路上に生きた日系アメリカ人アーティスト、ジミー・ミリキタニ──コラージュ的生と創作を再考

強制収容所、市民権放棄、そして路上生活という波乱の人生を送り、美術界の周縁で制作を続けた日系アメリカ人アーティスト、ジミー・ツトム・ミリキタニ(日本名:三力谷勉)。その非凡な物語と作品に、ようやく光が当たり始めている。

ジミー・ツトム・ミリキタニ《Untitled, (Tule Lake: cemetery)》(2002) Photo: Smithsonian American Art Museum
ジミー・ツトム・ミリキタニ《Untitled, (Tule Lake: cemetery)》(2002) Photo: Smithsonian American Art Museum

独創的で他に類を見ないビジョンを持つコラージュ作家、ジミー・ツトム・ミリキタニ(日本名:三力谷勉)の個展「Street Nihonga」が、現在カンザス州ローレンスのスペンサー美術館で開かれている(6月28日まで)。

ミリキタニは、最近ようやく美術館で取り上げられるようになったアーティストだ。その本格的な回顧展を企画した共同キュレーターの金子牧とクリス・イマンツ・アーカムズは、展示を年代順ではなくテーマごとに構成した。この構成は、人生を一変させるような出来事にたびたび直面し、過去の出来事が絶えず影を落とす中で生きてきたミキリタニのコラージュのような人生を反映したものだ。

波乱に満ちたミリキタニの人生

1920年、アメリカのカリフォルニア州サクラメントで日系移民の両親のもとに生まれたミリキタニは、4歳で両親の故郷・広島に移住し、日本画を学ぶ。18歳でアメリカに帰国するが、真珠湾攻撃後の1942年から約5年間、ツールレイクの日系人強制収容所を含む数カ所の強制収容所に拘留され、そこで市民権を放棄する(*1)。1945年には広島への原爆投下により多くの友人や家族を失う。収容所を出たあとは長きにわたりコックとして働くが、アートの世界が大きく変わろうとしていた1950年代半ばに失業し、ニューヨークでの路上生活を余儀なくされる。当時のニューヨークでは多文化主義が広まりつつあり、ほどなくギャラリーにもストリートアートが並ぶようになっていった。

*1 アメリカ生まれのミリキタニは戦時中、日系人強制収容所で言われるがままに市民権を放棄した。その後、放棄は無効とされたが、転居を繰り返していたミリキタニはその通知を受け取れなかった。のちにリンダ・ハッテンドーフ監督(後述)の尽力で社会保障番号が探し当てられている。

キュレーターの1人である金子は、キャリアの大半を第2次世界大戦中に制作されたアート作品の研究に費やしている。特に注意を向けたのは日本人アーティストだが、「ジミーの作品には、それまで触れたことのない何かがありました」という。「自分の人生について話す彼の語り口は、とにかく斬新だったのです」。そこで、ミリキタニの人生についてできる限りのことを知るため、金子とアーカムズは彼が住んでいたニューヨークの公園や広島など、ゆかりの地を約6年にわたって訪ね歩いた。

無題の自作を見つめるミリキタニ。ニュージャージー州のシーブルック・ファームにて1940年代後半に撮影(撮影者不詳)。
無題の自作を見つめるミリキタニ。ニュージャージー州のシーブルック・ファームにて1940年代後半に撮影(撮影者不詳)。

神話の主人公として生きた路上アーティスト

アーカムズはこう説明する。

「展覧会の企画を進めていく中で、構成の軸となったのがコラージュの概念です。(新聞・雑誌の切り抜きや書類等の)ファウンド・ドキュメントや絵を使って人生の物語をコラージュし、その物語で、自分はひとかどの芸術家なのだとアピールしたジミーの手法に通じるやり方です」

彼自身の性質とその特異な境遇が相まって、ミリキタニは最期まで自らが作り上げた神話の主人公として生きていた。アート市場から見放された彼が、マンハッタンにある大手ギャラリーの向かいの路上で売っていたコラージュ作品に描かれたのは、自らが体験した世界的事件で、時にシンボルを使って仄めかされるだけのこともあった。金子とアーカムズによれば、彼はベレー帽を好んでかぶり、自分の才能を示す看板を出していたという(それが効果を発揮することはなかったが)。

2人のキュレーターは、2006年に制作されたリンダ・ハッテンドーフ監督のドキュメンタリー映画『ミリキタニの猫』で彼を知った。映画のタイトルは、彼の日記に登場するいたずら好きな猫たちにちなんだものだ。その中で、彼はこう過去を振り返っている。

「私は全てを話した……通り過ぎるだけだ。思い出の中を通過していく」 

だが、この展覧会やハッテンドーフの映画から分かるように、私たちがミリキタニを真に理解し、彼の言う「全て」を知るにはさらなる研究が必要だ。

《untitled (cat with blue peony)》(2001年頃) Photo: Museum purchase: R. Charles and Mary Margaret Clevenger Art Acquisition Fund, 2020.0220
ジミー・ツトム・ミリキタニ《untitled (cat with blue peony)》(2001年頃) Photo: Museum purchase: R. Charles and Mary Margaret Clevenger Art Acquisition Fund, 2020.0220

2012年に死去したミリキタニは、文字通りのストリートアーティストだった──それも最底辺の。1980年代後半から2001年にかけ、ミリキタニはワシントン・スクエア・パークなどロウアー・マンハッタンの公共空間で路上生活を送りながら絵を描いていた。彼はまず、細やかなタッチの鯉や猫の絵で通行人を引き付け、足を止めた人には自分の真骨頂とも言うべき別の作品を売り込む。それは政治的な写真や日記、ドローイングを組み合わせた悲痛なコラージュ作品で、大日本帝国の崩壊や広島に降り注ぐ爆弾、ツールレイク強制収容所の上に昇る赤い太陽、アメリカ市民権の放棄など、世界的事件や個人的に体験した出来事を題材にしている。

多言語のサインで埋め尽くされたコラージュが示すもの

ミリキタニは無題の自作にサインを書き入れるよう客を促し、その見返りに新聞のコピーや画材を受け取っていた。コラージュの余白は次第に英語や日本語、中国語、韓国語のサインで埋め尽くされ、彼自身の視覚的自伝と混ざり合っていく。中でも特にインパクトのある作品は、ミリキタニが自らの顔写真と指紋を皇室の菊の御紋をかたどったスタンプと組み合わせたコラージュで、「Imperial Artist Grand Master 1920 Sacramento CA(帝国美術家 巨匠 1920年、カリフォルニア州サクラメント)」とタイプされた一文が含まれている。 

ジミー・ツトム・ミリキタニ《無題(フクロウの“education paper”)》、2001年以前、コラージュ、ボールペン、彩色、色鉛筆、写真、複写 Photo : Collection of Linda Hattendorf, Taos, New Mexico Collection of Linda Hattendorf, Taos, New Mexico

また、同じ作品の下部には、手書きの落款が添えられた次のような日本語の記述がある。

「日本画一位画家 川合玉堂 山水 木村武山 佛画 師事 東京 十二年(東京で12年間、日本画家、山水画は河合玉堂、仏画は木村武山に師事)」

その横には「三力谷雪山」という雅号と、「広島縣」の文字が記されている。自分のことを警察や通行人、近隣住民から尋ねられると、ミリキタニは「education papers(教育書類)」と呼んでいたこれらのコラージュ作品で説明した。その多くは友人や作品の所有者のおかげで今も残っている。

市民権を持たず、放浪生活を送っていた彼には、コラージュの真髄である重層的な時間表現の才能があった。戦争に翻弄され、トラウマによって記憶を引き裂かれ、数々の不幸に見舞われる一方、ミリキタニは幸運にも独自の構成力や巧みな象徴表現、そして「ジミーらしさ」としか言いようのないカリスマ性を与えられていた。自らの壮絶な人生によって、彼は魅惑的な物語を紡ぎ出したのだ。

「アウトサイダーアーティスト」では括れない

ミリキタニの死後、その才能は忘れ去られていたわけではなく、スミソニアンやアメリカン・フォーク・アート・ミュージアムなどの主要な文化機関が作品を収蔵している。とはいえ、彼がアメリカ美術の正史に組み込まれることはなく、戦後大きく花開いたニューヨークのアートシーンで活躍した人物の1人に数えられることもない。

「ジミーは、日本人作家と日系アメリカ人作家の狭間に落ちてしまったのです。しかし彼は、その両方を含むさまざまなアイデンティティを持っていました。美術史家やキュレーターは、彼の芸術の真価を余すことなく伝えるための新しい枠組み、新しい言語を生み出す必要があります」と金子は話している。

長く見過ごされてきたこのアーティストへの認知は、最近になってようやく広がりつつある。それは彼の作品を保存してきた日本の遺族による草の根の取り組みや、ミリキタニが自作の多くを託したハッテンドーフ監督、そして彼と同時代のアーティストたちの力によるものだ。中でも重要な役割を果たしたのがロジャー・シモムラだった。日系アメリカ人3世のアーティストで、ミリキタニより20歳近く年下のシモムラ(自身も幼少期に強制収容所に入れられていた)は彼に親近感を抱き、ワシントン・スクエア・パークで定期的に会うようになっていった。

シモムラはまた、ミリキタニの回顧展とハッテンドーフの映画に共通する目的を達成する上で中心的な役割を果たしている。それは、正規の美術教育を受けず、アート市場の外に身を置いて制作を行い、そうしたことに無関心だとされるアーティストたちに漠然と当てはめられる「アウトサイダーアート」という枠組みからミリキタニを解放することだった。自ら一匹狼として生きることを選び、拾い集めた画材を使って制作を続けた人物、そして風変わりだがダイヤモンドの原石のようなアーティストという伝説は、今も残っているかもしれない。だが、スペンサー美術館の展覧会は、ミリキタニの芸術がそれ以上のもであることを証明している。

《untitled (Atomic Bomb Dome and Kannon)》(2001) Photo: Smithsonian American Art Museum
ジミー・ツトム・ミリキタニ《untitled (Atomic Bomb Dome and Kannon)》(2001) Photo: Smithsonian American Art Museum

それと同時に、キュレーターの金子とアーカムズが調査を進める中で分かったのは、ミリキタニが独学のアーティストというのは大きな誤解だったということだ。彼らによれば、1990年代後半以降に制作された作品のほぼ全てが、ミリキタニが日本画の修業をしていたことを示しているという。日本画とは、開国して西洋諸国と交流するようになった19世紀後半の日本の画家たちが、伝統的な画法を守りつつ近代化を図るため発展させた様式だ。ミリキタニによる最も印象的な作品の中には仏教的なイメージと個人的な経験を組み合わせたものがあるが、その表現は山水画の大家だった川合玉堂や、仏画で知られる木村武山の指導によって磨かれたものだろう。

「収容」ではなく「収監」と呼んだ意図

2人のキュレーターが強調している点はほかにもある。それは、アート界の外で制作活動を続けたミキリタニの選択は、必ずしも本人が積極的に選んだ道ではなかったということ、そして放浪生活を送るようになったのには政治的状況が大きく影響していることだ。また、ミキリタニのキャリアを辿る上で最大の課題は、彼のコラージュの大部分が無題で、太平洋を超えて行き来したり、強制的に移住させられたりしたため、制作年代の特定が難しい点にある。そのため、スペンサー美術館の展覧会では時系列的な枠組みではなく、彼自身が作り上げた神話の中のテーマごとに作品を展示している。

もう1つの課題は、1942年3月から3年半にわたり、ミリキタニが数千人の日系アメリカ人とともに北カリフォルニアのツールレイク強制収容所で過ごした期間をどう見せるかといことだった。フランクリン・D・ルーズベルトが署名した大統領令9066号に基づいて設立された10カ所の収容施設の1つであるツールレイクは、「internment camp(強制収容所)」と呼ばれることが多い。

しかし、アーカムズと金子のキュレーションでは、一般に使われる「収容(internment)」ではなく、「収監(incarceration)」という言葉が使われている。国家が民間人を塀の中に閉じ込める行為を表すために使われてきた「収容」という言葉は、鉄格子の内側にいる人々の現実を正確に伝えるよりも、政治的に都合の良い解釈につながりやすいからだ。こうしてスペンサー美術館の展覧会は、過去と現在とを対比させ、残虐行為が連綿と続いている事実を浮き彫りにしている。これこそ、キュレーションの力と言えるだろう。

「いかにして、過去の出来事を活かし続けられるのか?」──そんな金子の問いは、展覧会の図録の中でさらにこう発展している。「創作のために使われた素材や道具を、アーティストが変化を生み出すときの文脈として再考できるだろうか?」(翻訳:野澤朋代)

※ スペンサー美術館で開催中の「Street Nihonga」縮小版が、2027年に三鷹市美術ギャラリー、および、広島市現代美術館で開催予定。

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