マルジェラ、服を脱いだ批評──「MARTIN MARGIELA AT KUDAN HOUSE」【EDITOR’S NOTES】

東京で開催されたマルタン・マルジェラの大規模個展「MARTIN MARGIELA AT KUDAN HOUSE」は、稀代のデザイナーのポスト・ファッションの実践を問い直す展示だった。デザイナーとして試みた服飾制度への批評は、アートの領域でどう機能するのか。

《Torso Ⅲ (Black)》©Nils Edström

東京・九段下の九段ハウスで開催された「MARTIN MARGIELA AT KUDAN HOUSE」は、ファッションブランド「Maison Margiela」の創設者マルタン・マルジェラを、「ファッションデザイナーから現代美術家へ転身した人物」としてではなく、一貫した思考を持つ作家として捉え直す展示だった。

2008年にファッション界から退いた後、彼はアート制作へ軸足を移したが、本展を見る限り、その表現は決して断絶していない。むしろ現在の作品群は、彼がかつて服で行っていた実験を、衣服という機能から解放したものに見える。

展示では2011〜2025年に制作されたコラージュ、彫刻、アッサンブラージュなど38点を披露。髪の毛を用いた《Vanitas》シリーズや、都市構造物を人工毛で覆った《Barrier》シリーズ、身体の痕跡だけを残す《Torso》シリーズなど、作品のモチーフは多様だ。しかし全体を貫くのは、「再利用」「分解」「変容」というマルジェラ特有の方法論である。

《Grey Steps I & III》©Nils Edström
《Phantom XV (Top Coat)》©Nils Edström
《Vanitas II》©Nils Edström
《Barrier Sculpture (Black)》、《Barrier Mural Black)》©Nils Edström
《Dust Cover》©Nils Edström
《Bus Stop》©Nils Edström
《Nail Clippings》©Nils Edström
《Mould(S)》©Nils Edström

それは、彼がファッション時代から行ってきた操作そのものだ。ただしここで確認しておきたいのは、マルジェラの服のラディカルさがどこにあったか、という点だ。彼の批評性は、当時の川久保玲やフセイン・チャラヤンの構造実験のような造形の視覚的な衝撃にあったとは言い難い。むしろマルジェラは、西欧高級服の語彙をあえて内側から使いながら、その語彙が前提としている規範を静かに掘り崩した。端を始末しないジャケット、トルソーをそのまま服にすることなど、完璧さを求める規範への攻撃であり、「衣服は身体を理想化するための道具である」という前提への異議申し立てだ。白タグによる匿名化も、モデルの顔を隠すショー演出も、コレクションに通し番号を振ることも、すべて同じ構造を持つ——西欧服飾制度の文法を使いながら、その文法が成立している土台を内部から告発する、という身振りだ。

だが服である以上、最終的には身体に着られ、市場で流通する必要があった。そのため彼の服は、極めてラディカルでありながら、かろうじてプロダクトとして成立する緊張感の上に存在していた。言い換えれば、マルジェラのコンセプトは「西欧服飾制度との摩擦」によって発火していた。制度の内側にいることが、批評の条件だったのだ。

一方、本展の作品にはその制約はない。身体に着せる必要も、機能性を満たす必要もない。摩擦の相手だった制度の外に彼は今いるが、その結果、マルジェラの「解体」は、より直接的に物質そのものへと向けられている。髪、布、シリコン、廃材といった素材は用途から切り離され、不穏な存在へと変化する。そこには、ファッションブランドとしてのマルジェラ以上に冷徹な、人間不在の感覚が漂う。彼は、衣服という形式を離れることで、長年追求してきた「制度をずらす」という思考の先鋭化を試みたわけだが、皮肉なことに、それは西欧服飾制度の内側にいることで初めて機能していたとも言える。その制度を離れたとき、同じ思考がどれほどの自律性を持ち得るか——批評の刃が向かう制度そのものを失ったことで、作品はかつての緊張感とは異なる静けさの中に佇んでいる。

東京での展示は終了したが、5月16日までタカ・イシイギャラリー 京都で開催中だ。同じく終幕を迎えるKYOTOGRAPHIEを見がてら立ち寄ってみてはいかがか。

マルタン・マルジェラ
場所:タカ・イシイギャラリー 京都
会期:2026年4月17日(金)~5月16日(土)
時間:10:00~17:30
休み:日~水曜日、祝日

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