名作誕生の背景にはクリスマスがあった──4人のアーティストの運命を変えた物語
クリスマスをきっかけに、キャリアを切り拓いたアーティストたちがいる。ニューヨーク近代美術館のクリスマスカード企画を機にキャリアが花開いたロバート・インディアナから、クリスマス休暇中に受けた一本の電話が飛躍へとつながったアルフォンス・ミュシャまで、4人のアーティストのストーリーを紹介する。

編註:こちらの記事は毎週金曜日に配信されているニュースレターに加筆修正を加えたものです。
インディアナの「LOVE」誕生秘話
クリスマスをきっかけに、キャリアをスタートさせ、あるいは大きく飛躍したアーティストたちがいる。
まずは、20世紀アメリカを代表するアーティスト、ロバート・インディアナだ。彼の作品で最もよく知られているのは、「LOVE」のアルファベットを上下に積み重ね、「O」をわずかに傾けたシリーズだろう。実はこの造形は、同時代の画家エルズワース・ケリーの影響が大きい。
イギリスの大学で美術を学んだ後、ニューヨークに移住したインディアナは、1956年にケリーと出会う。ケリーはアグネス・マーティンやサイ・トゥオンブリーといった先駆的な画家を彼に紹介し、自身が実践していた平面的なフォルムと色彩をシャープな輪郭によって処理する絵画様式「ハード・エッジ抽象」を伝えた。こうした作家たちとの出会いとその影響の中で、インディアナは「LOVE」へとつながる構想を育んでいった。
そして1965年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)は、クリスマスカードのデザインを新進アーティストに依頼するプロジェクトでインディアナを抜擢し、赤・青・緑で構成された《LOVE》を採用。このカードは、同館が制作した商品の中でも特に大きな成功を収めたものの一つとなり、彼の作品を幅広い層へと広めることとなる。このMoMAのホリデーカードの爆発的成功を受け、《LOVE》はポップ・アート運動の象徴となり、さらには「愛・平和・反戦」を掲げたラブ・ジェネレーションのシンボルとして独自の生命を持つようになった。有名な《LOVE》の立体作品は1970年代頃から制作されはじめ、現在では日本の新宿をはじめ、世界各地に50点以上のパブリックアートが設置されている。
クリスマスギフトで顧客の心をつかんだアンディ・ウォーホル

同じく、クリスマスカードを通じてキャリアを切り拓いたのがアンディ・ウォーホルだ。1950年代、まだ無名だったウォーホルはニューヨークで広告、雑誌、百貨店向けのイラストレーターとして生計を立てており、毎年クリスマスになると顧客や取引先に送るカードを制作していた。その中でも特に有名なのがティファニーのもので、彼が同ブランドのために手掛けたクリスマスカード50点を収録した『Greetings from Andy Warhol – Christmas at Tiffany’s』が2004年に出版されている。
ウォーホルの両親は「東方典礼カトリック」を信仰しており、彼は子どもの頃、ユリウス暦に基づく1月7日にクリスマスを祝っていた。そのためクラスメイトと話が合わないなど、苦い思い出もあったようだが、彼にとってクリスマスは特別な意味を持つ行事だった。初期に自費出版した書籍の多くも、クリスマスの時期に合わせて制作されている。ウォーホルは一年の感謝の印として、贈り物と共にそれらの書籍をクライアントに届けており、それは毎年心待ちにされていたという。1980年代、押しも押されぬ大アーティストとなってからも、その習慣をやめることはなかった。ニューヨークの花屋で配達の仕事をしていた若い芸術家は、「何日もかけてウォーホルの注文品を運んで回った」と後に語っている。
アルフォンス・ミュシャに訪れたクリスマスの幸運

世界中に名を知られる芸術家、アルフォンス・ミュシャのはじまりも、クリスマスと深く結びついている。1894年のクリスマス翌日、当時34歳のミュシャはパリのルメルシエ印刷所で働く無名の画家だった。一方、すでに演劇界初の世界的スターであったサラ・ベルナールは、自身が主演する舞台『ジスモンダ』の上演期間延長を決め、急遽ポスターを差し替える必要に迫られていた。彼女からの電話を受けた印刷所はクリスマス休暇中で、先輩画家たちは不在。そこにいたのは、友人の校正仕事を肩代わりしていたミュシャ一人だけだった。彼は以前ベルナールを描いた経験があったため即座に依頼を引き受け、休暇返上で描き上げた。
1895年の元日、ミュシャによる、サラ・ベルナールをビザンティンの聖像のように描いた型破りなポスターが街頭に掲示されると、パリ市民の間で瞬く間に話題となった。あまりの人気に、自分のものにしようとポスターを剥がして持ち帰る者が現れたほどだったという。この成功をきっかけに、サラ・ベルナールとの6年間の専属契約や有名企業からの仕事が次々と舞い込み、ミュシャの名声は不動のものとなっていく。
ノーマン・ロックウェルの原点は『クリスマス・キャロル』

アメリカの人々の暮らしを軽妙なタッチで描いた画家・イラストレーター、ノーマン・ロックウェルの原点もまたクリスマスだった。彼の両親は美術学校への進学に反対していたが、14歳の頃に描いたチャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』の守銭奴スクルージの絵を見て、考えが変わったという逸話が残っている。その後、16歳で初めて受けた仕事も4枚のクリスマスカードだった。
ロックウェルは60年以上にわたるキャリアの中で、ライフワークだった「サタデー・イブニング・ポスト」のクリスマス号をはじめ、数多くのクリスマスの情景を描き続けた。プレゼントを抱えてパーティに向かう家族や、サンタを待ちくたびれて椅子で眠ってしまう子どもたち。いずれも日常を切り取ったように見えるが、実際には徹底的に計画され、演出された場面だ。彼はまず頭の中で構想を練り、スケッチを描き、小道具を集め、モデルを選び、場所を探し終えてから、スタジオや現地で写真撮影を行っていたという。
ロックウェルは自著『My Adventures As An Illustrator』の中で、創作の目的について、「私の基本的な目的は典型的なアメリカ人を解釈することだ。私はストーリーテラーだ」と語っている。この徹底した仕事の背景には、見る者に人々が織りなす物語を正確に伝えたいという思いがあった。彼が残したクリスマスの作品の数々は、単なるアメリカの祝祭の記録ではなく、人と人とを結ぶ物語として、時代を超えて語りかけてくる。