧展以外で《Les Oies》が公の場に出たのは、1958年11月にヴェルサイユのサロン・デュ・トリアノン・パラスで開催されたオークションだけで、その後個人コレクションに入ったものと思われる。

この作品の所在について情報をお持ちの方は、ウィルデンスタイン・プラットナー研究所までご一報を。同研究所は、1990年に刊行されたゴンザレスのカタログ・レゾネの改訂版を、原著者の1人であるマリー=カロリーヌ・サンソリューとともに作成中。

Photo: Courtesy of the Wildenstein Plattner Institute

ジョセフ・アルバース《自画像》(1917-1919年頃)

1948年にドイツのヴェストファーレンで開催された展覧会(詳細は不明)で撮影された、ジョセフ・アルバースの妹エリザベートとその夫ルドルフ・マルクスの写真。背景の絵は1917-1919年頃に描かれたアルバースの自画像。Photo: Artwork copyright © The Josef and Anni Albers Foundation/Artists Rights Society (ARS), New York. Digital image courtesy of the Josef & Anni Albers Foundation

ジョセフ・アルバースがこの自画像を描いたのは、彼の代表的作品「正方形讃歌」シリーズのはるか前、ドイツのヴェストファーレン地域の小さな町で小学校教師として働きながらアーティストを目指していた頃だ。バウハウスで教鞭を取るかたわら幾何学的なハードエッジ絵画(*2)を制作し始める何年も前に描かれたこの自画像は、アルバースがキャリアの初期に制作し、現在は行方知れずになっている絵画の1点だ。数点の所在不明作品の何枚かは、破棄されたか塗り潰された可能性もある。


*2 色面や線などをはっきりとした輪郭で描き、平面性を追求した絵画。奥行きの錯覚や筆致、塗りムラなどを排除したもの。

表情豊かなこの作品の存在を示すものは、1948年頃にヴェストファーレンのどこかで開催された展覧会でのスナップ写真しかない。第2次世界大戦を生き延びたことから、今もどこかに存在し、おそらくは個人コレクターの所蔵品となっている可能性が高いと思われる。絵には、当時アルバースが憧れていたエドヴァルド・ムンクやフェルディナント・ホドラーといった画家の影響を思わせる渦巻くような線を背景に、ロマン派風の衣装を身にまとった自らの姿が描かれている。写真手前に写っているのは、アルバースの妹エリザベートとその夫ルドルフ・マルクスだ。

この作品の所在について情報をお持ちの方は、ジョセフ・アルバース&アニー・アルバース財団までご一報を。

アメデオ・モディリアーニ《Portrait de Jeune Fille(若い女性の肖像)》(1918-19)

アメデオ・モディリアーニ《Portrait de Jeune Fille》(1918-19) Photo: Alberto G. D'Atri papers, Archives of American Art, Smithsonian Institution. Photograph of archival print taken by Leslie Koot

イタリアに生まれ、主にパリで活動したアメデオ・モディリアーニ。彼が独特の画風で描いたこの肖像画が最後に人の目に触れたのは、もう1世紀以上も前、彼の死から2年後の1922年のことだ。そのとき、フランス系アメリカ人画家、チャールズ・ホール・ソーンダイクのコレクションからこの作品を入手したパリのベルネーム=ジューヌ画廊が売りに出していた。ソーンダイクはこれ以外にも、少なくとも1点のモディリアーニ作品を所有しており、南仏で彼に会っていた可能性もある。

《Portrait de Jeune Fille(若い女性の肖像)》は、フランスで販売されているカンバスの定形サイズの1つである「マリン8号」に描かれている。モディリアーニは、特有の細長い肖像画のため、海景画用のカンバスを好んで使っていたからだ。しかし、この作品を今に伝えるものは、ベルネーム=ジューヌ画廊が撮影した写真しかない。2015年に同ギャラリーは、それまで販売した全モディリアーニ作品を一覧できるカタログを出版しており、その中にこの絵のモノクロ写真も掲載されていた(同ギャラリーは2019年に閉廊)。

絵のモデルはモディリアーニの恋人で、彼の娘の母親でもあったジャンヌ・エビュテルヌの可能性が高い。彼女はモディリアーニのモデルを25回以上も務めているが、ほかのジャンヌの絵と比べ、この作品では顔が少しふっくらしていることから、制作されたのは彼女が最初の子供を産む直前の1918年頃だろうと推測されている。なお、モディリアーニのカタログ・レゾネの中で最も信頼されているアンブロジオ・チェローニによる1970年刊行のカタログには、この《Portrait de Jeune Fille》は掲載されていない。早くに売却され、その直後にフランス国外に出た可能性があることが理由かもしれない。

この肖像画についての情報をお持ちの方は、モディリアーニ・イニシアティブの研究者までご一報を。同団体はこの絵をカラーで確認し、モディリアーニの研究者らと共に詳細に分析したいと考えている。

マースデン・ハートレー《Lemons in a Bowl(鉢の中のレモン)》(1927-29)

マースデン・ハートレー《Lemons in a Bowl》(1927-29) Photo: Courtesy of the Marsden Hartley Legacy Project, Bates College Museum of Art

アメリカのモダニズム画家・版画家のマースデン・ハートレーは、メイン州、ニューヨーク、サンタフェ、バミューダ、ベルリンなどを旅し、各地で作品を制作した。レモンが入った鉢をモチーフとしたこの静物画は、プロヴァンス滞在中の1920年代後半に描かれている。ハートレーは表情豊かな風景画を試みたり、幾何学的な絵でキュビスムとカラフルなシンボルを融合させたりと、何度かその作風を変えているが、この絵では、プロヴァンスを拠点としていたポール・セザンヌの作品を参考に、静物画の可能性を探っている。また同時期に、セザンヌが繰り返し絵の題材にしたサント・ヴィクトワール山も描いていた。

《Lemons in a Bowl(鉢の中のレモン)》はハートレーからフランスのJ・テシエ夫人に贈られ、1950年代初頭にニューヨークのコレクターが購入するまで彼女の家族の手元にあった。しかし、ニューヨーク州クロトン・オン・ハドソン在住のソール&エレン・ブロツキーのコレクションで確認されたのを最後に、現在は所在不明となっている。

この静物画に関する情報をお持ちであれば、 ハートレーの生地メイン州ルイストンにあるベイツ大学美術館のマースデン・ハートレー・レガシー・プロジェクトまでご一報を。

イサム・ノグチ《Power House (Study for Neon Tube Sculpture)(発電所 [ネオン管彫刻のための習作] )》(1928)

イサム・ノグチ《Power House (Study for Neon Tube Sculpture)》(1928) Photo: Artwork © Estate of Isamu Noguchi/Artists Rights Society (ARS), New York. Digital image courtesy of the Isamu Noguchi Foundation

1928年、24歳のイサム・ノグチは、グッゲンハイム・フェローシップの助成金を得てパリ近郊に滞在しながら、動く彫刻や石、木、金属、ネオン管などを使った彫刻などの実験的な制作を繰り返していた。その年に彼が制作した作品の1つが《Power House(発電所)》だ。

この作品は、未発表の別の作品の試作品である可能性が高いことから、《Study for Neon Tube Sculpture(ネオン管彫刻のための習作)》とも呼ばれている。1910年に使われ始めたネオン管は当時としては比較的新しい技術で、彫刻にそれを取り入れることは前衛的だと捉えられていた。ノグチはパリ郊外ジャンティイのデドゥーヴル通り11番地に構えたスタジオで、照明に関する作品を数点制作している。それは当時の彼が彫刻に光を取り入れることに関心を寄せていたのを示すだけでなく、1950年代から作り続けた光の彫刻「AKARI(あかり)」シリーズを予感させる。

《Power House》はノグチが1929年2月にパリを離れる際、特別に作られた木箱に入れられ、ほかの作品や道具とともに倉庫に収められた。だが数年後にノグチがパリに戻ったとき、木箱はなくなっていた。おそらく大恐慌時代の数年間、ノグチが倉庫の管理費を払っていなかったために壊されたか、捨てられてしまったのだろう。イサム・ノグチ財団は、当時誰かが作品の芸術的価値を認め、廃棄する代わりに保管または売却していた可能性に希望を抱いている。

《Power House》に関する情報をお持ちであれば、イサム・ノグチ財団までご一報を。

イブラム・ラソー《Abstract Sculpture in Steel(鋼鉄製の抽象彫刻)》(1938)

イブラム・ラソー《Abstract Sculpture in Steel》(1938) Photo: Courtesy of Denise Lassaw

このスチール製の抽象彫刻には、ホイットニー美術館が所蔵する姉妹作がある。しかし、同じ1938年に制作され、2倍ほど大きいこちらの作品は所在が分からない。ロシア系アメリカ人の彫刻家、イブラム・ラソーが《Abstract Sculpture in Steel(鋼鉄製の抽象彫刻)》を制作したのは、彼が公共事業促進局(WPA)のために働いていた時代だ(*3)。当時ラソーは、同局の依頼で彫刻を作ったり、ジャクソン・ポロックらとともにニューヨークの公共彫像についた鳩の糞を掃除したりしていた。


*3 WPAは、ルーズベルト政権が大恐慌時代の1930年代半ばに立ち上げた政府機関。公共事業による雇用促進を図り、アーティストにも作品制作を依頼した。

WPAから依頼された彫刻や絵画は、公共の建物を飾るために作られていた。しかし、当時ラソーが試していた独自の技法で作られたこの作品は、彼が撮影したスライド写真だけを残し、跡形もなく消えてしまった。アーティストのガートルード・グリーンとともに彼が取り組んだ技法は、通信販売で買った小型の農業用鍛造器具で薄い鋼鉄板を溶接するというものだったが、複雑な形状を作るのは難しく、2点の彫刻を制作したのちに断念された。

この作品に関する情報をお持ちであれば、ベリー・キャンベル・ギャラリーを通じて、作家の娘であるデニーズ・ラッソーまでご一報を。

フィリップ・ガストン《AT-6's Over Matagorda Bay(マタゴルダ湾上空を飛ぶAT-6)》(1943)

フィリップ・ガストン《AT-6's Over Matagorda Bay》(1943) Photo: Artwork copyright © The Estate of Philip Guston. Digital image courtesy of The Estate of Philip Guston

20世紀を代表するアメリカ人画家の1人であるフィリップ・ガストンは、大型壁画に何年か取り組んだ後、1940年代初頭からはカンバスを用いて制作をするようになった。この絵はその頃に制作されたもので、フォーチュン誌から記事の挿絵として依頼された24点のガッシュ画の1点だ。

同誌の1944年2月号に掲載された「The Air Training Program(航空訓練プログラム)」というその記事は、第2次世界大戦中にアメリカが空軍を急速に強化したことを伝えている。挿絵として使われたガストンの《AT-6's Over Matagorda Bay(マタゴルダ湾上空を飛ぶAT-6)》には、訓練のためにテキサス湾の上空を飛ぶ7機のノースアメリカンAT-6が描かれている。なお、《Flight Formation(飛行編隊)》と呼ばれていた可能性もある。

AT-6は第2次世界大戦中から1970年代にかけて空軍のパイロット訓練機として使われていた飛行機で、ガストンはその印象的な機体をさまざまな角度から描いている。地上から見上げた飛行編隊が構図の上半分を占めているが、それよりも目を引くのが下方前景の海岸に散らばっている流木や金属くずだ。この絵は2つの展覧会に出品されているが(1度目は1944年にアイオワ・メモリアル・ユニオンで開催、2度目は1997年にウッドストック・アーティスト・アソシエーションで開催)、それ以来所在が分からなくなった。

この作品に関する情報をお持ちであれば、フィリップ・ガストン財団までご一報を。

ドロテア・タニング《Tempest in White(白の嵐)》(1947)

ドロテア・タニング《Tempest in White》(1947) Photo: Artwork copyright © The Estate of Dorothea Tanning/Artists Rights Society (ARS), New York/VG Bild-Kunst, Bonn. DIgital image courtesy of the Dorothea Tanning Foundation

ドロテア・タニングは、1947年9月にアートディーラーのジュリアン・レヴィに宛てた手紙の中で、《Tempest in White(白い嵐)》は「私が描いた最高の絵の1つだと思います」と書いている。そのときレヴィはシカゴ美術館で開催される展覧会の主催者に絵を貸し出す予定だったため、タニングはこの作品がそれにふさわしいと考えたのだ。「色彩は、青みがかった白、藤色、茶色、黒、そして暗めのオレンジ色(髪)を使っています」とタニングはレヴィに説明している。

《Tempest in White》はシカゴ美術館では展示されなかったが、1948年1月にニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーで開催されたタニングの2度目の個展に出品されたのち、同じ年にホイットニー美術館で開催された「1948 Annual Exhibition of Contemporary American Painting」でも展示された。最後に公開されたのは、1949年にハリウッドのアメリカン・コンテンポラリー・ギャラリーで開催された個展で、その時にハリウッドの個人コレクターに売れたかのかもしれないし、レヴィがほかで買い手を見つけた可能性もある。この絵について、タニング自身は目録に(「破壊」や「盗難」ではなく)「紛失」と記している。

この作品に関する情報をお持ちの方は、ドロテア・タニング財団までご一報を。同財団は、カタログ・レゾネに掲載するため、行方が分からない作品を探している。所在不明のタニング作品については、同財団のウェブサイトのホームページ下部を参照のこと。

ロイ・リキテンスタイン《Knight with Lance on Horse(槍を持つ馬上の騎士)》(1948年頃)

ロイ・リキテンスタイン《Knight with Lance on Horse》(1948年頃) Photo: Artwork © copyright Estate of Roy Lichtenstein. Digital image courtesy of the Estate of Roy Lichtenstein

オハイオ州立大学で美術を学んでいたロイ・リキテンスタインは、1943年に徴兵され学業を中断された。1946年に戦争から戻ると、彼は同大学に戻り学士号を取得し、美術の修士課程に進む。《Knight with Lance on Horse(槍を持つ馬上の騎士)》と題されたこのピカソ風の抽象的なパステル画は、リキテンスタインが1949年の修了制作展に出品したもので、その写真が他の出品作とともに修了論文に掲載されている。

この頃、リキテンスタインは11世紀に制作されたバイユーのタペストリーから着想を得ていた。バイユーのタペストリーはノルマンディー公のイングランド遠征を描いた刺繍作品で、馬に乗った騎士が数多く描かれている。《Knight with Lance on Horse》は修了制作展で展示されたのち、リキテンスタイン本人の寄贈か売却により、オハイオ州の個人コレクションに入った。その後マイアミの個人コレクターの所蔵となり、さらに地元のオークションハウスで売却が検討された可能性がある。ちなみに、現在の所有者や相続人を探す試みは、これまで全て失敗に終わっている。

この作品に心当たりがあれば、ロイ・リキテンスタイン財団までご一報を。ほかの所在不明の作品は、カタログ・レゾネのウェブサイトに掲載されている。

ロバート・ラウシェンバーグ《Untitled(Scatole Personali)(無題 [個人的な箱] )》(1953)

ロバート・ラウシェンバーグ《Untitled(Scatole Personali)》(1953)Photo : Artwork copyright ©Robert Rauschenberg Foundation. Digital image courtesy of the Robert Rauschenberg Foundation

1953年3月、ヨーロッパで初めての個展をローマのガレリア・ロベリスコで開いたロバート・ラウシェンバーグは、売れ残った作品の多くをフィレンツェのアルノ川に投げ込んだ。美術史家のカルロ・ヴォルペが、辛辣なレビューの中でそうしたらどうかと書いていたからだ。幸運なことにこの作品は川に沈まなかったが、研究者たちは現在それがどこにあるのか確認できずにいる。

ブラック・マウンテン・カレッジでジョセフ・アルバースに師事してから数年後、27歳のラウシェンバーグは当時の恋人だったアーティスト仲間のサイ・トゥオンブリーと8カ月間モロッコとイタリアを巡った。彼はその旅で、《Feticci Personali(個人的なフェティシズム)》や《Scatole Personali(個人的な箱)》と呼ばれるアッサンブラージュ(*4)を作り始めている。ゴム製の吸盤や縫い針などを寄せ集めたこの作品もその1つだ。


*4 既製品や廃品を寄せ集めて美術作品を作成する技法およびその作品。

こうした作品は、1954年にニューヨークに戻ったラウシェンバーグが制作を開始した「コンバイン」へと進化していった。《Scatole Personali》は、ガレリア・ロベリスコの共同経営者ガスペロ・デル・コルソが購入し、1997年に死去するまで所有していた。同年にグッゲンハイム美術館で開催されたラウシェンバーグの回顧展に出品されたが、その後デル・コルソの遠い親戚の所蔵となり、以来、所在不明となっている。

この作品に関する情報をお持ちであれば、ロバート・ラウシェンバーグ財団までご一報を。

(翻訳:野澤朋代)

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