『マトリックス』の思想的源流、ボードリヤール──最新伝記が明かすアートへの批判的まなざし
20世紀フランスを代表する哲学者・思想家で、写真家でもあったジャン・ボードリヤールは、物を記号として消費する現代社会の分析やシミュレーション論などで知られ、その著作や講演での発言がアート界にも少なからぬ影響を与えている。最近刊行された彼の伝記から、ボードリヤールのアートへの視点や写真の実践などを見ていこう。
哲学者の著作が映画化されることはほとんどなく、それが大ヒット作となるのはさらに稀だ。その点、シミュレーションの概念が映画『マトリックス』(1999)に影響を与え、作品内でも引用されたジャン・ボードリヤールは例外中の例外と言えるだろう。この映画では主人公のネオが、ボードリヤールの著作『シミュラークルとシミュレーション』(1981)の中をくりぬいて隠していた違法ソフトのディスクを買い手に渡すシーンがある。また、後に削除されたものの、改稿前の脚本にはボードリヤールを預言者か神のように扱うこんな台詞があったという。
「ボードリヤールが予見した通り、これまで君は領土ではなく地図の中で生きてきた」
当然ながら、大衆化には単純化が伴う。シミュレーションと現実の対比を誇張して描いた『マトリックス』は「恥ずべき間違い」を犯していると考えたボードリヤールは、続編への「理論的な助言」を請われたものの、それを断っている。だが、アート界におけるシミュレーションの解釈は、この映画よりさらに酷いものだと彼は考えていた。そう主張するのは、最近出版されたボードリヤールに関する伝記の著者、エマニュエル・ファンタンとブラン・ニコルだ。
アートに対して辛辣な見方をしていたボードリヤール
アーティストたちがなぜ、ボードリヤールに愛憎相半ばする感情を抱いてきたのかは容易に想像できる。彼はそのキャリアを通して、現実はモデル──それも特にイメージ──をもとに生成されており、「地図は領土に先行する」と主張し続けた。彼にとってシミュラークルとは、オリジナルから幾重にも離れた複製であり、元にあったものはもはや重要ではない。私たちはしばしば、シミュレーションをもとに現実を理解するし、あるいは構築することさえある。また、往々にして現実よりもシミュレーションと先に出会うか、少なくとも現実よりシミュレーションのほうが魅惑的だと感じるものだ。「セクシュアリティはポルノグラフィに取って代わられ、知識は情報に取って代わられた」と彼は書いている。彼の世界ではイメージが全てを制するのだ。
ボードリヤールはまた、アートに対して辛辣な見方をしている。彼いわく、アートは長い間「自らの消滅を見せ続け」、商業と区別がつかなくなり、批判的距離を保てなくなってしまった。1987年にホイットニー美術館で開かれた講演会でこの主張を展開した彼は、席を埋め尽くした人々に強い印象を残した。入手困難なチケットをやっとの思いで手に入れたアート好きの観客の中には、自らを否定され、裏切られたと感じた者もいた。
当時ニューヨークのアート界におけるスター的存在だったボードリヤールは、アートフォーラム誌の編集委員を務め、バーバラ・クルーガーやソフィ・カル、メアリー・ブーンの展覧会図録に論考を寄せていた。著書の英語版の版元、Semiotext(e)の設立者であるシルヴェール・ロトランジェは、後期資本主義社会におけるイメージの氾濫の中で真に新しいものを生み出すことは不可能だというボードリヤールの感覚を共有するアーティストやキュレーターに向けて、彼を売り込んでいた。「乱痴気騒ぎの後、あなたは何をしている?」とボードリヤールは問いかけたが、あらゆるものが入手可能で、許容され、やり尽くされた後でも、まだ魅力的で新しく感じられるものとは何だろう?
ニューヨーカー誌などで活躍した美術評論家のピーター・シェルダールは、1986年の秋を「シミュレーショニズムの季節」と呼んだ。ピーター・ハリー、アシュリー・ビッカートン、ジェフ・クーンズらが牽引したシミュレーショニズム(あるいはネオ・ジオ)は、ボードリヤールに触発されて生まれた芸術運動だった。だが『マトリックス』の場合と同様、ボードリヤールはこうしたアーティストたちが自分の思想を利用するのを拒んでいる。
メディアや商品の美的形式を皮肉たっぷりに作品に取り入れたシュミレーショニズムの作家たちの姿勢は、「逃げ道はない……唯一取れる対策は距離を置き、楽しんでいるという立場を取ること、そして可能ならば記号そのものになることだ」という『消費社会の神話と構造』(1970)におけるボードリヤールの主張を反映していた。それは、批判さえ商品化される資本主義社会で批判を試みることは矛盾でしかないというスタンスだ。しかし、ボードリヤールが「勝てない相手なら、その仲間に加わってしまえ」と言っていたわけではない。彼はアート・政治・批評といったシステムの論理を、それが崩壊に至るまで限りなく推し進めることを目指していた。そんな彼のお気に入りのアーティストがアンディ・ウォーホルだったのは納得できる。
ある概念を内破という限界まで押し進める衝動こそ、ボードリヤールの知的傾向だった。彼は滅多に未来形で語らず、既存のシステムが崩壊した後に何が起こるかを想像することもなかった。哲学ではなくドイツ語と社会学を専攻した彼が受けた教育は、「ありうる姿ではなく、あるがままの世界を説明せよ」というものだった。それが現実の解体で知られる人物の出自だとは、皮肉なものだ。
フランスがドイツに占領されていた時代に育ったボードリヤールは、戦後にドイツ語を学んでいる。当時のフランスでは一般にドイツ語とドイツ文化は嫌われていたが、ドイツ語を専攻していた彼は、フランクフルト学派の大衆文化批評にリアルタイムで接することができた。広く読まれるようになる前からいち早く触れていたこうした論考に、ボードリヤールが影響を受けたのは間違いない。1966年には博士論文を発表したが、審査会のメンバーはロラン・バルト、アンリ・ルフェーブル、ピエール・ブルデューという、そうそうたる顔ぶれだった。それはまさにフランス現代思想の一大ブームが巻き起ころうとしていた時期で、彼は瞬く間に有名人となった。
「コンセプチュアル・アーティストで、パフォーマー的な哲学者」
それから20年後、物議を醸したホイットニー美術館での講演への反発として、ニューヨークの非営利アートスペース、ホワイト・コラムズで「レジスタンス(反ボードリヤール)」という抗議の展覧会が開催された。参加した40人のアーティストの一部は、ボードリヤール本人というより「何もかも現実ではない」という彼の考えに対し、政治的無関心を助長するものだと異議を唱えている。
ところが、ボードリヤールは自らの反対派に同調した──というのも、反対派が異議を唱えていた彼の主張は、実際に言ったこととは異なっていたからだ。彼の(しばしば誤解される)シミュレーション論は、アメリカや広告などが現実ではないと主張しているわけではない。むしろ、それらを「あたかも虚構であるかのように」理解することで、真実に近づけると考えていた。「ディズニーランドは、それ以外の全てが現実だと私たちに信じ込ませるために、虚構として提示されている」と彼は述べている。つまりそれは、憧れと気晴らしというアメリカの自己イメージのモデルとなるものなのだ。
ボードリヤールは、政治的には活動家というより挑発者だった。彼はニクソン政権の環境保護政策を、ベトナム戦争の惨劇から目をそらさせるための策略だと公言していた一方で、パリ大学(ナンテール校)で教えていた頃に起きた1968年の5月革命(ド・ゴール体制への反対運動)を支持することはなかった。のちに彼は、この時の学生運動を含むさまざまな事件について、そして9.11の同時多発テロでさえも、「出来事それ自体としてより象徴として重要だ」と評している。
彼のこうした発言や『湾岸戦争は起こらなかった』(1991)のような挑発的な著作タイトルは、面白味がないからではなく、無神経だという理由で批判されてきた。確かに彼には物事から心理的に距離を置こうとする傾向があり、それを無神経と言ってもいいかもしれない。妻のマルティーヌ(ボードリヤールは「マリーヌ」と呼んでいた)は、夫の皮肉について、知的な立場であると同時に性格でもあると語っている。
先日出版された新しい伝記、『Jean Baudrillard(ジャン・ボードリヤール)』はかなり短い。それはこの思想家が、自身の人生についてほとんど語らなかったためでもある。2005年にティルトン・ギャラリーで行われたトークイベントで彼は、「自分は自分のシミュラークルにすぎない」と語っていた。それでも内容を楽しく読めるのは、ボードリヤールがパフォーマンスアーティストのように、独特の皮肉混じりのユーモアを交えながら自分の主張を実践し、抽象的な考えを具体的な行動に移す様子が分かるからだ。
この伝記は文字通り、ボードリヤールの思想に命を吹き込み、生き生きとしたものとして示している。彼は著作にあまり注を付けず、ニーチェやマルクスからの「引用」を捏造することさえあったという。クリス・クラウス(作家・批評家で、出版社Semiotext(e)の編集者)は、彼を「コンセプチュアル・アーティストであり、パフォーマー的な哲学者」と呼んだが、伝記の著者たちもこれに同じ考えで、「思想家の生涯と作品がこれほどシームレスに一体となっている例は稀だ」と書いている。

アメリカ的イメージを真摯に捉えたボードリヤールの写真作品
コンセプチュアル・アートには懐疑的であることが多かったボードリヤールだが、写真に対してはもう少し寛容だった。ソフィ・カルの熱心な支持者だった彼は『宿命の戦略』(1990)で、やがては霧散してしまう意味へと観る者を誘い続ける彼女の作品は、魅惑的であると同時に空虚だと論じている。彼の教え子だったカルが17歳で大学を中退したとき、「彼女の父親を安心させるため」卒業証書を偽造したという噂もある。
ロサンゼルスのギャラリー、シャトー・シャトーが取り扱っているボードリヤールの写真作品には巧みなものが多く、意外なほど真摯にアメリカ的なイメージ(何もない砂漠や、誰もいない部屋でつけっぱなしになったテレビなど)を捉えている。また、アメリカに関心を寄せ続けていた彼は、丸々一冊の著作『アメリカ──砂漠よ永遠に』(1986)をこの国に捧げているが、そこには次のような名文句が出てくる。
「アメリカ人にはアイデンティティがない……しかし彼らには美しい歯並びがある」
ボードリヤールにとって写真とは、世界を凡庸であると同時に魅惑的にする力を持つものだった。彼が写真を好んでいたのはその「沈黙」ゆえで、意外な角度や奇妙なトリミング、反射などを用いることで芸術写真は神秘性を保ち、魅惑的であり続けられると信じていた。一方、ストレートなドキュメンタリー写真については、想像の余地が一切ない「猥褻さ」に陥る危険性があると考えていた。言い換えれば、写真は世界を小さく、あるいは奇妙なものにすることができる。彼の書く文章はしばしば宿命論的に感じられるが、その作品には僅かだが希望が宿っている。1993年のヴェネチア・ビエンナーレで展示された作品のように、彼はシミュラークルに抗う写真を作ろうとした。現実を見慣れないものとして提示することで、旧来のモデルをコピーするのではなく、新たなモデルを創造しようとしたのだ。
最晩年のエッセイの1つ、『Pornographie de la guerre(戦争ポルノ)』(2006)でボードリヤールは、イラクのアブグレイブ刑務所で起きたアメリカ軍人による捕虜虐待の写真について考察している。それらは恐ろしく、サディスティックで、紛れもなく猥褻な写真だ。彼はそのキャリアを通じて誘惑の力は猥褻さよりも強いと主張してきたが、ここでは後者の力を否定できなかった。現実を暴露することで、これらの写真はシステムを強化するのではなく、むしろ破壊すると彼は認めた。あらゆるものが入手可能で可視化された世界にあっても、私たちは時に衝撃を受けることもあるのだと彼は悟ったのだ。
ボードリヤールは、これを書いた翌年の2007年に死去した。だが、最近行われたあるカンファレンスのスローガンが皮肉っていたように、「もはやこの世にいないボードリヤールは、私たちが生きているこの世界を分析できないかもしれないが、彼はすでにそれをやり終えている」のだ。この新しい伝記は、ボードリヤールが今の時代を見たら何と言うだろうかと想像させるだけでなく、彼ならどう行動するだろうかと私たちに考えさせる。(翻訳:野澤朋代)
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