片山真理 Mari Katayama

  • 30 ARTISTS U35
  • 2022
  • 《bystander #014》(2016) ©Mari Katayama courtesy of Akio Nagasawa Gallery
  • 《shell》(2016) ©Mari Katayama courtesy of Akio Nagasawa Gallery
  • 《you're mine #001》(2014) ©Mari Katayama courtesy of Akio Nagasawa Gallery
  • 《bystander #014》(2016)
    ©Mari Katayama courtesy of Akio Nagasawa Gallery
  • 《shell》(2016)
    ©Mari Katayama courtesy of Akio Nagasawa Gallery
  • 《you're mine #001》(2014)
    ©Mari Katayama courtesy of Akio Nagasawa Gallery

片山真理は、自らの身体を模した手縫いのオブジェや、実際に自身が使用していた義足などを用いて細部まで演出を施したセルフポートレイトなど、様々な作品を制作している。セルフポートレートの撮影ではリモコンとセルフタイマーを使い「必ず自分でシャッターをきる」のがモットーだ。作品制作以外の主なプロジェクトとして、2011年より「ハイヒールプロジェクト」を展開。特注の義足用ハイヒールを装着し、「選択の自由」を掲げステージに立つ。故郷の群馬へ制作拠点を移してからは足尾銅山や渡良瀬川流域を取材し、《ashio copper mine》などの作品を制作。妊娠・出産で、祖父母からひ孫まで地続きになっていく世代と歴史の時間感覚に触れ、地元を流れる川に起きた出来事を身近に感じたといい、その感覚は、近年の《in the water》や《surface》といったセルフポートレイトのシリーズにも反映されている。足尾のほかフリントや水俣などでも撮影を行っており、さまざまな土地で起きた事実と自身の身体を重ね、「人工」と「自然」という区分の曖昧さや、「正しい身体」について問いかけている。

片山真理
Mari Katayama

1987年生まれ、群馬県出身。2012年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。19年に出版した写真集『GIFT』(United Vagabonds)と「第58回ヴェネチア・ビエンナーレ」(イタリア・アルセナーレ、ジャルディーニ)への出品で第45回木村伊兵衛写真賞を受賞。主な個展に21年「leave-taking」(Akio Nagasawa Gallery)、21年「Home Again」(フランス・ヨーロッパ写真美術館)、2019年「Broken Heart」(英国・ホワイトレインボー)など。 Photo ©Mari Katayama courtesy of Akio Nagasawa Gallery
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「もう『正しい身体』を求めなくていいのかもしれない」

いま、国際的に注目を集める片山真理は、「正しい身体」への呪縛から自由になった気がすると話す。創作を始めたきっかけ、影響を受けたもの、身体に対する自身の考えについて、話を聞いた。

──2005年、「群馬青年ビエンナーレ」で奨励賞を獲得したことが作家としての転機になったと聞きました。その際、提出したのが、成長して合わなくなった押し入れに眠っている義足に草の絵を描くというプラン。ステートメントに「地に着くスベテのものには根があり、そして『新しく生じ発展しようとする』の意として、芽が伸びていく」と書かれています。今の創作につながっている部分もあるのではと思いますが。

 このステートメントは「目を星に向け、足を地につけよ」というアメリカの元大統領セオドア・ルーズベルトの格言が基にあって、ずっと私の生きるテーマになっているフレーズです。そのとき、私は高校生。商業高校で情報処理のプログラミングなどを勉強していて「とにかく手に職をつけないと! 光熱費や税金が払えるように、自分で稼いで生きられるようにならないと!」と思っていて。だから作家としてというよりは、等身大の目標として自分の心の内にあった言葉。じつは今の義足にも書いているフレーズです。

「役に立つ」という価値観

──2019年にヴェネチア・ビエンナーレに参加、写真集『GIFT』などが評価され、木村伊兵衛写真賞を受賞。セルフポートレイト作品などがよく知られていますが、当初は、オブジェを作り、写真に収めてホームページで発表していた、と。

幼少期、私の家はあまり裕福ではなく、欲しいものがあったら自分で作りなさいという家庭でした。家族もみんな何かを作っていて、制作はすごく身近にあったんですね。ただ、みんなは何か「役に立つもの」を作っているのに、私は不器用でどうしてもそれができない。編み物もできないし、洋服もきれいに縫えない。だけど作るのが好きで何かを作ってしまう……。そうすると道具でも洋服でもない「オブジェ」がどんどん生まれていくわけです。それは辛いことでもありました。何にも役に立たず、1円にもならないものだから。「明日、給食費を払わなくてはいけない!」となっても、私は身体に障害があるので「じゃあ、日雇いのバイトに行ってくるね!」とできないわけです。それなのに制作がやめられなくて、増えていくオブジェがかわいそうに思えたんです。理解してくれる人も周りにいなくて、孤立していたのもあると思います。それで、友人を求めるように「こういうのを作ってるんです」とオブジェをネットに載せはじめたわけです。それに絶対必要だったのが写真というメディアでした。

──そういったオブジェを自身で身につけたセルフポートレイト作品に発展していくのですが、なかには鏡を効果的に使ったり、壁に画中画のようにポスターを連続して張ったり、絵画的な面白さがあると思います。何か影響を受けたものはありますか?

私は、作品を作る前に絵を描き、写真を撮るときもファインダーのなかの風景がどれだけ絵として成立するかを大切にしています。だから絵画的と言われると確かにそういうふうに作っているなとも思いますね。では好きな画家は?と言うと、モディリアーニ。マルセル・デュシャンの絵もすごく好きです。最近、私の作品を見て「デュシャンっぽい」と気づく方も多く、「あ、分かるんだ」と嬉しくなりました。また幼少期、祖父がよく美術館の常設展に連れて行ってくれたのですが、そこで見た近代絵画の影響もあると思います。私は写真をイメージやデータではなく「もの」として扱おうと意識していますが、たとえば、それは、油画の重量感、存在感への憧れがあるのかもしれません。また、私の作品に見られるデコラティブな額装も、そのときに見た絵画の影響があると思います。加えて、もう一つ、影響を受けたものを挙げると、『コンセプチュアルアート』(岩波書店)という本。これは東京藝術大学の恩師・木幡和枝先生が訳した本ですが、高校生のときに群馬青年ビエンナーレの審査員だったキュレーターの東谷隆司さんに「これは読んだほうがいい」と言われて。ノートに写し暗記するくらいまで読んだ、私のバイブルです。

──美術史的な文脈も意識して制作されている?

アートの史実に興味があり、藝大の大学院に進む前、大学でも美術史を学びました。ただ、その流れに自分はどういう位置にいるのか、またどういう仕事をすべきかといったことは意識していません。作家さんのなかには、「美術家の使命」みたいなものを持ってらっしゃる人もいますが、私はそうではない。10代のときに、作品が役に立たないことを身を持って感じているし、アートが、あるいは人が何か使命を持って生まれてきたというのを全否定したい。「じゃ、役に立てないもの、人はどうなるの?」「目まぐるしく価値観が変わるなかで、役に立つって正しいの?」と。それよりは、なるべく今を生きていたい。人間の寿命が百年ぐらいだとしたら、百年でどれだけ時代が変わってきたかということを知り、一方で、私の百年のうちで、自分のやれることをやりたい。

自然なものと人工的なものを超越する美

──オフィシャルサイトのタイトルに「Shell」という言葉をつけています。額装にも貝殻でデコレーションされていたりしますが、この言葉、モチーフは片山さんにとってどういう存在でしょうか?

理由はたくさんあります。ひとつは貝殻のかたちの美しさ。巻貝の螺旋は、例えば宮殿とか《モナ・リザ》などの絵画がなぜ美しいのかを語るときに使われる「黄金比」と同じ、あるいは似ていると言われています。そこに、なにか自然なものと人工的なものを超越した美しさがあると思うのです。世の中には、「ありのままの姿が美しい」「自然が美しい」というような考え方がありますよね? でもそれは「いじったら美しくない」という価値観と表裏一体。私は足の切断手術を受けて、メスを入れ、たくさん縫ったりくっつけたりした身体で生きています。それを写真に留めるとちょっとゾゾっとした気持ちを覚えたりするかもしれませんが、生きていて、動いていると美しく見えるときもある。「生きている」ときのはっとする美しさは、貝殻の黄金比的な美しさに通じているような気がするんです。

「正しい身体」からの解放

──昨年末から今年にかけて行われた個展「leave-taking」のステートメントでは、「正しい身体」について語られています。この「正しい身体」とはどのようなものですか?

まず、生活の中で、社会というものが「正しい身体」のために作られているんだなと思う実体験があって。たとえば駅でエレベーターで地上に出ようとすると、ものすごく歩かないといけなかったり。既にそこで生き残れるかのゾーニングをされているんだなと。「正しい身体」とは、そうやって社会が前提とする「身体」ですね。そして、それが「正しい」ものならば、その概念に打ち勝ってやろうと、無理して杖をついてでも外に出るようにしていた時期もありました。一方で自分が「そっち側」に合わせることで解決する問題なのかとも思ったり。その頃、2011年に始めたのが、義足でハイヒールを履いて歌う「ハイヒールプロジェクト」。それは「そっち側とこっち側は違うから」で終わらせず、社会に発信してみるということにつながったプロジェクト。こうした活動や作品、または妊娠・出産を通じて、「正しい身体になれない、自分の身体」という重荷が少し解消されてきた部分もあります。自分の身体はこれなんだから、これで生きていくにはどうしたらいいか。そう考えるようになり、自由になったというか。

──片山さんは制作してきたオブジェは、自身の身体をかたどったものでもあります。個展で発表された「leave-taking」シリーズは、「それに別れを告げる」という意味深なタイトルですが。

私のいくつかのオブジェは、自分の身体に小さな布をいくつも当てパッチワークしながら形作ったもの。自分の身体を嫌なくらい確かめながら作ったものです。昨年、そういったオブジェをほぼ全て美術館に寄贈するという話をいただき、改めてオブジェは私にとって何だったんだろうと思いながら撮影したのが「leave-taking」シリーズです。私の手元を離れていくから、leave-taking(=別れ)。だから最後にフィルムで一番いい状態で、この瞬間を真空パックするように撮ってあげようと思って。カメラも集合写真を撮るために開発されたものを選びました。ただそのカメラがとてもアナログ。レリーズ(シャッターを遠隔操作する器具)で開くのですが、勝手に閉じてくれない。だから長時間露光をするとカメラまで行き、自分でシャッターを下ろさないといけなくて。場所を離れるから、写っている私の身体が透けちゃっているんです。結果的に、作品に写った透けた身体を見て、もう「理想の身体」とか「正しい身体」を求めなくていいのかもしれないなと思いました。作品がそう教えてくれたような気もします。

──2022年はどのような活動を予定されていますか?

上半期は制作に集中したい。じつは映像作品を作りたくて。「leave-taking」を撮影しているときに、同時に動画も撮っていて、作品として仕上げたいというのがあります。下半期はコロナの状況にもよりますが、海外での展示が多くなりそうなので、体力作りですね。石内都さんなど先輩たちを見て思うのは、走り続けるにはそれなりの理由がある。体づくりもそのひとつ。あと50年、走ってるように体づくりを頑張ろう、と。また、セルジオ ロッシをパートナーに迎え、ハイヒール・プロジェクトを再開します。

〈共通質問〉
好きな食べ物は?
麩(ふ)。そのままポテトチップスみたいにそのまま無心で食べちゃいますね。あとはテキーラ。

影響を受けた本は?
ひとつは『コンセプチュアル・アート』(岩波書店)。最近のバイブルは、ネルソン・グッドマンの『芸術の言語』(慶應義塾大学出版会)。私の学部時代の恩師、戸澤義夫先生が訳している本。この2年くらい、繰り返し読んでいます。

行ってみたい国は?
メキシコ。ずっと行きたいんだけど、なかなか行く機会がない国。義足だったということで、よくフリーダ・カーロについて聞かれることがありますが、彼女は関係なく、単純に行ったことがないので、行ってみたい。

好きな色は?
ピンク。つい選んでしまう色です。

座右の銘は?
我以外皆我師(われいがいみなわがし)」という歴史小説家の吉川英治さんの言葉。「私以外は、みんな先生です」という意味ですね。赤ちゃんでもおばちゃんでもお爺ちゃんでも、同い年の人でも、全員が自分ではないんだから、先生だと思ってその人の話を聞く。ずっとこの言葉を胸に生きています。

アート活動を続ける上で一番大事にしていることは?
後悔しないこと。私、後悔したことがほとんどないんです。反省しないというわけではないですが、「あのとき、こうしておけば良かった」みたいに思うことはほとんどなくて。いいことも悪いことも全部の積み重ねで今があり、作品があるので、過去に固執しない。ただ歴史は大事だと思うので、自分の史実みたいなものを客観的に見ようとは意識しています。

(聞き手・文:松本雅延)

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