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  • 2022.06.13

公民権運動の最前線からスパイク・リーのポートレートまで 作品で振り返る、写真家ゴードン・パークス

写真家、映画監督、作家、ミュージシャン、作曲家、画家として並外れたキャリアを築いたゴードン・パークス(1912〜2006)。ハリウッドの映画界から公民権運動の最前線まで、ありとあらゆる場所で活躍したパークスは、ルネサンス的な万能アーティストとも言われる。しかし、その表現では到底足りないほどの業績を残している。

ゴードン・パークス撮影 Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

パークスは、フリーランスの写真家として女性ファッション誌などで活動したのち、1948年にフォトジャーナリズムの代表的雑誌、ライフ誌初の黒人専属フォトグラファーになった。また、ヴォーグ誌でファッションページの撮影をするかたわら、アフリカ系アメリカ人として初めて、メジャー映画の「知恵の木」(1969)を監督。これは同名の自伝小説を映画化したもので、パークスは音楽も共同で作曲している。

第2作の「黒いジャガー」(1971)では、リチャード・ラウンドツリーが主役の探偵役を務めている。映画は大ヒットを記録し、「ブラックスプロイテーション(*1)」という映画のジャンルを生み出した。アイザック・ヘイズによる主題歌もヒットして、第44回アカデミー賞の歌曲賞を受賞した。


*1 black(ブラック)とexploitation(エクスプロイテーション)を組み合わせた映画用語。主にアフリカ系アメリカ人を客層として想定したエクスプロイテーション映画のこと。エクスプロイテーション映画とは、興行成績を上げるため、センセーショナルな時事問題やタブーとされる題材をあえて取り上げた作品。

数々の業績を残したパークスだが、彼を押しも押されもせぬ存在にしたのは、20世紀を象徴的に切り取った力強い写真作品だろう。パークスの写真への関心は早くからあったという。カンザス州フォートスコットで生まれ、10代でミネソタ州セントポールに移り、そこで初めてカメラを購入して独学で技術を習得。プロとしての初仕事は、デパート用のファッション写真だった。

1940年にシカゴのサウスサイドに移り、サウスサイド・コミュニティ・アート・センターにポートレート専門のスタジオを構えた。その2年後には、ニューディール政策の一環で国民の社会状況を写真で記録するようになった農業安定局(FSA)で働き始める。

FSAの仕事のためワシントンD.C.に移ったパークスは、「この街は人種差別でふくれ上がっている」と表現したという。その頃に撮影した1枚が、星条旗を背に立つFSAビルの清掃員の姿だ。この作品には、画家グラント・ウッドの代表作《アメリカン・ゴシック》に由来するタイトルがつけられ、清掃員の女性が取るポーズもこの絵から引用されている。

パークスはFSAの仕事をしながら、スポーツや政治、エンターテインメントの世界を題材にした写真で名を上げていった。しかし、もっと重要なことがある。パークスは社会正義に身を捧げ、カメラを「貧困や人種差別に立ち向かう武器」と考えていたのだ。

ワシントンD.C.のハワード大学は、最近パークスのキャリアを網羅する252点の写真コレクションをゴードン・パークス財団から入手した。ポートレートを中心とするこのコレクションには、数々の記憶に残る写真が収められている。その中から、彼の偉大さが伝わってくる15の作品を紹介しよう。


チャールズ・ホワイト、イリノイ州シカゴ、1941年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

1930年代、マーガレット・テイラー・バロウズ博士(1915〜2010)の率いるアフリカ系アメリカ人アーティストの団体が、シカゴのブロンズビル地区に「サウスサイド・コミュニティ・アートセンター(SSCAC)」を設立。同センターは、何十年にもわたり白人中心のアート界から排除されてきた黒人作家たちを世に出す上でとても重要な存在だった。

この写真は、アーティストでセンターの共同創立者でもあるチャールズ・ホワイト(1918〜79)をSSCACで撮影した作品。ホワイトは2018年にシカゴ美術館とニューヨーク近代美術館(MoMA)で回顧展が行われ、再び注目を集めている。


ポール・ロブスン、バリトン歌手、ワシントンD.C.、1942年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation. Library of Congress.

シカゴで撮影した作品が認められ、パークスはアフリカ系アメリカ人の芸術家や学者を支援するジュリアス・ローゼンウォルド基金(1917年に設立)から奨学金を獲得。それを資金にワシントンD.C.に移り住み、FSAで働くことになった。

俳優、歌手で、活動家でもあるポール・ロブスンを捉えたこの写真は、ジュリアス・ローゼンウォルド基金が1944年に発行した、非凡なアフリカ系アメリカ人の伝記集『13 Against the Odds(逆境と闘った13人)』のために撮影されたもの。ロブスンは、ミュージカル「ショウボート」(1928)や、アフリカ系アメリカ人が主演を務めた初の映画「皇帝ジョーンズ」(1933)など、数々の歴史に残る活躍で知られている。


無題、ニューヨーク州ハーレム、1952年


Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

20世紀半ばのハーレムは、アフリカ系アメリカ人文化の中心地だった。パークスも1943年の『13 Against the Odds』の撮影をはじめ、ハーレムを足繁く訪れている。ライフ誌での彼の初仕事も、48年にハーレムで起きた激しい縄張り抗争中に、ミッドタウナーズと呼ばれるギャングのリーダーを取材するというものだった。

52年にはハーレムを舞台に、同年に出版されたラルフ・エリソンの小説『透明人間』の一節を彷彿とさせる写真シリーズを制作。このシリーズは、まるで小説の主人公が地下の住まいから世界を眺めているかのように、極端なローアングルで撮影されているのが印象的だ。


無題、アラバマ州シェイディーグローブ、1956年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

1955年に米国南部のアラバマ州モンゴメリーで起きたバスボイコット事件は、その後の公民権運動の礎となっている。その1年後、ライフ誌はパークスを南部に派遣。人種隔離制度のもとで暮らす人々の姿を撮影するのが目的だった。南部では、1896年のプレッシー対ファーガソン裁判の最高裁判決で下された「分離すれども平等」の原則を根拠に、人種隔離が行われていたのだ。

黒人住民は、噴水式の水飲み場やアイスクリーム屋で注文をする窓口など、いたるところに貼られた看板に従って「有色人種専用」の場所を利用するよう追いやられていた。パークスはカラーフィルムでこうした屈辱的な日常を記録したが、野外での集会の様子を撮影したこの写真のように、アフリカ系アメリカ人たちが送る日々の暮らしも捉えている。


無題、シカゴ、1957年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

ライフ誌のハーレム・ギャング・シリーズで犯罪の取材を行っていたパークスは、1957年には同誌からニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコの4都市に派遣された。そこで撮影された写真には、犯罪が急増していた時代の空気感が生々しく描き出されている。警察の後をつけたり、刑務所を訪れたりする中で、パークスはアフリカ系アメリカ人が不当に暴力を振るわれている実態を目の当たりにしたに違いない。

制度的人種差別や集団収容といった言葉は当時まだ使われていなかったが、この写真で独房の鉄格子の間から覗く囚人の手は、そうした状況を鮮明に伝えている。


無題、ニューヨーク、1957年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

1950年代に米国のアートシーンを席巻したのが抽象表現主義だ。49年にライフ誌が掲載した「ジャクソン・ポロック:彼は今日のアメリカで最も偉大な画家なのか?」という記事をきっかけに、抽象表現主義の代表的作家、ポロックの名は広く知られるようになっていった。

その8年後、ポロックの記事を担当した編集者が、抽象表現主義の女性作家の撮影をパークスに依頼。「影響力のある女性アーティストたち」という記事で、35歳以下の5人の作家を紹介している。絵の複製が並べられていたポロックの記事とは対照的に、パークスは彼女らがアトリエで自作に囲まれている姿を撮影している。画家のヘレン・フランケンサーラーを撮影したこの写真は、パークスが記事に対して抱いたイメージを表現した印象的な作品だ。


「陽なたの干しぶどう」のシドニー・ポワチエ、ニューヨーク、1959年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

ライフ誌は、抽象表現主義の記事のように、必ずしも黒人に関係しない文化的な記事の取材をパークスに任せることが多くなっていた。とはいえ、パークスが撮影を担当した1959年の記事「傑作ミュージカルに黒人スター」では、人種差別撤廃を進展させる大きな出来事が取り上げられている。それは、アフリカ系アメリカ人が初めて脚本・演出を担当したブロードウェイの舞台劇「陽なたの干しぶどう」の上演だ。

シカゴに住む労働者階級の黒人一家を描いたこの作品は、ニューヨーク演劇批評家協会から最優秀作品賞を受賞。パークスの写真は、主演のシドニー・ポワチエの力強い演技を捉えている。


指揮をするデューク・エリントン、ニューヨーク、1960年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

16歳で母親を亡くしたパークスは、ミネソタ州セントポールにいた姉とその夫と暮らすようになった。だが、姉夫婦の絶え間ない口げんかに耐えかねたパークスは、1年もしないうちに家を飛び出し、ナイトクラブに出入りしたり、場末のホテルでピアノを弾いたりするようになる。

17歳になった1929年、パークスは伝説的なジャズミュージシャンで作曲家、そしてビッグバンドジャズの革命児、エドワード・ケネディ・“デューク”・エリントンに出会った。それから数十年後の60年、2人は再び出会うことになる。パークスは彼のツアーに同行し、ライブやレコーディング風景を記録した。上の写真は、ニューヨークでバンドの指揮をするデューク・エリントンを撮影したもの。


無題、ニューヨーク州ハーレム、1963年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

熱弁を振るうマルコムXの写真。これは、パークスがライフ誌のブラックムスリムの記事のため、公民権運動の急進的指導者である彼に取材を申し込んだ頃に撮影されたものだ。編集部は一度ネーション・オブ・イスラム(ブラックムスリムの正式団体名)に取材依頼をしたが、担当記者が白人ということで断られてしまった。そこでライフ誌で唯一の黒人スタッフだったパークスに白羽の矢が立ったのだ。

記事はパークスの署名入りで1963年5月31日に掲載された。以降、パークスはマルコムXを繰り返し撮影するようになり、白人中心のマスコミから批判されがちだった彼の人間味あふれる姿を描き出したと評価されている。


無題、ワシントンD.C.、1963年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

1963年、A・フィリップ・ランドルフとバイヤード・ラスティンは、アフリカ系アメリカ人の公民権と経済的機会の向上を求めて「雇用と自由のためのワシントン大行進」を計画。リンカーン記念館前のナショナル・モールに集まった25万人の群衆(うち75〜80%が黒人)に向かってキング牧師が「I Have a Dream(私には夢がある)」という歴史的なスピーチを行い、64年の公民権法成立を後押しした。

パークスは大行進の現場で印象的な写真をいくつも撮影したが、その1枚が大群衆を背景にした、この男性の写真だ。


コガネムシと少年、カンザス州フォートスコット、1963年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

1963年、パークスは小説『知恵の木』を初出版。カンザスで育った自らの体験をもとに20年代に農場で育った黒人少年を描いた物語で、後にパークスの映画監督デビュー作として脚色されることになる。

ライフ誌は本の出版を記念して、「黒人であることとは」と題した記事を掲載。そこには、パークスが故郷で撮影したカラー写真の数々が含まれている。また、パークスのエッセイ「プライドを探し求める長い旅」とともに、小説の一節を表現した写真も掲載された。糸でつながれたコガネムシを持つ少年の写真もその1枚で、黒人を縛りつける制約を示唆している。


SNCC事務所のストークリー・カーマイケル、アトランタ、1967年


Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

キング牧師は非暴力主義を貫いていたが、1960年代半ばになると、彼の戦略を軽視する新しい世代が現れる。その中で最も発言力があったのが、学生非暴力調整委員会(SNCC)を率いたストークリー・カーマイケルだった。キング牧師のやり方に不満を抱いたカーマイケルは、より過激な形での公民権運動への参加を呼びかけ、それを「ブラック・パワー」と名付けた。すると、彼はたちまち白人系メディアの標的となる。

67年、パークスは各地を飛び回るカーマイケルを追い、演説をし、支援者と話し、時には有権者登録活動を行うカリスマ的な活動家の姿をカメラに収めた。この写真では、いつもとは違う静かな時間を過ごすカーマイケルを撮影している。


階段を上るベッシー・フォンテネールとリチャード、ニューヨーク・ハーレム、1967年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

1967年、ライフ誌は“都会のゲットー”とも言われるハーレムでの苦しい生活を取材するため、3人の記者を派遣した。パークス以外の2人の白人記者はハーレム全体を取材していたが、パークスはフォンテネールという家族の苦難に焦点を当て、冬を迎える時期に彼らの暮らしを追った。

9人の子どもを抱えたフォンテネール家が暮らすハーレムの小さなアパートはすし詰め状態で、暖房も湯も十分な食べ物もない有様だった。感謝祭の日に暖を取るため、台所のコンロのそばで家族が身を寄せ合う写真もある。3歳の末っ子、リチャードは、あまりの空腹に落ちている漆喰を食べてしまうこともあったという。この写真では、アパートの階段を上る母親に抱えられたリチャードが捉えられている。


無題、1978年

Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

パークスの仕事の中で、ファッション写真はあまり知られていないかもしれない。しかし、彼のキャリアの初期には重要な位置を占めている。パークスは、フォトジャーナリストとして活躍しただけではなく、ライフ誌やヴォーグ誌でファッションページの撮影を担当していた。しかもヴォーグ誌の仕事は、ファッション・バイブルと言われる同誌のアートディレクター、アレクサンダー・リーバーマンから指名されたものだった。

1990年に出した自伝でパークスは、ファッション写真を学ぶのに、エドワード・スタイケンやホルスト、セシル・ビートンなど、この分野の先人たちの仕事を研究したと書いている。この写真は、レブロンの有色人種女性向け高級化粧品の広告キャンペーンで、スーパーモデルのイマンを撮影したもの。


無題、1990年


Courtesy of and copyright The Gordon Parks Foundation.

晩年のパークスは、セレブを撮影するセレブになっていた。この若き日のスパイク・リーのポートレートもその一例だ。パークスの映画作品は、1980年代から90年代にかけてインディペンデント系の映画を制作していたアフリカ系アメリカ人監督たち、ジョン・シングルトンやスパイク・リーなどの世代に影響を与え、ほどなく彼らはハリウッドで名声を得ることになる。

この写真には、トレードマークである野球帽を被ったリーが写っている。野球帽に刺繍されているロゴは、リーの90年のヒット映画「モ’・ベター・ブルース」のもの。この映画は、後に2度のオスカーに輝くデンゼル・ワシントンの初期主演作でもある。(翻訳:岩本恵美)

※本記事は、米国版ARTnewsに2022年5月24日に掲載されました。元記事はこちら

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