多士済々のポスト印象派──セザンヌ、スーラ、ゴッホまで、近代美術を切り開いた革新の軌跡
ポスト印象派は、近代美術の揺籃期を象徴する芸術運動だ。印象派からいかに発展し、20世紀のアートにどのような影響を与えたのか。多様なスタイルを生み出し、20世紀美術への扉を開いたポスト印象派の代表作家による、美術史に大革新をもたらした作品の数々を紹介しよう。
美術史における時代区分の名称に「ポスト(〜後)」という接頭辞がついていると、直前の様式から劣化しているわけではないにしても、独自の名前で呼ぶにはまとまりがなさすぎるのだろうと思われがちだ。印象派の成果に立脚した多様な様式の総称であるポスト印象派も例外ではない。
しかし、1880年から1900年にかけて隆盛したポスト印象派は、形式と主題にさまざまな革新をもたらし、19世紀美術を新たな内省の段階へと押し上げた。ピエール・ボナールやポール・セザンヌ、アンリ=エドモン・クロス、 モーリス・ドニ、ジェームズ・アンソール、ポール・ゴーギャン、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、ギュスターヴ・モロー、エドヴァルド・ムンク、オディロン・ルドン、ジョルジュ・スーラ、ポール・シニャック、フィンセント・ファン・ゴッホ、エドゥアール・ヴュイヤールなど、この時代に活躍したアーティストの作品は、世紀を超えて影響力を保ち、抽象芸術や表現主義、シュルレアリスムが生まれる土台となった。
ポスト印象派と印象派の共通点と相違点

ポスト印象派は、先行する印象派による色彩や形態、構図の探求をさらに押し進め、日本の美術や意匠に対する憧れ(フランスでジャポニスムと呼ばれた)も引き継いでいる。そして、日本風の表現をヨーロッパ美術の中へとさらに浸透させたのが、この時代に活躍したゴッホやロートレックなどの画家たちだった。その一方でポスト印象派はロマン主義に立ち返り、感情表現に重きを置いた。そうすることで芸術と実生活の隔たりを縮め、無意識の領域を探求する根本的に新しい主観表現を生み出したのだ。
ポスト印象派はまた、印象派の技法や、その特徴である筆跡を強調したスタイルを発展させている。さらに、カンバスは具体的な表象世界への窓であるという、ルネサンス以来の考え方を問い直した点で印象派の一歩先に出た。その意味でポスト印象派は、少しずつ重なり合う2つの道筋を同時に歩んでいたと言えるかもしれない。1つは絵の画面がその向こう側を眺めるための枠ではなく、それ自体が対象物として見られるようになったこと。もう1つは、絵の画面が1人のアーティストの精神状態の反映として認識されるようになったことだ。最終的にポスト印象派は、自然主義的な色使いに取って代わる独自の色彩言語を生み出した。
スーラが開拓した点描法の革新性

ポスト印象派が20世紀美術に与えた影響を考察するには、おそらく最も広く知られ、形式的に際立った技法である点描から始めるべきだろう。この技法は、ジョルジュ・スーラ(1859-1891)の傑作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884)で初めて登場した。さまざまな階層のパリっ子たちが公園で週末を過ごしている様子を描いたこの絵は、モールス信号のように打たれた無数の点で描かれており、至近距離では判読不能だが、何歩か下がって見ると具体的な形が見えてくる。
隣り合わせで塗った2色の絵の具を離れたところから見ると、それらが混ざり合って別の色に見えることを発見したスーラは、絵筆ではなく見る者の目を使って混色することを実践した。評論家のシャルル・ブランと化学者のミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの知見を発展させ、スーラがクロモルミナリズムと呼んだこの概念は、その作品の基礎をなすものだ。彼は、それを芸術より科学の文脈で語ることを好んだという。
つまりスーラは視覚的なトリックを使い、それまで追求されてきた絵画空間の本物らしさが虚構だという最初のヒントを観客に示してみせたのだ。《グランド・ジャット島の日曜日の午後》で彼は、絵の周りに点描の縁取りを描いており、《オンフルールの夕暮れ》(1886)と題された海景画ではそれをさらに拡張して額縁を点描で覆っている。このようにスーラは、作品の「物体」としての側面を強調したが、これが再び探求されたのは20世紀後半になってからだった。極めて大きな影響力を持った点描法は1つの芸術運動に発展し、ポール・シニャック(1863-1935)やアンリ=エドモン・クロス(1856-1910)など多くのアーティストを惹きつけている。
スーラの親友で「新印象派」という言葉を考案したシニャックは、スーラが参照していたのと同じ色彩理論の文献を読み、彼に引けを取らないほど革新的な絵画を生み出した。その代表的なものが《Opus 217. Sur l'émail d'un fond rythmique de mesures et d'angles, de tons et de teintes, Portrait de M. Félix Fénéon(作品217:きらめくビートと角度、色調と色合いのリズムを背景にしたフェリックス・フェネオン氏の肖像)》(1890)で、渦巻く極彩色の模様を背景に横向きに立つ美術評論家で画商のフェネオンの上半身が描かれている。
この絵には奥行きの感覚がなく、フェネオンの姿は背景の上に貼り付けられた切り抜きのようだ。特徴的な顎ひげをたくわえ、黄土色のフロックコートを身につけた彼は、シルクハットと手袋とステッキを片手に持ち、もう一方の手の親指と人差し指で蘭の花をそっとつまんで腕を差し出している。背景のサイケデリックな渦巻きは、日本の着物の柄に関する書籍を参考にしたという説もあるが、軽快で躍動感あふれるフェネオン氏の肖像画は当時としては驚くほど前衛的な作品だった。
一方、クロスが点描法を用いるようになったのはシニャックよりかなり遅く、エドゥアール・マネに似た画風で10年ほど制作した後にこの技法を取り入れている。当初はスーラの技法をそのまま採用して静物画や風景画、肖像画を描いていたが、段々とその作業を面倒だと感じるようになった。彼は次第に点の大きさを拡大していき、やがて色とりどりのタイルを並べたモザイクのような画風へと発展させている。スーラが実験の末に辿り着いた厳密な法則に基づく配色で描いていたのに対し、思うままに色を選択したクロスの手法は、のちにアンドレ・ドランやアンリ・マティスなどの野獣派(フォーヴィスム)に大きな影響を与えることになる。
セザンヌの筆遣いと構図の独自性

ポスト印象派と20世紀初頭の美術を結ぶ架け橋として、最も大きな役割を果たしたのは間違いなくポール・セザンヌ(1839-1906)だろう。パブロ・ピカソが《アヴィニョンの娘たち》(1907)で用いた、いくつもの面を組み合わせた断片的な表現もセザンヌに負うところが大きい。のみの削り跡か、角張った斑点のようなセザンヌの独特な筆使いと、一点透視図法から脱却した彼の構図が先例としてあったからこそ生まれ得た表現だと言える。
印象派の画家たちと同時代人のセザンヌは、1877年に開催された第3回印象派展に参加した。しかし出品作への否定的な反応に嫌気がさし、その後は彼らとともに作品を発表することはなかった。その頃、リンゴをモチーフとした一連の有名な静物画を描き始め、制作場所を故郷のエクス=アン=プロヴァンスに移してからは、サント=ヴィクトワール山のゴツゴツした山肌を描いた作品や、新古典主義を思わせる水浴者の具象画、トランプをする無表情な男たちの絵などを制作している。セザンヌはこうした作品で、個々の要素を全体の中に溶け込ませながら暖色と寒色を巧みに配置し、見る者の視線が自然と画面全体を巡るように構図を組み立てている。彼はこの視覚的な仕掛けを「小さな感覚」と呼んだ。
モーリス・ドニとナビ派の平面性

セザンヌは絵の具の物質性を強調し、ロートレックやゴーギャンらとともに絵画によるイリュージョンを深く問い直したが、こうした概念を初めて言語化したのは、美術評論家としても活動したモーリス・ドニ(1870-1943)が1890年に発表した論考だった。当時弱冠19歳だったドニは、ピエール・ルイの名で執筆したこの小論で「絵画の本質は、軍馬や裸婦、あるいは何らかの逸話である以前に、ある秩序で組み合わされた色彩に覆われた平面だ」と指摘した。この言葉によってドニは、一見当たり前と思える事実をモダニズムの礎石へと変えた。
ドニ自身の絵画は、ディテールを省略したシンプルな造形によって構成され、宗教的なテーマを扱っていることが多い。たとえば《Paysage aux arbres verts(緑の木々のある風景)》(1893)という謎めいた絵では、白い修道服を着た幽霊のような修道女たちが、アスパラガスを思わせる細長い樹木が並ぶ森の中を一列になって進んでいる。その数年前に描かれた《Le Christ vert(緑色のキリスト)》(1890)はより簡略化された形で、赤と黄色の背景の前に磔になったイエスが薄緑のシルエットとして表現されている。
パリのアカデミー・ジュリアンに在学中、ドニは志を同じくする作家たちとグループを結成し、ナビ派を名乗っている。古代ヘブライ語で「預言者」を意味するこの名称は、新たな芸術の到来を告げようという彼らの志を象徴していた。メンバーの中でも特に著名な2人の画家、エドゥアール・ヴュイヤール(1868-1940)とピエール・ボナール(1867-1947)は、風景や庭園の絵も描いたが、一般家庭の室内風景を内面世界の象徴として描いたことが評価されている。彼らは2人ともジャポニスムの影響を受け、どちらも女性像を多く描いた。
母がお針子だったヴュイヤールには、特に縫い物をする女性の絵が多い。また、服や壁紙などに細かく模様を描くことを好み、しばしば前者を後者に重ねることで人物と背景の境界を曖昧にした。たとえば《The Suitor(求婚者)》(1893)という絵の中の女性は、花模様の中に溶け込んでしまいそうに見える。
ボナールもまた、模様を使って奥行きの感覚を打ち消し、歪んだ視点とブロックのように並べた色彩で絵を構成した。晩年の彼は、浴槽に横たわる妻の姿を俯瞰で描いた連作を制作している。ボナールは時に彼女の身体を浴槽の枠ですっぽりと囲み、さらにそれを床のタイル模様と壁に並んだ鮮やかな色面の間に閉じ込めることで、引きこもりがちな妻の性格を示唆している。
ロートレック、ゴッホ、ゴーギャン、それぞれの道

芸術作品には芸術家の生き方が反映されるという考えも、ポスト印象派によってもたらされた。このようなイメージの先駆けとなったのは、自らの経験や生き方を作品に落とし込む手法を模索したアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)、ポール・ゴーギャン(1848-1903)という3人の芸術家だった。
ロートレックの作品、中でもグラフィック・アートは、1871年から第1次世界大戦が始まる1914年まで続いたベル・エポック(美しい時代)を代表するイメージとなった。この時代に急速に発展したのがテクノロジーと文化で、アートや文学、ファッション、音楽などが活況を呈した。だがロートレックを語る上でさらに重要なのは、この時代に今に通じるナイトライフが生まれたことだろう。彼はバーやビストロ、売春宿、キャバレー、クラブ、ダンスホールなどが織りなす夜の世界の常連であると同時に観察者でもあった。
南仏の貴族の家系に生まれたロートレックは、その低身長のため、社会から疎外され嘲笑の対象となっていた。幼少期に両足を骨折した彼は遺伝的な欠陥のためケガが完治せず、脚の発達が止まってしまったのだ。その障害によって彼は心に傷を負っただけでなく、周囲から浮いた存在となった。
そんなロートレックは、ベル・エポック期のパリを酒と売春の誘惑に満ちた猥雑な場所として描いている。彼自身もその両方に耽溺し、多くのボヘミアンたちと同様、特にアブサンを好んだ。19世紀のさまざまな絵画に登場するこの強烈な酒の特徴である緑色を頻繁に使ったロートレックは、常連客として通っていたムーラン・ルージュを題材にした数多くの絵画やパステル画でそれを用いている。たとえば、1895年の代表作《ムーラン・ルージュにて》では、濃いエメラルドグリーンの背景に、どぎつい緑色の照明に照らされた仮面のような女性の顔が浮かび上がる。
ロートレックの作品にはまた、売春婦がよく登場する。その関係は搾取的なものではあったが、彼は社会の周縁に追いやられた女性たちに共感し、同情を込めてその姿を描写していた。そのほか、ダンサーや歌手などの身近な有名人や、彼女たちが出演するホールやキャバレーを題材にした作品もある。
人気の舞台に立つ有名人は、ロートレックの版画にもしばしば登場する。1890年代のパリを活写したロートレックは版画というメディアに革命をもたらし、新技法であるクロモリトグラフを駆使して、「ディヴァン・ジャポネ」や「シャ・ノワール」といったキャバレーのために大判のカラーポスターを制作した。日本の浮世絵に影響を受け、当時の大衆文化を体現した広告を制作したロートレックは、ポップ・アーティストの先駆けというべき存在だった。
芸術家として成功し、大きな功績を残したにもかかわらず、ロートレックは悲惨な最期を迎えている。アルコール依存症と梅毒により36歳で死去した彼は、苦悩するアウトサイダーとしての芸術家の象徴となった。だが、ロートレックを凌駕したのが、このタイプの典型として知られるようになったフィンセント・ファン・ゴッホだ。
ファン・ゴッホは、ロマン主義の自然崇拝と自然の力への畏怖を復活させようとした。絵画の戸外制作を始めたのは印象派だったが、ファン・ゴッホはそれを新たな高みへと引き上げ、強烈な作品を生み出している。《星月夜》(1889)では狂気じみた渦巻きで空を炎上させ、《カラスのいる麦畑》(1890)では炎のような黄色の筆跡で絵を燃え上がらせ、アイリスの習作では青、白、緑の筆触がとぐろを巻いている。そして最後の自画像とされる1889年の作品では、青みを帯びた蒸気のような渦に囲まれた彼が、まるで鑑賞者の眼の前で気化しているかのように見える。
正確かどうかはさておき、ファン・ゴッホの絵の強烈さは、しばしば彼の精神疾患に起因するとされる。これに関して最も有名なエピソードは、ゴーギャンとの関係がこじれて自らの耳を切り落とそうとした事件だろう。ゴーギャンより5歳年下のファン・ゴッホは、師と仰いでいたゴーギャンを「司教」とする芸術家の共同体を作りたいと夢見ていた。彼は1888年にゴーギャンを南仏のアルルに招いたが、それに応じたゴーギャンの動機は金銭的なものだった。画商として両者の絵を扱っていたファン・ゴッホの弟テオが、兄と同居すれば月に150フランの生活費を支給するとゴーギャンに提案していたのだ。しかし、いざ同居が始まると2人は激しい論争を繰り返し、ゴーギャンはわずか3カ月でアルルを飛び出した。そしてファン・ゴッホは、剃刀で耳を切り落とそうとするまで追い詰められてしまう。
当然ながら彼らの言い争いは芸術に関するもので、ファン・ゴッホが「自然の導きに従って制作すべきだ」と主張したのに対し、ゴーギャンは「想像力の優位性」を主張して譲らなかった。そしてゴーギャンが想像力を自由に羽ばたかせるには、現実からの文字通りの逃避、より正確には慣習からの脱却が必要だった。
株の仲買人を何年も務め、防水布のセールスマンとしても働いたゴーギャンは、芸術の道を追求するために妻と5人の子供たちを捨てた。そして画題を求め、ブルターニュ地方やパナマ、マルティニークなど各地を渡り歩いている。中でも広く知られているのはタヒチへの旅だろう。1891年から93年にかけて初めてそこに滞在したゴーギャンは、いったんパリに戻り、1895年にタヒチに戻って6年過ごした後、この世を去るまでマルケサス諸島で暮らしている。
ファン・ゴッホが狂気に駆られた芸術家の典型だとしたら、ゴーギャンは、異国の生活様式に溶け込もうとした中年芸術家の典型だと言える。彼は茅葺きの小屋に住み、年端の行かない少女たちを情婦とし(その中には13歳の少女もいた)、何人かとの間には子どもをもうけている。1970年代頃からは、こうした未成年の女性との関係や、彼女たちに梅毒を感染させたという噂、そしてフランス領ポリネシアを官能主義者にとっての楽園と見なしたことが、彼の芸術的評価に影を落としてきた。しかし最近刊行された伝記は、彼の生涯と作品に関してより複雑な見方ができると主張している。
思春期に差しかかったばかりの愛人たちは、ゴーギャンの絵にも登場する。最も有名な《死霊が見ている》(1892)では、3人の「現地妻」のうち最初の相手であるテハマナがベッドに裸で横たわり、後方の画面左側にタイトルにある死霊が浮かんでいる。
《死霊が見ている》は、人物を平面的に描き、黒い輪郭線でそれを強調するゴーギャンらしい様式の絵だ。この描き方は、銅板の上に針金を置いて区画を作り、そこに粉末状の色ガラスを配置して焼成する七宝焼き(クロワゾネ)に似ていることから、評論家のエドゥアール・デュジャルダンによって「クロワゾニスム」と名付けられた。
この絵には、霊的な世界と日常を混ぜ合わせるゴーギャンの特徴が出ている。同じ特徴が見られるのが、ブルターニュの風景を背景に磔刑の場面を描いた《黄色いキリスト》(1889)だ。伝統衣装を着た3人のブルトン人女性がキリストの下に座っている様子を描いたこの絵は、他の作品同様、ジャポニスムにプリミティヴィズムの要素が加えられている。
象徴主義を代表するルドンとモロー

異界や神の領域を仄めかす図像はゴーギャンやドニの作品にも見られるが、それを出発点として寓話的な夢を思わせる作品を生み出したのが象徴派として知られる画家たちだった。オディロン・ルドン(1840-1916)やv(1826-98)などの象徴派は、ゴーギャン以上に純粋な想像力だけを拠りどころとして作品世界を構築している。
象徴主義の画家で最も有名なのは「ノワール(黒)」と呼ばれるリトグラフや木炭画で知られるルドンだろう。美術評論家でもあった作家のジョリ=カルル・ユイスマンスは、ルドンの版画を収集する退廃的な耽美主義者の青年貴族を描いた1884年の小説『さかしま』でノワールを登場させている。そして、この小説が大成功を収めたことで、ルドンの知名度は高まった。
ノワールの中でも特に風変わりな作品が《L'Œil, comme un ballon bizarre se dirige vers l'infini》(眼は奇妙な風船のように無限へと昇る)》(1882)で、エドガー・アラン・ポーに捧げられたこの絵は、タイトル通り人間の頭を乗せた皿を吊り下げた眼球が気球のように天空へと昇っていくさまを描いている。また、水平線を横切る帆船の上に浮かぶ巨大な頭を描いた初期の木炭画《L'Esprit Gardien des Eaux(水の守護霊)》(1878)や、歯を見せて笑う毛深いクモを描いた《L'Araignée souriante(微笑む蜘蛛)》(1881)なども仄暗いモノトーンの絵だ。一方でルドンは油彩画も手がけている。たとえば、ギリシャ神話のポリュペーモスの物語を幻想的な風景の中に再構築した《キュクロープス》(1914年頃)は色彩豊かだが、それでも不穏な空気が漂う。
モローの作品も同様に幻覚的で、彼が描くギリシャ神話や聖書の物語は麻薬の影響下で見る幻影のようだ。モローはジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの弟子だったテオドール・シャセリオーを敬愛しており、《オイディプスとスフィンクス》(1864)という奇妙な絵にもアングルの影響が明確に見て取れる。同じ主題を扱ったアングルの作品をもとにしているこの絵は、スフィンクスがオイディプスに解けなければ死んでしまう謎を出した場面を描いている。しかし、アングルの絵では両者の間に距離があるのに対し、モローのスフィンクスはオイディプスの胸に飛び乗っており、重力に逆らいながら彼に性的暴行を加えようとしているように見える。
モローの最も有名な作品である《出現》(1874-76)もまた、倒錯的なエロティシズムに満ちている。皿に乗せられた洗礼者ヨハネの首がサロメに届けられる新約聖書の物語を題材にしているが、モローはこのエピソードを再構築し、裸体に近いサロメの目の前で切断された頭部が浮遊する、狂気に満ちた幻影として描き出している。
表現主義の源流となったアンソールとムンク

冒頭に記した通り、シュルレアリスムと表現主義の源流はポスト印象派にあり、特にジェームズ・アンソール(1860-1949)とエドヴァルド・ムンク(1863-1944)の作品にその萌芽を見出すことができる。長寿だった彼らは、自らの作品が蒔いた種がモダニズムにおける最も重要な2つの芸術運動へと開花するのを見届けることができた。
アンソールはその生涯の大半を、ベルギー・フランドル地方のオステンドで過ごしている。彼の家族は海岸沿いの避暑地であるこの街で、観光客向けの土産物店を営んでいた。毎年カーニバルの時期になると店は特に繁盛し、そこで売られていた仮装用の仮面は、絵のように美しいオステンドの街並みに不気味な彩りを添えた。この仮面は、世紀末のヨーロッパの底に渦巻く暗い流れを探求したアンソール作品の中で、象徴的なモチーフとして使われている。
アンソールはセザンヌの荒い筆致をさらに発展させ、両親の店にあった貝殻や海をモチーフにした小物に触発された色使いをしている。ピンクや緑など「きらびやかな豪華さ」とアンソールが表現した派手な色彩は、彼の作品から垣間見える偏屈な人間嫌いや、そこにたっぷり含まれる自己嫌悪とは対照的だった。
こうした姿勢は、《キリストのブリュッセル入城》(1888)という終末論的な絵で頂点に達する。イエスのエルサレム入城の物語の舞台をベルギーの首都に移し替えたこの作品では、派手な仮装をした人々が無秩序にひしめき合っている。群衆の中の顔の多くはアンソールの家族や役人、そしてサド侯爵のような歴史上の人物を風刺的に描いたものだ。アンソールは中央に自らの姿を小さなキリストとして描き、見過ごされた芸術家としての苦悩を、皮肉を込めて表現している。
仮面や衣装、頭蓋骨といった実物の小道具を組み合わせたアンソールの怪物たちは、奇妙ではあるが現実を基盤としていた。たとえば《死と向き合う仮面)》(1888)では、布を被った仮面の群れが死神を取り囲んでいる。ただ、その死神は頭蓋骨を使った人形に過ぎず、頭には女性用の帽子が置かれ、顎の下には白いナプキンのような布が詰め込まれている。
アンソールと同様、またはそれ以上に神経症的だったのがムンクで、そうした気質は彼の作品にも如実に表れている。幼少期に慢性疾患や兄弟の早逝を経験し、家族に伝わる精神疾患に自分も罹るのではないかと怯えていたムンクは、「生まれた瞬間からずっと、私のそばには不安と心配と死という天使たちがいた」と記している。
それは、1890年代に制作した絵画や紙を支持体とした作品に付けられた《絶望》、《憂鬱》、《死の床で》というタイトルに表れている。どの作品にも登場するエクトプラズムのような人物は、うねるような色の帯の間に閉じ込められ、苦悩から抜け出せずにいるようだ。これが最も鮮やかに表現されているのが、ムンクの最高傑作《叫び》(1893)だろう。橋の上に立ち、地獄のような空の下で叫び声を上げる幽霊のような人物を描いたこの作品は、間違いなく美術史上最も有名な絵画の1つで、産業革命ですっかり変わってしまった世の中で人々が感じる不安を体現している。
だが、こうした解釈では捉えきれない側面がこの絵にはある。それは、ロマン主義的な崇高さの感覚で、ムンク自身が実体験したものだ。「2人の友人と小道を歩いていた時、突然空が血のように赤く染まった。私は不安に震えながら立ち尽くし、無限の叫びが自然を貫くのを感じた」と彼は記している。つまり《叫び》はムンクが受けた啓示の記録で、絵の中で慄いている人物は彼自身を表しているのだ。
ポスト印象派が残したもの

イタリアにおけるポスト印象派は、スーラのクロモルミナリズム理論を取り入れた分割主義として広がった。イタリアの分割主義者たちは政治的なテーマも扱っており、ジュゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード(1868-1907)が1901年に手がけた大作《第四階級》では、隊列を組んで鑑賞者の方に向かってくるストライキ中の労働者たちが描かれている。
ポスト印象派の影響は20世紀に入ってもさまざまな形で残っていた。前述したように、その技法は変容を遂げながらフォーヴィスムに受け継がれただけでなく、イタリアで興った未来派の初期作品にも影響を与えている。ジャコモ・バッラが1912年に手がけた《鎖に繋がれた犬のダイナミズム》と《バルコニーを走る少女》の表現が、スーラの点描法を発展させたものであることは明らかだ。また、ピカソが合成キュビスム時代に描いた《コンポートとグラスのある静物》(1914-15)では、この技法がより直接的に取り入れられている。
一方、象徴主義的な主題はグスタフ・クリムトに受け継がれた。彼は金箔を用いた背景などビザンチン美術の要素を取り入れ、《接吻》(1907-08)や《抱擁》(1905-09)などの作品を生み出している。
ここで紹介したアーティストたちが進んだ方向は一見するとバラバラだが、ポスト印象派の重要性は、まさにそうした多種多様なスタイルと気質に依拠している。個々の作風はまったく異なるが、彼らはルネサンス以来最大の変革を西洋美術にもたらしたのだ。(翻訳:野澤朋代)
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