ピエール・ユイグが描く「ポスト・ヒューマン」の世界──未来への壮大な問題提起と、そこにある矛盾

ケリング会長兼CEOで世界的コレクターとしても知られるフランソワ・ピノー。彼の「ピノー・コレクション」が運営するヴェネチアの現代美術館、プンタ・デラ・ドガーナで、フランス人作家ピエール・ユイグの個展「Liminal(識閾)」が開催されている(11月24日まで)。人間の理性を尊ぶ啓蒙主義に問いを投げかけるユイグの作品をレビューする。

プンタ・デラ・ドガーナで開催中のピエール・ユイグ個展「Liminal」に展示されている《Offspring》(2018)。Photo: ©Palazzo Grassi, Pinault Collection, Venice

独自に進化する人間以外の存在を探求するユイグの作品

AIは人間の知性を超え、我われの存在を脅かすのではないか。そんな不安がいよいよ現実味を帯びつつある今、ピエール・ユイグの作品はその不安を払拭しようとするわけでもなく、破滅を予言するわけでもない。彼が提示しているのは、人間の意識が介在しない世界のありようだ。

プンタ・デラ・ドガーナの「Liminal(識閾)」展で、ユイグは長年探求してきたテーマである「他者性」を拡張し、人間以外の生物学的、化学的、そして技術的存在にとっての現実を探求している。彼が想定しているのは、そうした存在が独自の進化を遂げ、人間の介入なしに相互コミュニケーションが可能となる状況だ。サイバネティックス、神経科学、SF、哲学、ファンタジーそれぞれの間を行き来するようなユイグの作品は、その全てに関わる複雑な問題を理解しやすい形で示そうとしている。

17世紀に税関施設として建設されたプンタ・デラ・ドガーナは、大きな洞窟を思わせる歴史的建築だ。その空間をほぼ真っ暗にして、ポスト・ヒューマン(人間を超えた存在)のコミュニケーションや異種間のコミュニケーションを、さまざまな形で実験的に取り上げる展示は、これまでのユイグの展覧会でも最も凝った作りになっている。

冒頭に展示されているのは、展覧会タイトルでもある《Liminal》(2024)という作品だ。巨大なビデオスクリーンには顔の部分が黒く塗りつぶされた裸体の人物が映し出され、展示スペースのあちこちに無言で立っている生きた人間に取り付けられたセンサーに反応して動作する。この動きは、スクリーンの人物が記憶と言語を獲得するための学習プロセスの一部で、その記憶と言語は人間の理解を超えて進化することになるのだと私たちは告げられる。しかし、私たちの意識でそれを捉えることは難しく、実際に何が起きているのかはよく分からない。

ピエール・ユイグ《Untitled (Human Mask)》(2014)Photo: Courtesy Hauser & Wirth, London/Anna Lena Films, Paris/ Pierre Huyghe

機械が人間を埋葬する儀式

《Untitled (Human Mask)(無題 「人間の仮面」)》(2014)は、もう少しとっつきやすく感じるだろう。原発事故後の福島で撮影されたこの19分間の映像作品は、服やかつら、能面を思わせる白い面で少女のような扮装をさせられたニホンザルの動きを追ったもので、廃墟と化した居酒屋の中を動き回るサルの映像は不気味さに満ちている。その動作は人間のようでもあり、動物のようでもあるが、無表情な仮面を見ているうちに辛抱強さや切なさ、寂しさといった人間的な感情を投影してしまう。最後には立ち入り禁止区域になっている被災地のさびれた店先や街並みのショットが挿入され、世界が滅んだ後のような雰囲気が醸し出されている。

かつてこのサルは、居酒屋でおしぼりを渡すサービスをして客を喜ばせていたという。ユイグは、ポスト・ヒューマン的なシナリオに動物を登場させることで、人間と人間以外の存在が持つ意識や理解力の区別に対する疑問を投げかけているのだ。

別の映像作品《Camata(カマタ)》(2024)でも、同様の問いが機械に対して投げかけられる。カメラは、砂に半分埋もれた人間の骸骨を周囲から、そして上空から捉え、ぼろぼろになっている衣服の切れ端を映し出す。時々引きになるカメラに映るのは、奇妙なロボットアームが骸骨の近くでガラスの球体を持ち上げては並べ替える様子だ。ここで舞台になっているチリのアタカマ砂漠の乾いた風景も、やはり人類滅亡後の世界のように見える。

《Camata(カマタ)》(2024) Photo: Courtesy Galerie Chantal Crousel, Paris, Marian Goodman Gallery, New York, Hauser & Wirth, London, and Esther Schipper, Berlin, and TARO NASU, Tokyo

展覧会のウェブサイトには、「AIが指示を出し、リアルタイムで編集されるもので、機械学習によって駆動されるロボットが用いられている」との解説がある。私たちが目にしているのは、人類が絶滅した後に残った機械が人間を埋葬する儀式のようなものらしい。

ほかの作品でも、テーマとされているのは人間以外の主体だ。たとえば《Offspring(子孫)》(2018)では「自己再生システム」によって生み出された霧に、さまざまな色が投影される光のショーが繰り広げられる。また、《Zoodram(ズードラム)》(2013)では、人間の身体の一部を思わせる形のコンクリートが並ぶ不気味な水槽の中に、小さな海の生物たちが暮らしている。

さらに《UUmwelt-Annlee(U環世界-アンリー)》(2018-24)では、1つの展示室をまるまる使ったプレゼンテーションが行われている。アンリーとは、1999年にユイグがフィリップ・パレーノとともに日本のアニメ制作企業からデジタルデータと版権を買い取った脇役キャラクターの名前だ。はっきりした特徴や経歴が設定されていなかったアンリーは、その後ユイグをはじめ何人もの作家によって意味付けされ、それぞれが制作したアニメーション作品に登場している。

いわば白紙の状態にあったアンリーは、人間のような知性を持つシミュラクラ(人や物を表現または模写した物)をプログラミングする実験には理想的な材料だと言える。ユイグは、アンリーを頭に思い浮かべている人間の脳波とコンピュータをリンクさせるプログラムによって心の中のイメージを再構築し、アンリーと人間の間に一種の精神的融合をもたらす。その結果生まれるのが、形と色が次々と変化しながら重なり合う幻想的なイメージだ。展覧会のパンフレットによると、それは「周囲の状況に連動するいくつかのパラメーターによって無限に変化し続ける」という。

「人間を特別な存在にしているものは本当にあるのか?」

ユイグは私たちに問いかける。意識とは何か? 学習とは何か? 機械は学習できるのか? 人間以外の生き物はどのように思考するのか? それは私たちにとって何を意味するのか? 人間を特別な存在にしているものは本当にあるのか?

これらの問いは、人間の理性を他のあらゆる生命体や非生命体より高次のものとする啓蒙主義的総意の核心に関わる問題だ。ユイグの作品には人間が特権的な地位を奪われた別世界が見て取れるが、そこに問題がないわけではない。たとえば、偶然の出来事が起こりにくい美術館という規制された環境と、人間の介在なしに自己進化するシステムを作りたいというユイグの願望との間には相容れないものがある。

さらには、人間以外のものにとっての現実というユイグの考え方と、芸術家、創造者としてのユイグ自身の役割との間にも一種の矛盾がある。ユイグ作品の核心は、人間の特権性を否定することにあるが、作品のシステムを作動させるのはほかならぬユイグなのだ。ここでユイグは一歩引いて、いわば神のような役割を担おうとしているように見える。つまり、システムを整え、そして姿を消す存在だ。それはまさに、アイザック・ニュートンやルネ・デカルトをはじめとする啓蒙思想の始祖たちが乗り越えようとしたものだった。

ユイグの作品は非常に大きな問題を提起している。我われの意識は肉体の外へ踏み出すことができるのだろうか? 我われが人間からの離脱を図ろうとするのは、結局のところ、我われが超越的な存在になれることを示そうとする努力と同じくらい無益な試みに思えてならない。(翻訳:清水玲奈)

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