百瀬文 Aya Momose

《Flos Pavonis》(2021)《Flos Pavonis》(2021)

百瀬文は主に、映像作品の制作とパフォーマンスによる表現をしている。大学卒業制作の映像作品《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》は、ろう者との対話を題材にした。音声以外によるコミュニケーションを模索し、以降の彼女の作家活動の方向性を示した。同作は2013年の発表以来、各所で繰り返し公開されている。フィクションと事実を織り交ぜて制作する作品は、社会的な抑圧に抵抗する声なき声をすくい上げることを試みている。16年制作の《山羊を抱く/貧しき文法》は、戦地における性暴力の歴史に目を向け、21年に発表した《Flos Pavonis》は、ポーランドで人工妊娠中絶がほぼ全面禁止となる司法判断が下された時事問題を取り扱った。国家権力によって管理される個人の身体や欲求をテーマとするこれらの作品は、コロナ禍による行動規制の下でより強いメッセージ性を持っている。

百瀬文 Aya Momose

1988年東京都生まれ、東京都在住。2013年武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻油絵コース修了。主な展覧会に、21年「新・今日の作家展2021日常の輪郭」(横浜市民ギャラリー)、16年「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(森美術館)、15年「アーティスト・ファイル2015隣の部屋―日本と韓国の作家たち」(国立新美術館)。コレクションに、愛知県美術館、大阪中之島美術館、横浜美術館。作家ウェブサイト

「小さな声を拾い、個別の欲求をすくい上げたい」

百瀬文は、映像作品とパフォーマンスを主な表現手段とする女性アーティストだ。近年その活躍はめざましく、コロナ下でも作品発表の機会はまったく減っていない。2021年の秋は、東京・横浜・金沢の3都市で四つの展覧会に招かれて参加した。多くのキュレーターが注目する百瀬に取材した。

螺旋状に展開していく作品

 ──百瀬さんはこれまで、ろう者との対話、戦時性暴力、人工中絶など多岐にわたる題材を扱ってきました。コロナ下でも恒常的に作品を発表していますが、題材はどのように見つけているのですか?

「自分がその時々に感じている個人的な違和感や欲望が、他の誰かとも共有されうるものかもしれないという可能性を信じたくて作っているところがあります。インスピレーションをもらうのは、偶然の誰かとの出会いだったり、長い時間の中に埋もれてしまった歴史上の事実だったり、散歩中に見た風景からだったりと、様々です」

──百瀬さんが扱う題材は、一見すると百瀬さんと直接的には関係していなさそうな社会問題も多いように思います。しかし作品からは、問題に向き合う百瀬さんの真剣さが伝わってきます。作品を制作する上で、どんなことを大事にしていますか。

「今は、どこまでが自分の言葉でどこからが他人の言葉かが分かりにくくなっている時代ではないでしょうか。SNSの言説からは少し距離を置いています。自分の身体を経由して、実感を伴った言葉として発することができるようになるまで、作品の制作に踏み切るには時間をかけたいと思っています」

「制作期間については、構想から2年くらいかけて作った作品もあれば、1カ月くらいで出来上がった作品もあります。異なるテーマやレンジの作品を複数同時並行で作るスタイルが、自分の性格には合っていて、作品同士も補完し合えているように思います」

「大きなテーマに一貫して取り組み、作品を深化させていくタイプの作家さんの制作を直線的だとすると、私の制作は螺旋(らせん)状に山を登っていくようなイメージが近いかもしれません。複数のテーマを経由しながら、以前扱ったテーマをまた少し異なる視座から眺めて採り入れるような、そういう制作方法を採っています」

──武蔵野美術大学の油画科の出身ながら、いまは主に映像で表現しています。どういう理由からでしょう。

「もともとヴィト・アコンチ(1940~2017)やブルース・ナウマン(1941~)らによる黎明(れいめい)期のビデオアートが好きだったんです。絵画を制作しているときは、ずっと自分が作品を見つめ続けていたわけですが、自分のパフォーマンスを映像作品にしようとしたとき、自分がカメラに見つめ返されるという経験がすごく新鮮で、面白味を感じました」

「また映像は、予期しなかった状況や矛盾を拾い上げることができるところに魅力を感じています。人間は泣きながら笑ってしまうことがある、といったような、一つの意味に回収できない両義的な状況を尊重したものを作りたい。カメラは時に、そうした物事の複層性を映し出すことができるんです」

声なき声に耳を傾ける

この取材時ちょうど、都内2カ所で百瀬の映像作品が上映されていた。一つは初期作の《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》(「語りの複数性」渋谷公園通りギャラリー)。もう一つは最新作《Flos Pavonis》(「『新しい成長』の提起」東京藝術大学大学美術館)だ。前者はろう者との対談を通じてコミュニケーションのあり方を問い、後者はコロナ禍に対処するため強行された法改正や行動規制に対して無言の抵抗を示す女性の物語を描いている。

──百瀬さんの作品は、いくつもの切り口を持っていますが、ひとつ大きなテーマとして広義の「声」を取り扱っているように思います。上映された新旧の作品は、特に象徴的でした。

「《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》は武蔵野美術大学の修了制作として発表した、2013年の映像作品です。作品に出演して下さったろう者の木下さんとは、今も連絡を取り続けています。2020年に開かれたシンポジウムでは、木下さんが改めて、この作品におけるろう者の表象というものについて語られたりしました。取り巻く環境の変化に伴って、作品の受け取められ方も変化してきていますが、今も作品を基に議論が重ねられています。問題提起の射程が非常に長い作品です」

「最新作の《Flos Pavonis》は、コロナ禍のポーランドで人工妊娠中絶の実質的な禁止が決定したことを題材にしました。架空の人物の往復書簡の形式を取り、社会規範から逸脱した女性を現代の魔女として描いたフィクションですが、今までになく政治的主張の強い作品に仕上がっていると思います」 

「私は、新型コロナウィルスそのもの以上に、コロナ禍が生み出した社会規範に脅威を感じています。例えば家族やパートナーシップのあり方は、自粛生活下では、血縁や戸籍制度で規定された関係に限定されていたように思います。社会から見過ごされた存在の小さな声を拾うこと、一元化されない個別の身体の欲求をすくい上げること。そうした作品を作ることができたらと思っているんです」

 ──いま百瀬さんが興味を持っている「声」はありますか?

「日本アニメのキャラクターの声について興味を持っています。これまで少年主人公たちの声の大半は、女性の声優が演じてきました。少年の器に女性の声をはめる、ということが定着した背景にはどういったことがあるのか、声優はどのように少年を演じてきたか、といったことに関心があります」 

複雑なことを複雑なまま見せる

百瀬は一つひとつの語意を丁寧に吟味する。独特な言葉遣いに、インタビュー中たびたびハッとさせられた。中でも印象的だったのが、繰り返し語った「個別の身体」という言葉だ。強いて言い換えれば「個々人」だろうが、途端に話が上滑りになる。「社会から見過ごされた存在」「一元化されない個別の身体」という言い方からも、マイノリティ/マジョリティという安易なくくり方を避けようとする意思が伝わってくる。

──百瀬さんはセクシュアリティの問題をはじめ、非常にデリケートな題材を扱っています。作品からも話からも、随所に多方面への配慮を感じますが、その分、表現の仕方や言葉遣いの複雑さも出てきますね。

「複雑なことを複雑なまま見せることができるのがアートなのだと私は思っています。私自身も常に逡巡(しゅんじゅん)しながら制作していて、二の足を踏んだまま、なかなか作品化できていないものもあります。また、作品が完成したら終わりではなく、過去の作品をたびたび振り返りながら、新しい制作に向かっています」

「《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》については、これまで、『障がい者を馬鹿にしているのではないか』といった聴者(健常者)からの意見も何度かいただきました。当初から覚悟していたことです。ただ、私がこのフィクションの中で扱おうとしたのは、聞こえる・聞こえないに関わらず、コミュニケーションというものは、常に不安定な土台の上で行われる互いの翻訳作業なのだ、ということです。そうした聴者の反応そのものに、音声を介したコミュニケーションを標準としていることへの無自覚性が浮かび上がっているようにも思います」

──社会の不均衡な構造に、知らずしらず、私たちも加担しているかもしれない、ということですね。百瀬さんの作品は、そうした気づきを与えてくれます。最後に、今後の予定を教えてください。

「7月30日から始まる国際芸術祭あいち2022に参加します。展示とパフォーミングアーツ両方での参加になるのですが、展示では旧作のビデオインスタレーションを、パフォーミングアーツの方では新作を制作する予定です。それから文芸誌『群像』でエッセイを連載することになりました。雑誌に毎月文章を掲載するのは初めてなので、少し緊張しています」

活動初期から、相互理解の困難さに向き合いながら、複雑な問題を扱った作品を発表し続けている百瀬。彼女の果敢な挑戦は、多くの人の心に静かなさざなみを立てている。

<共通質問>
好きな食べ物は?
「思い出深い食べ物なら、韓国で食べた平壌冷麺。朝鮮半島の料理というと濃い味付けのイメージがありますが、北の郷土料理は実は薄味なんですね。韓国で食べた平壌冷麺は、透き通ったスープの底から、時間をかけて抽出された牛肉の旨味(うまみ)がゆっくり静かに上がってきて。味覚が更新されるような体験でした」 

影響を受けた本は?
「ピエール・クロソウスキーの『ロベルトは今夜』。最近刺激を受けた本は、ダニー・ラフェリエール『ニグロと疲れないでセックスする方法』です。後者は、セックスシンボルとして消費される黒人男性の性を、黒人男性の視点から描いた小説。著者はハイチ出身で、カナダに亡命後の1985年に本書を発表しました。邦訳が出たのは2012年です」

行ってみたい国は?
「(国ではなく地域だけれど)樺太」

好きな色は?
「みんな好き」

 好きな言葉は?
「同床異夢。同じ布団で寝ていても、別々の夢を見ている。寂しいけれど、大切なこと」

(聞き手・文:松崎未来)