抑圧された声に耳を澄ます──映像作家ウェンデリン・ファン・オルデンボルフとの対話

山口情報芸術センターで開催されたウェンデリン・ファン・オルデンボルフの個展「Dance Floor as a Study Room──したたかにたゆたう」。戦時中の日本におけるフェミニスト作家たちが残した作品や、クィアのレイヴ・カルチャーに焦点を当てた作品が展示されている本展覧会について、ファン・オルデンボルフに話を聞いた。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《したたかにたゆたう─前奏曲》のワンシーン。Photo: Courtsy of the Artist
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《したたかにたゆたうー前奏曲》(2024) Photo: Courtesy of the Artist

オランダ人アーティスト、ウェンデリン・ファン・オルデンボルフによる展覧会「Dance Floor as a Study Room──したたかにたゆたう」が山口情報芸術センター[YCAM](以下、YCAM)にて3月15日まで開催された。

イギリスのゴールドスミス・カレッジでファインアートを学んだファン・オルデンボルフは、植民地主義や男性優位の社会、ヘテロノーマティブ(異性愛を「普通」とし、それ以外を「異常」とする考え)な社会など、支配的な言説や権力構造に疑義を呈す映像作品を制作してきた。

YCAMの「Dance Floor as a Study Room──したたかにたゆたう」は、2022年に東京都現代美術館(MOT)で行われた「柔らかな舞台」以来、彼女にとって2年ぶりの日本での個展となる。展覧会名にもなっているインスタレーション《したたかにたゆたう─前奏曲》(2024)、そしてMOTで公開された作品を含む計4作の映像作品・インスタレーションが展示されている。

公共施設に広がるダンスフロア

ファン・オルデンボルフは制作手法も特徴的だ。まず彼女は、作品の題材となる歴史的問題や社会課題に関連するロケーション、文献や映像をはじめとする資料をリサーチし、キャストやクルーとして参加する人々を厳選する。そして、撮影現場で繰り広げられる語りや対話を映像で記録することで、撮影に参加した人々の主観的なコメントや、現場で育まれた関係性を編み上げ、作中で取り扱う問題に対する多種多様な視点や感受性を一本の映像として提示するのだ。

これまで自身の出身地であるオランダのほか、ブラジルやインドネシアで起きた出来事を題材に作品を手がけてきたファン・オルデンボルフは、今回の展示に際して日本とオランダ、そしてインドネシアにゆかりのある女性アーティストのリサーチを実施。映像作品《彼女たちの》(2022)では、小説家の林芙美子と宮本百合子を取り上げ、新作では林に加えて女優で映画監督の田中絹代にも焦点を当てている。

また同展では、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争におけるオランダの軍事介入の是非を、オランダの王立陸軍士官学校に通う若い士官候補生に問いかけた映像作品《指示》(2009)、テレビ俳優と政治家を両立させたヴェチ・メンデスと、ヒップホップアーティストのデイジ・チグローナが語るリオデジャネイロでの暮らしに焦点を当てた映像作品《ヴェチ&デイジ》(2012)を展示。そして、多様な文化や社会が交錯していることを祝福するかのように、会場をダンスフロアに見立てたインスタレーションが、《したたかにたゆたう─前奏曲》終映後に幕を開ける。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《したたかにたゆたうー前奏曲》(2024年) Photo: Shintaro Yamanaka
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《したたかにたゆたうー前奏曲》(2024) Photo: Shintaro Yamanaka

パブリックライブラリーや映画館、地域の児童や住民が集う憩いの場が併設されているYCAMの一角に、学びの場としてのダンスフロアを出現させたファン・オルデンボルフ。日常によってかき消されてしまっている声に耳を傾けるオランダ人アーティストは、マイノリティが感じている息苦しさに連帯と憤りを示しながらも、抑圧的な思想に対して向き合う術を、明るくオプティミスティックに語るのだった。

なぜ日本を題材に作品を作ったのか

──グローバルサウスに焦点を当てた作品を多く手がけてきたウェンデリンさんですが、《彼女たちの》と《したたかにたゆたう─前奏曲》では、日本のフェミニズム文化やクィア文化など、依然としてオルタナティブなものとして日本では扱われることの多いこれらの文化に切り込んでいます。きっかけは何だったのでしょうか。

MOTから日本を題材にした作品の制作を依頼されたことがきっかけでしたが、日本に滞在して作品を作ることに抵抗がありました。なぜなら、作品を作るためだけにアーティストが国や地域に行くことに対してあまり好感をもてなかったし、言葉や歴史を熟知していないから。もちろん、制作に取りかかったりする前にリサーチはしますし、調査のためにさまざまな場所に行くこともあります。でも、その国に少しだけ滞在して、自分の関心を引くものだけをピックアップして作品を作っておしまい、みたいな風潮に嫌悪感を抱いていたので、私はこれまで自分が生活したことのない環境で作品を作ったことはなかったんです。

そんななか、私の制作スタイルや手法をより深く理解してもらうためには、地元で作られた作品があった方がいいとキュレーターの崔敬華に言われて。元々6〜7作品展示するつもりだったので、これまで私が作ってきた作品の入り口として、日本で制作した作品を展示するのは理にかなっていると思いました。

──新作のタイトルには「前奏曲」という言葉が用いられています。同時に、《彼女たちの》から継続して林芙美子に焦点を当てたほか、前作に出演したキャストも多く見られます。前作のテーマを引き継いだことと、「前奏曲」をタイトルに入れたことにはどんな意図があるのでしょうか。

MOTの「柔らかな舞台」展のために《彼女たちの》を制作したあと、男性優位の社会で活動していた女性アーティストたちに焦点を当てた作品を作りたいという思いが湧き上がってきました。というのも、日本とインドネシア、そしてオランダに、これまで振り返られることのなかった過去が存在していることに気づかされたから。私たちオランダ人は、インドネシア独立後に同国を再び植民地化するために実施された「警察行動(*1)」について考えることはありますが、第二次大戦中に日本軍が行ったインドネシア占領とオランダ人の抑留については触れてきませんでした。

この事実を地政学の側面だけでなく、当時を生きた女性アーティストたちの視点も踏まえて深掘りすれば面白い発見があるのではないかとMOTの個展が終わったときに思ったんです。女性が抑圧され、作品を世に出すことが難しい時代に、女性アーティストたちはどのように自己表現を行ってきたのか。戦時中に存在した階級闘争がどんなものだったのかを確かめたくなり、《彼女たちの》の続編のような作品を「前奏曲」として今回発表することにしました。また、世界各国で台頭し始めた国家主義的な思想の動向が気になっていたことも理由のひとつです。今後はインドネシアやオランダの女性アーティストに焦点を当てた映像を撮影して、一本の作品にまとめていく予定です。

*1 オランダにおけるインドネシア独立戦争の呼称

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《彼女たちの》(2022) Photo: Courtesy of the Artist
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ《彼女たちの》(2022) Photo: Courtesy of the Artist

二人の女性作家との出合い

──林芙美子の作品に出合ったきっかけは何だったのでしょうか。

日本で個展を開催することが決まった当時、日本は家父長的かつ年功序列の考え方が浸透している国だと認識していたので、女性たちの暮らしが気になったんです。結婚後の不自由さや女性の参政権を訴える文献を読んで、リサーチを進めていくうちに、林の代表作である『放浪記』や彼女の作品を解説する文献に出合いました。自身のセクシュアリティや欲望、自分の身体について大胆かつオープンに語っていて、読んだ途端に彼女に魅了されましたし、このような小説が1930年代に存在していたことに驚きましたね。

──今回は新たに映画監督の田中絹代もピックアップしていますよね。なぜ彼女を作中で取り上げようと思ったのでしょうか。

たまたま田中絹代の作品の上映会があると友人に教えてもらったことがきっかけです。調べるうちに、彼女が日本で二人目の女性映画監督だということを知りました。

彼女が活動していた頃の日本映画界は男性優位にあって、男性監督のほとんどは彼女のことを好ましく思っていなかったんです。自身の監督作品によく田中を起用していた溝口健二は、「絹代の頭では監督はできない」と彼女の才能を完全に否定していました。ほかにも、「小津安二郎や成瀬巳喜男といった男性監督の手助けがあったから監督になれた」とうがった見方をされ、社会的な作品を撮っていたにもかかわらず正当な評価は与えられていなかったのです。

そんな逆風が吹いているなかで、女性の視点からメッセージ性の強い作品を執念深く作り続けた田中は、個人的にとても興味深く、魅力的に映り、彼女についても言及しようと思いました。

批評的な視点をもつ人を増やしたい

──1940年代の階級闘争や現代日本のクィアシーンにおけるレイヴパーティをテーマに添えた背景には、映像制作を始めた頃と同じような使命感があるのでしょうか? 過去のインタビューでは、オランダとインドネシアの関係に焦点を当てて、異なる角度から議論を行うために映像を作り始めたと話していましたよね。

そうですね、映像を作り始めたころと似たような信条をもって今も作品を作り続けているとは思います。

──当時と似たような信条というのは?

資本主義やユダヤ・キリスト教文明はみんなブルシットだということ。資本主義と植民地主義、家父長的な考え方は根本的に抑圧的で、現地に存在していた視点や考え方に影響を及ぼしている。セクシュアリティもその好例で、いま浸透している性別二元論は欧米の植民地主義的な考え方からきていて、完全にキリスト教的な視点なのです。例えばインドネシア、スラウェシ島南西部に居住しているブギス族には5つの性別が存在しています。

とはいえ、抑圧的な思想を批判する上で、資本主義や植民地主義、異性愛主義といった言葉には縛られないようにはしているんです。というのも、こうした考え方が社会的弱者に及ぼしている影響を理解して、打開策を考える必要があると思っているので。

──資本主義的な考え方というのはアート業界にも影響を及ぼしているのでしょうか。

作品が作られる際にも資本主義は大きく関係しているでしょうね。実際には、資金的な問題もありますから。確かに、小規模な組織ほど社会的メッセージを発信しやすい状況はあります。そうなった場合、潤沢な制作費を設けることはできませんし、作品の規模は必然的に小さくなってしまいます。メッセージ性の強い作品を制作・展示できる余白を大きな美術機関が設けることができれば、作家に対する注目度も高まりますし、資金も集まりやすくなるでしょう。

とはいえ、アーティストとして資本主義というシステムを使いこなすことは難しいのも事実です。このシステムは、ある事象に対してアンチテーゼを掲げ、自分が賛同しているものを補助できるような仕組みではないと思っているので。アーティストに求められるのは、多くのエコシステムやプラットフォームと関わりながら制作活動を続けていくことではないでしょうか。

──そういった制限もあるなかで、ウェンデリンさんは今後アーティストとしてどんなことを成し遂げたいと考えていますか?

「明日は明日の風が吹く」と考えて生きているから、成し遂げたいものは特にありません。でも、私の作品を観た人には新しい視点を提供できればいいなと思っています。そうすれば、批評的な視点をもって身の回りで起きている出来事について考えられる人が増えると思っているので。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ|Wendelien van Oldenborgh
1962年オランダ・ロッテルダム生まれ、ベルリン在住。人びとと協働しシナリオや設定を作り上げる映像制作を、諸形態の作品を生み出すための方法であり言語として探究してきた。第57回ヴェネチア・ビエンナーレのオランダ館で代表作家を務めたほか、2016年のあいちトリエンナーレやキーウ・ビエンナーレなど国際芸術祭への出展歴を多くもつ。

Edit: Asuka Kawanabe

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