死よ永遠なれ! バスキアはゾンビ社会の偉大なる記録者なのかもしれない
ジャン=ミシェル・バスキアは、投機資本主義の愛玩物として搾取され続けながら、それに絶えず異議を申し立て続ける反逆のヒーローとして、いまなお強力なアイコンであり続けている。バスキアは、終わることのない二項対立のなか、死にもせず生きもせず宙吊りにされる。そのありようはまるでゾンビじゃないか。と思えば、絵に登場するアイコニックな「キャラ」もゾンビに見えてくる。「バスキア=ゾンビ」という無理矢理な仮説に、黒鳥社コンテンツ・ディレクターで著述家の若林恵が挑む。
※ 本記事は、「WORKSIGHT」(コクヨ・ヨコク研究所発行/黒鳥社制作)プリント版18号、特集「われらゾンビ」からの転載です
ジャン=ミシェル・バスキアについて、好きだったこともなければ、真面目に考えてみたこともない。その名前を知ったときにはこの世を去っていて、とっくにハイプになっていたので、正面きってそれをカッコいいと言うのは、すでにダサいことになっていたような気がしなくもない。その作品はいま見ても相変わらずカッコいいとは思うし、反体制のアイコンとして興味深い存在であることを疑うつもりはない。けれど、バスキア作品が世界のオークションで富豪たちによって高額落札されたというニュースに触れるにつけ、真面目に向き合おうという気持ちは削がれてしまう。
ストリートでいてラグジュアリー、パンクでいてエレガント、ポップでいて深遠、コミカルでいてシリアス、大胆でいて繊細。いつまで経ってもバスキアは、謎に満ちた存在だ。いまだに多くの人がそう言ってバスキアに魅了され続けている。だが、そうしたすべての物言いが、とっくに使い古されたクリシェ(cliché=決まり文句)であることも、すでに多くの人たちが気づいている。バスキアは何かと都合のいい、ただの便利なアイコンとなり果てている。にもかかわらず、バスキアは、死後30年以上を経ても極めつけのハイプであり続けている。
「黒人の乗客を無視するのは、黒人運転手も同じ」
近年のバスキアをめぐる騒動といえば、真っ先に2021年に起きた宝飾ブランド、Tiffanyの炎上案件が思い浮かぶ。オンラインメディア「Daily Beast」は、9月5日付の記事でことの顛末をこう記している。
先週、アート界はある「ブルー」をめぐって大騒ぎとなった。ジェイ・Zとビヨンセとのコラボレーションを発表したTiffanyの広告キャンペーンは、故ジャン=ミシェル・バスキアの未公開作品《Equals Pi》(編注:1982年制作)を前面に押し出し、アーティストやキュレーターから厳しい批判に晒されている。Tiffanyはこの肖像画を所有し、Tiffanyのシンボルカラーであるブルーとバスキアが描いたブルーの親和性を強調することで、絵画の購入とその商業利用を正当化している。
要はTiffanyがバスキアの絵画を商業的に搾取しているというわけだが、さらにキャンペーン動画のなかでジェイ・Zが、見ればすぐにそれとわかるアイコニックなドレッドヘアにしているところにモヤモヤはいっそう募る。バスキアのかつての友人・知人たちが、広告を見てすぐさま異議を申し立てた。例えば、かつてバスキアの助手をしていたというスティーブン・トートンなる人物は、Tiffanyが購入し5番街の店頭に飾った問題の絵画の青い背景を塗ったのは自分だと主張し、Instagramに以下の批判を投稿した。
「わたしはジャン=ミシェル・バスキアのアシスタントでした。ストレッチャーをデザイン・制作したり、背景を描いたり、キャンバスにドローイングを貼ったり、運転手としてあちこち旅をしたり、多くの話題について自由に語り合い、果てしない沈黙の時間もそばで過ごしました。わたしが色を混ぜて塗ったこの青い背景が、Tiffanyブルーと何らかの関係があるという考えはあまりにバカげているので、当初はコメントしないつもりでした。
しかしながら、アーティストのインスピレーションが、このように倒錯的に搾取されることは看過できません。“ヤツら”は、パリでのLVのショーでも、同じようなやり方で彼の遺産を見下し拷問にかけました。(中略)「ヤツら」はこうやって反逆の天才のあらゆる側面を投機化し、収益化し、商業化し、操作するのです。わたしの好みではありませんが、そういうゲームなのです」
ここでトートンが批判する「ヤツら」がファッション界やアート界を指しているのか、それとももっと広義の対象(グローバルコングロマリット的な?)を指しているのかは不明だが、ビヨンセが身に纏った128.54カラットのTiffanyのダイヤが、植民地搾取の象徴ともいえる「ブラッドダイヤモンド」と見なされ批判の対象となっているところを見ると、「ヤツら」は白人による帝国/植民地支配の構造そのものにまで拡張されているようにも見える(そういえばケンドリック・ラマーが2022年のライブで被った、8000個のダイヤをちりばめたキリストの荊冠を制作したのもTiffanyだった)。グラフィティ・デュオ〈SAMO〉でバスキアの相棒だったアル・ディアスは前出の「Daily Beast」でこう語っている。
バスキアとラグジュアリーの関わりは、バスキアがそれを好きだったからだと思われていますが、実際はどうでもよかったのです。アルマーニのスーツを着ることが目的ではなく、それを所有して着ていれば、それをめちゃめちゃにできるということが重要だったんです。縫い目が素晴らしいとかよくできているとか、そういうことはどうでもよかったんです。
さらにディアスは、この10年ほどの間に、バスキアとその作品が、Avian、Urban Decay、Coach、Dr. Martensといったブランドの顔となることで、すっかりコモディティ化してしまったことの矛盾をこう語る。
いまとなってはバスキアの作品を購入できるのは、彼がまさに攻撃の標的にしていた人たちだけです。つまり、抑圧者たちだけが買うことができるのです。彼らがそれを売り買いしていくことで作品はどんどん意味を失っていきます。(中略)実際、ジャン=ミッシェルがトイレを使いたくてもTiffanyは彼を店に入れてくれなかったと思いますよ。婚約指輪を買いに行ってポケットから札束を取り出したとしても入れなかったはずです。彼にとっては、タクシーを拾うことさえ難しかったのですから。
バスキアがニューヨークでタクシーを拾うのが困難であることを明かしたのはよく知られたエピソードだ。彼は、3、4台に無視された後にようやくタクシーを拾うことができるとボヤくのだが、ある種の諦念をもってさらにこう付け加えたとされる。
「黒人の乗客を無視するのは、黒人運転手も同じなんだけどね」
死んだのは自分だったかもしれない
よりによって「抑圧する側」によってコモディティ化され続けてきたバスキアを、その邪悪な手から「われらの側」へと取り戻そうとする動きがもちろんないわけではない。2022年1月に製作が発表された新たな伝記映画『SAMO LIVES』では、バスキア関連映画として初めて黒人が監督を務める(ジュリアス・オナ/ナイジェリア系アメリカ人)。大役を担うオナはこんなステートメントを映画の公式ウェブサイトに上げている。
『SAMO LIVES』というタイトルにはいくつかの意図が含まれています。偉大な作品は時を経ても人とともに生き続けます。そして、いまジャン=ミッシェルの存在感はより強まっており、その意義もますます深まっています。また、このタイトルには、この物語を語る究極の目的、つまり彼の生の驚嘆すべき強さに焦点を当てる意味もあります。ディアスポラの黒人監督/脚本家のレンズを通して初めてそれを捉えることで、彼が生きた経験の複雑さを、具体性をもって、かつて描かれたことのないやり方で語ることができると信じています。
言うまでもなくこうした動きは、Black Lives Matter(BLM)以降の人権意識の高まりを受けたものであり、ブラック・ディアスポラ当事者の視点から画家の人生と作品を捉えなおし奪還しようという試みは時宜に適っていることは間違いない。さらに同様の意向は、アート業界においても明確に見て取れる。2019年にグッゲンハイム美術館が開催したバスキアの回顧展「“Defacement”: The Untold Story」は、警察による暴行をテーマにしたバスキアの1983年の作品《Defacement (The Death of Michael Stewart)》を軸に構成されたもので、翌年のジョージ・フロイド事件を機にBLM運動が沸騰したことを思えば、タイムリーどころか予言的とさえ言える企画だった。イギリスのガーディアン紙は展覧会をこんな書き出しで紹介している。
「死んだのは自分だったかもしれない」。マイケル・スチュワートの早すぎる死を受けて、ジャン=ミシェル・バスキアがそう言ってもおかしくなかった。1983年9月15日、25歳のアーティスト、スチュワートは、地下鉄の壁に絵を描いていたところ、交通警官に声をかけられ逮捕された。目撃者は、警官が駅を出た後に彼を地面に投げ倒し殴るのを見たと言い、関係する警官は、スチュワートが警察の拘束から逃れようとして倒れたと報告した。彼は13日間入院した後に死亡し、打撲の跡や脳の損傷から絞殺が疑われたが、関わった警察官は全員無罪となった。
「死んだのは自分だったかもしれない」の一言は、決してことばの綾ではない。バスキアとスチュワートは親しい間柄ではなかったが、同じ友人の輪のなかにいた。ともにアーティストだったが、バスキアはグラフィティ作品を通じてすでに世間に知られていた。その夜、スチュワートが地下鉄でグラフィティを描いていたかは定かではない。バスキア同様、スチュワートもドレッドヘアだった。バスキアはほとんど白人女性としか付き合わなかったが、その夜スチュワートが白人女性の頬にキスしているのを彼を逮捕した警官が見かけ、激怒したとも言われている。スチュワートはバスキアのかつての恋人スザンヌ・マルークと付き合っていた。
「ジャン=ミッシェルはマイケル・スチュワートの死に大きな影響を受けた。痩せっぽちの黒人だったマイケル・スチュワートはスザンヌと付き合っていた。彼もアーティストだった。ジャン=ミシェルによく似ていた」。ふたりの親友だったキース・ヘリングは、1988年にVanity Fair誌にそう語った。
この展覧会を企画したのは、グッゲンハイムで採用された初の黒人キュレーター、シェイドリア・ラブヴィエだ。彼女はこの事件を題材としたバスキアの作品《Defacement (The Death of Michael Stewart)》に強い衝撃を受け、18歳の頃からバスキアに取り憑かれてきたのだという。彼女は、バスキアがこの作品に強い思い入れをもっており、この作品についてしょっちゅう話していたというかつての恋人の証言を記事で紹介している。また、この作品にはバスキアの作品に頻出する「人種差別、奴隷制度、ジム・クロウ(アメリカにおける黒人差別を指す言葉)、革命の失敗と成功、植民地主義のトラウマを語るために用いる鋭く尖った王冠、著作権マーク、その他黒人の功績を示す記号といった通常のモチーフがない」とも指摘している。
バンクシーとバスキア
匿名グラフィティアーティストのバンクシーも、近年何度かバスキアへのオマージュとなる作品を描いている。2017年にはロンドンのバービカン・センターでの大規模回顧展に合わせて2点の壁画が、そして2019年には、バスキアの商業化/コモディティ化を皮肉った《Banksquiat (Black)》(2022)がお目見えした。前者には、1982年にバスキアが描いた《Boy and Dog in a Johnnypump》の登場人物を警官が身体検査しているイメージが描かれ、同時に声明も発表された。
「バスキア展がバービカンで新たに開催されます。この場所は、壁の落書きを熱心に消すことでよく知られています」
グラフィティの反権威的な批評性をメインストリーム化したのがバスキア(とヘリング)だったのだとすれば、バンクシーがそのレガシーに多くを負っているのは間違いない。バンクシーがバスキアにオマージュを捧げるのも頷ける話ではある。だが、バンクシーですら、アート界のハゲタカ投機経済から自由なわけではない。バスキアの1982年の作品《Untitled》は、2017年にサザビーズのオークションで1億ドル以上の値で落札され、公開販売された絵画として当時の世界最高額を叩き出したが、件のバンクシーの《Banksquiat (Black)》にしたって、サイン入りシルクスクリーン(エディション300)が今年8月に行われたサザビーズ・ロンドンのオークションで8万8200ポンド(11月27日時点のレートで約1650万円)で落札されている。
さもありなんという感じではあるが、NFT界隈でもバンクシーとバスキアは格好の餌食となっている。2021年4月27日付のDazedの記事「NFTオークションの落札者は、バスキアの原画を破壊するかもしれない」は、こんなことを報じている。
ジャン=ミシェル・バスキアのドローイングのNFTを競売にかけると、落札者はオリジナルの作品を破壊することができるという、もはやオーウェル的な恐るべき事態が発生した。
NFT(無形デジタルアート作品、または「非代替性トークン」)に向けられた欲望は、バンクシー作品の価値(9万5000ドル以上といわれている)をデジタル空間内に封じ込めるために、現物が燃やされるという事態をつい最近招いたばかりだ。今度は、バスキアの《Free Comb with Pagoda》(1986)が、アート作品をデジタル資産として独占所有するためにオリジナルを犠牲にしてしまおうとするコレクターの欲望の犠牲となりかねない。
伝説的アーティストが紙に描いたこのミクストメディア作品は、OpenSeaマーケットプレイスで販売され、入札は1イーサリアム(約2,500ドル相当)から開始される。落札者の裁量で物理的なドローイングを「解体」してしまえば、NFTが作品の「唯一の存在」の地位を獲得することとなる。
死にながら生きている
バスキアとそのレガシーを取り巻くこうした状況を一言で言い表すなら「虚無」ということにはなるまいか。バスキアは、絶えず墓から掘り返され、換金されていく。バスキアが鋭く抉ったとされる「人種差別、奴隷制度、ジム・クロウ、革命の失敗と成功、植民地主義」をめぐる体験や感情は、それがことばとなった瞬間にハイプ化しては空疎化し、瞬く間にヴァーチューシグナリング(自分の道徳的価値観の正しさを誇張すること)と価格高騰の依り代へと転じていく。コロナ以降の政治的風土にあって、ポストコロニアリズムからブラック・ディアスポラ、クィアネスまで、現代的で美味しいバズワードをこれでもかと纏ったバスキアは、死してなお搾取され続ける都合のいい死体のようだ。そして、バズワードがキャッチーであればあるほど、その落札価格もまた高まっていく。
興味深いのは、そうした状況に抗い、死体とその聖遺物の奪還を試みるかつての友人たちやコラボレーターたちの憤慨をよそに、バスキア自身が、そうした状況を生きていたときからとっくに悟っていたように感じられるところだ。前述のエピソードのなかでバスキアが、黒人を乗せたがらないのは黒人タクシー運転手も同様だと皮肉混じりに語るとき、「死んだのは自分だったかもしれない」と同世代の黒人アーティストの死を悼むとき、そしてその追悼画にトレードマークとも言える闘争の記号を描きこまなかったとき、バスキアは、自分が戦っているシステムや体制が、闘争や革命によって簡単には転覆されえないものであること、自分たちがいまなおそのシステムの奴隷であり「死にながら生きている」存在であるということ、そしてその体制の打破に向けた戦いが勝利に終わることなど永遠に不可能であることを深く感じ取っていたように思える。
しかしながら、バスキアは不思議なことにニヒリズムやペシミズムに陥らない。バスキアの絵から不気味に爛々と蠢く生命力が消えたことはない。バスキアの描いた、決してポジティブではないけれど、かといってネガティブでもない、アイロニーと矛盾と悲哀に満ちた摩訶不思議な生命体は、それ自体がバスキアの闘争の表象だったはずだ。そしてそれは明確な歴史と形式をもった闘争の形式を示唆しているようにも見える。
ハイチのゾンビたちが表象するもの
「WORKSIGHT」18号の特集「われらゾンビ」の監修者である遠藤徹は著書『ゾンビと資本主義:主体/ネオリベ/人種/ジェンダーを超えて』(工作舎)のなかで、世界で初めて黒人奴隷たちが白人支配者を追放したハイチ革命についてこんなことを書いている。
奴隷たちが掲げた革命のスローガンは、「死よ永遠なれ(Long Live Death)!」であった。それは、白人側からすれば矛盾した物言いでしかなく、戸惑いをもたらすものだった。しかし、反乱する奴隷の側からすれば、それはきわめて自然な表現だった。モノ、すなわち死者同然の生命のない道具(Death)として扱われた奴隷たちが、生きる権利を要求する(Long Live)ということを、それは意味していた。服従の現実と、能動的反抗の意志がねじれたかたちでないまぜになった複雑なスローガンだった。
自分たちを死者として表象した彼らは戦いにおける死を怖れなかった。なぜなら、モノとして扱われ、すでに死んだも同然だったからである。「俺たちには母も子もない。とすれば死がいったいなんだというんだ」。彼らはそんなふうに声をあげた。奴隷には家族がなかった。それどころではない。自分すら所有できていなかったのだから、最初から失うものがなかったのだ。すでに、あらかじめ死者だから、死を怖れる必要がなかったのである。そして、死を怖れず戦うことで、死が生へと転じる奇妙なねじれが起こったのだ。
こうした「死者の逆襲」としてのハイチ革命は、1791年に起きたものだった。フランス革命の2年後のことだ。遠藤はこう続ける。
信心深く、熱狂的で、満たされないとされていた黒い人々の群れが、より「合理的な」はずの白人たちを駆逐し、フランスは植民地のひとつを失った。かくして誕生した初の「黒人共和国」という社会ー政治的に異例の事態は、ヨーロッパや北アメリカにおいて、人種差別的な恐怖感を刺激した。彼らはこの共和国をヴードゥーによって退廃させられた地獄として表象した。
けれども、同時にそれは一部の西洋人を魅惑する出来事でもあった。なぜなら、ここには自由の理想があったからで、その意味ではこれはフランス啓蒙主義の理想の実現に他ならなかったからである。
しかし、ここに啓蒙主義の理想が確固たるものとして永続したかというと、ことはそう簡単にはいかない。ハイチの黒人共和国は1804〜1915年まで持続したが、アメリカの占領・再植民地化によって終止符を打たれることとなる。遠藤は、ハイチの革命のなかに、主人/奴隷、服従/革命といった二項対立をめぐる弁証法を挫折させる存在として「ゾンビ」というものを位置付ける。ゾンビは、ここではわかりやすい「抵抗者の表象」ではなく、その対立を宙吊りにする存在として機能する。
生きながら死んでいるという矛盾した状態にあるゾンビは、奴隷と反乱奴隷とを分けるのがいかに困難であるかを示唆している。(中略)ゾンビの弁証法はだから、主人/奴隷という二項対立とはならない。奴隷/反乱-奴隷という自己言及的で、不可能な二項対立となる。つまり、奴隷状態からの反乱のうちにも、常に奴隷の状態が潜在しているという解きえない弁証法なのであり、それがゾンビを完全なる抵抗者として読もうとする試みを常に(そして、あらかじめ)挫折させる(させている)。確かにハイチ革命は世界で唯一成功した奴隷革命であった。だから、20世紀以降のゾンビの群れには、確かに怒れる暴徒の影が潜んでいる。奴隷であると同時に、革命と結びつけられたハイチのゾンビたちは、いまでもなお、復活し続けることによって、完全には成功しなかった革命の身振りを空しく反復し続けているのだともいえるだろう。革命に至らない革命、けれども元の状態に留めおきはしないという意志。常に失敗、敗北とないまぜになった勝利、終わらない服従のなかの不服従。その不服従のなかにあらかじめ内包されたさらなる服従。
噛んだのはあなただったのか、それともバスキアだったのか
死してなお隷属させられ搾取され続けるバスキアは、実際、「二項対立/弁証法」の語をもって語られることが少なくない。富と貧困、支配者と奴隷、洗練と野蛮、服従と抵抗、隔離と融和……語られる二項はいくらでもある。だが、そうした対立を、バスキアがいかに止揚不可能なものとして生きたのか、あるいは描いたのか、といったことについてはさほど語られない。バスキアが、ハイチ革命と同じように解けない弁証法を生き、それを作品化したと認めるのであれば、厚顔無恥なグローバル経済やデジタル経済によっていまなお彼が隷属させられ搾取されていることに真正面から憤慨し、陳腐な「反逆児」として彼を奉ることそれ自体が、ハイチのゾンビ革命のありようを裏切ることにもなりそうだ。
バスキアの絵画のなかに登場する、虚無のように黒いシルエット、原始的な仮面のようにも骸骨のようにも見える自画像、人間としてのニュアンスを一切欠きながら魔術的な力だけが漲るヒトガタが、ゾンビに見えてならない。それは「終わらない服従のなかの不服従。その不服従のなかにあらかじめ内包されたさらなる服従」のなかに永遠に留め置かれた存在だ。そして、新自由主義経済がもたらす永遠の自己搾取のなかで空転し続けるわたしたちの姿にも、それはよく似ている。
バスキアとその絵画を飽きることなく消費し続ける一方で、そこに飽きることなく「自由の理想」を見いだしては結局のところそれを自ら食い尽くしてしまうのを、わたしたちが延々と繰り返すであろうことを、バスキアはどこかで見切っていたのではないだろうか。自らゾンビと化したバスキアは、そうやって逆説的にわたしたちのゾンビ性を露わにする。後期資本主義社会はゾンビ社会であり、誰もその外を想像することさえできない。バスキアはそのことを身をもって体現し、その体験を不気味なバイタリティをもって描き出した。「WORKSIGHT」18号にも転載したブライアン・エーレンプライス(Brian Ehrenpreis)による、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)や『ゾンビ』(1978年)で知られるホラー映画の巨匠、ジョージ・A・ロメロ論(「MUBI」2019年2月22日)に倣うなら、バスキアもまた、投機の論理が剥き出しとなったアート界を舞台に資本主義的ウロボロスを描いた偉大な記録者だった。だがそれだけではない。バスキアは同時に、その果てしない虚無のサイクルへと人びとを引きこむ罠となり、いまなおそうあり続ける。ゾンビに噛まれたら、誰もが即座にゾンビになってしまう。噛んだのはあなただったのか。それともバスキアだったのか。
*
種を明かすなら、ジャン=ミシェル・バスキアには父親を伝ってハイチの血が流れていた。にもかかわらず、バスキアとハイチの関連について詳しく掘り下げた論考は少なく、ゾンビについての言及ともなれば皆無に等しい。ハイチ/ゾンビとバスキアをつなぐ線はあるようで実はない。強いていえばアンダーグラウンドヒップホップの重要人物にしてハイチの血を引くラッパー、Mach-Hommyだろうか。彼の傑作『Pray for Haiti』のジャケットはバスキアの作品《Untitled(Fishing)》(1981)へのオマージュとなっており、これが手垢にまみれつくしたバスキアへの初めての新鮮な接続回路となってくれたわけだが(ちなみに『$payforhaiti』でMach-Hommyと共演したKaytranadaもハイチ生まれだ)、「basquiat zombie」でGoogle検索をかけると、自分のPCではいつも上位にこの《Untitled(Fishing)》が上がってくるのが自分にはことさら意味深に思えた、というわけだ。
Text: Kei Wakabayashi