精神疾患の「伝わらぬ苦しみ」をそのまま再現。元患者がメガホンを握る映像作品「The Directors」【医療とアートの最前線 Vol.4】
人の心を動かすアートを医療現場に採り入れることで、患者や医療従事者のウェルビーイングを向上させようという動きが世界で広まっている。その取り組みをロンドン在住のジャーナリスト、清水玲奈がレポートする連載「医療とアートの最前線」。第4回は、精神疾患の元患者による「監督」のもと、アーティストが彼らの体験を再現した映像シリーズ「The Directors(ディレクターたち)」について。
アート作品をつくり、見る目的は何か──その答えのひとつが、「人間をより深く知ること」なのだとすれば、アーティストのマーカス・コーツによる映像シリーズ「The Directors(ディレクターたち)」(2022年)は、いまだその全容解明からは程遠いと言える「精神疾患」の実態を、そしてその言語化しづらい苦しみを視覚的に追体験させる作品として、医療の現場にも新しい知見を提供している作品と言えそうだ。
このシリーズを制作するにあたりコーツは、精神疾患から回復した5人の人々にそれぞれ自分の物語を「監督」してもらい、自身は「演者」となって、彼らの体験を作品の中で再現し、記述していくというアプローチを採用している。
コーツは1968年、ロンドン生まれ。これまで人と動物との関係をテーマにしたパフォーマンスや映像作品を多く手がけてきたアーティストだが、もっと直接的に「人間とは何か」を考察するために「The Directors」に取り組んだという。「The Directors」は5人の元患者それぞれの体験を描いた5本のショートフィルムから成るシリーズ作品で、芸術活動を支援するイギリスの慈善団体、Artangelのコミッションワークとして制作された。
映像で表現される壮絶な体験
こうしたテーマの映像作品では、患者が自分の体験を語るドキュメンタリーの形態がとられることも多いが、コーツが採った手法はその逆で、自らが俳優となって患者を演じている。そして、アーティストである彼の代わりにメガホンを取ったのは、彼がメンタルヘルスの慈善団体MINDを通してコラボレーションを打診した回復期の患者5人だ。それぞれの元患者たちは、自分の体験を語る上で重要な場所を舞台に選び、脚本なしでカメラの後ろに立ち、コーツに指示を出しながら、その場所で起きたエピソードを映像で再現していく(脇役や黒子として登場する撮影アシスタントは、別の俳優たちが演じている)。
フィルムはドキュメントフィクションではなく、いわばそのメイキングであり、ディレクターの指示とコーツのやりとりもそのまま記録された。コーツが真摯にディレクターの指示に耳を傾け、懸命に演技する様子は滑稽でもあり、悲痛でもある。コーツの演技は真に迫るというよりは不器用な失敗の連続に見える。精神的な苦痛を自分ごととして感じ、考えることを、見る人に促しているようだ。
例えば、動画のひとつである《The Directors: Marcus》(2022)の中で、薄暗い小さな劇場の舞台に置かれた椅子に座ったコーツは、動く黒子たちによって水の入ったバケツに頭を突っ込まれたり、電熱器で火傷を負わされたりする。これは、ディレクターであるマーカス・ゴードンがバスの座席で感覚を、コーツが文字通り肌で体験しようとする試みを映像にとどめたものだ。フィルムの最後にコーツは「一体何が起きているんだ」とつぶやく。これは、ゴードンがバス車内でブレイクダウン(神経衰弱)の寸前に耳にした言葉だという。
ルーシー・デンプスターが監督した《The Directors: Lucy》(2022)の舞台は、ロンドンにある公営住宅の部屋を忠実に再現したレプリカだ。映像に映るコーツに対して、デンプスターがカメラの後ろから演技やセリフを指示する。コーツは正確に演じようと質問を重ねるが、そこに、デンプスターが幻聴としてずっと聞いていた男性の声がかぶさり、質問をしすぎるなと叱責する。そして、厚紙を切って作られた実物大の人形がベッドの脇に現れてコーツに迫ってくるところで、フィルムは終わる。人形の足は、血が流れたように赤く塗られていた。
デンプスターは病状が最も悪化していたころ、目に見え、耳に聞こえ、肌で感じられる世界すらもが、本当に実在するのかまったく不確かに感じられるという感覚を常におぼえていたという。映像を見ると、終わることのないその感覚の過酷さが痛烈に伝わってくる。
アントニー・ドノホーが監督した《The Directors: Anthony》(2022)は、ドノホーが母親と暮らすイギリスの典型的な家のリビングルームと、失業者が求職活動をするために訪問が義務付けられているジョブ・センター(日本のハローワークに相当)が舞台だ。バーのウェイターの仕事を職員紹介され、半裸で勤務することを含む仕事の概要を淡々と説明されるうちに、映像の中のコーツの表情は困惑を極め、鑑賞者も、患者が日々強要される社会的な疎外感や屈辱、恐怖を追体験することになる。
タブーを超えて
2017年にプロジェクトを始めるにあたり、コーツはロンドンのモーズリー病院でアーティスト・イン・レジデンスをおこない、ロンドン大学キングスカレッジの神経科学者イザベル・ヴァリ博士の協力のもと、取材を始めた。コーツの狙いは患者に対する理解と共感のための道を考察することだったが、調べれば調べるほど自らが経験したことのない精神疾患を本当の意味で理解することは不可能なのではないかという疑念が募っていったという。5年にわたるリサーチの結果、コーツは精神疾患を体験した当事者本人に監督を務めてもらい、アーティストである自分は出演者として彼らの経験を再現するのが、最良の方法であると考えるようになった。
週刊科学誌「ニュー・サイエンティスト」への寄稿で、サイエンス・ライターのサイモン・イングスは「The Directors」について、「観る人を混乱させ、そして恐怖に陥れるショートフィルム」と評した。この記事の中でイングスから「この作品は患者を搾取するものではないか」と聞かれたコーツは、「アーティスト(としての自分)を搾取した」と回答している。
コーツの狙いはショッキングな映像を通して患者の立場に立ち(少なくとも立とうとし)、ときにタブーとされてあまり語られることのなかった精神疾患についての対話と理解を深めることだ。本作品のホームページには、それぞれのフィルムのディレクターたちが語る自身のライフストーリーや、マーカス・コーツを含む出演者たちの座談会が掲載されていて、それぞれの人物や症状についての理解を深めることができる。
例えば《The Directors: Marcus》のゴードンは20年ほど前、24歳の大学院生だったときに、妄想と現実の区別がつかなくなった。「8歳の頃から常に死や自殺、なんのために生きているんだろうという考えが、頭をよぎっていました。いわば、自分の心にさいなまれるのが当たり前になっていたのです。精神疾患が始まったとき、それが一気に加速しました」と振り返る。
《The Directors: Lucy》のルーシー・デンプスターは、作品を制作した感想をこう語っている。「私が人生で出会ったほとんどの人は精神疾患について話したがらなかったし、ましてや私の経験をテーマに短編映像を作ろうという人はこれまでいなかった。だから、実際に話を聞きたいと思い、気にかけてくれる人がいることが、私にとって何よりも重要だったんです」
理解できるかどうかは問題ではない
コーツは制作過程についてこう語る。
「状況を制御できないという感覚を得られたことが大きかったです。そしていわば、状況をただそのまま受け入れることにしたのです。大きな障壁を乗り越え、奮闘の果てに自分の力ではどうしようもできないところにまで自分を追い込み、そのことが全作品に共通するテーマになりました」
つまり彼は、「The Directors」シリーズの制作の過程で、自分が制作者=アーティストであるにも関わらず、自分の作品をコントロールできなくなるという体験を経て、期せずして精神疾患者の抱える無力感を実感することとなった。本作は、それを記述する作業だったとも言えるだろう。
「他人の経験を完全に理解することはできません。そして、精神疾患の病状の一部は、私の理解をはるかに超えていました。でも、そこでは重要な点ではないのです。大切なのは、お互いに理解できるような言語や方法を作り出そうとする営みであり、理解しようとする試みそのものであり、そして、そんな試みが明らかにする何かです」
コーツは作品の制作を通し、アーティストとして、あるいは一人の人間としてのエゴを消して、対象となる人物になりきるという試みに挑んだ。「別の人間になりきるというプロジェクトで、私は自分自身を失い、自分の感覚を失わなければなりませんでした」と語っている。これは、患者の身近にいる人たちにはできないことだと彼は指摘する。
「患者の家族なら自分が安定した状態にあるというように見せたい、担当医なら首尾一貫したプロフェッショナルでありたいと願うものなので、自分を失うことは難しいでしょう」。さらに、他者の体験を理解する上でのアートの可能性を強調する。「私はアーティストだからこそ、自分を見失い、未知のもの、恐ろしいものに入り込むことができた。それは、アーティストならではの重要なスキルです」
「知る」ためのアート
アートだけに可能な手法で精神疾患を深く洞察する試みである「The Directors」のショートフィルムはそれぞれ、2022年9月と10月にロンドンのピムリコ地区の5カ所で初上映された。会場は撮影セットのモデルになった公営住宅や、実際に撮影が行われた劇場、近隣の医療施設などだ。上映の空間に身を置くことで、鑑賞者はさらに作品の世界を深く体験することになる。
また2023年10月10日の世界メンタルヘルスの日に、ロンドン大学キングスカレッジのキャンパスで上映されて討論会が同時に開催されるなど、研究施設や医療施設での上映が不定期で続けられ、識者によるパネルディスカッションも行われてきた。そこから派生した医療関連のプロジェクトに「What's Going On?(一体何が起きているんだ)」(作中に出てくるセリフである)がある。これは制作過程で得られた精神疾患患者の体験についての知見を資料として公開し、医療の研究や治療の現場で活かす取り組みだ。
アプローチは違えど、アートと医療は人間をよりよく理解し、人生をよりよいものにすることを究極の目標としている。その意味で、医療研究者の協力によって実現し、医療現場にも役立てられることとなったコーツの作品は、双方の分野が接近することで生まれる新しい可能性を示していると言えるだろう。