訃報:“ドレープペインティング”を生んだ黒人アーティスト、サム・ギリアムが死去。その独創性に満ちた活動を紹介
抽象画の新たな可能性を示し、多くのアーティストに影響を与えた画家、サム・ギリアムが6月25日に腎不全のため亡くなった。享年88歳。ギリアムが所属する2つのギャラリー、デビッド・コルダンスキーとペースが訃報を発表している。
ギリアムの抽象画の独自性は、その多くが彫刻的だということにある。絵画は必ずしも平面である必要はないことを示唆しているのだ。また、絵の具がカンバスの上を流れるままにする彼の手法は、意図的な描写を避け、偶然性を受け入れるものだった。
1973年のARTnewsのインタビューで、ギリアムは次のように語っている。「アーティストの使う材料が多様化し、複数の芸術トレンドが同時多発的に起きている今、1つの問題を追求し続けることが難しくなっている。そんな時代に作家活動をする上で重要なことは、自分自身で問題を設定し、粘り強くそれを突き詰めることだ」
こうした姿勢から生まれ、アーティスト人生の後半で知名度が大きく上がったギリアムの作品は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ディア・ビーコン(ニューヨーク)、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭(ワシントンD.C.)、スイスのバーゼル美術館などに展示され、長年にわたって多くの人々を魅了し続けている。
ニューヨーク中心の米国アート界で、ギリアムは周縁的な作家だと言われることが多い。ワシントンD.C.に拠点を置き、ワシントン・カラー・スクールと呼ばれる抽象画家グループの一員だった彼の作品がニューヨークのギャラリーで扱われるようになったのは、2019年にペースに所属して以降のことだ。
彼はまた、抽象画の世界で白人男性が優位だった時代に、批評家から高く評価された数少ない黒人画家でもある。とはいえ、最近になるまで、ニューヨーク近代美術館のようなメジャーな美術館がギリアムなど黒人作家の作品を積極的に収集し、美術史の中に位置付けていこうという動きは見られなかった。
ギリアムがキャリア初期に注目を集めたのは、1972年のヴェネチア・ビエンナーレだった。黒人作家として初めて、米国館で展示を行ったのだ。そのことは、ラシッド・ジョンソンなど数多くの後進アーティストに影響を与えている。
ギリアムの芸術が、人種に関して自分のスタンスを確立する指針になったと語るジョンソンは、デビッド・コルダンスキー・ギャラリーでギリアムの個展を企画したこともある。ちなみに、ロサンゼルスを本拠とするデビッド・コルダンスキーは、ギリアムとジョンソン両者の作品を扱っている。
また、アーティストのグレッグ・アレンは、以前アート・イン・アメリカ誌にこう書いている。「その長い作家人生の中で、ギリアムがアートシーンから消えてしまったように思える時期があったとしたら、それは単に人々が彼を見ようとしなかったからだ」
《10/27/69(69年10月27日)》(1969) Courtesy David Kordansky Gallery, Los Angeles, and Pace Gallery/Photo Fredrik Nilsen/Museum of Modern Art
型破りなカンバスの使い方を生み出す
壁から完全に解放されたようなドレープペインティングで、ギリアムが芸術的な飛躍を遂げたのは1960年代半ばのことだった。鮮やかな色彩に溢れた絵は木枠に張られていないカンバス地に描かれているので、壁や天井から吊り下げられると、ところどころ生地がたわむことになる。これらの作品は非常に大きなスケールのものが多い。
ドレープペインティングがどのように始まったかについて、ギリアム自身はいろいろな説明をしているが、中でも美術史家が最もよく引き合いに出すのは、73年にARTnewsに掲載されたインタビューに出てくる話だ。彼はその中で、カンバス地が「ロープが洗濯物を掛けすぎた時みたいに重く垂れ下がっていたから、途中で支える必要があった」と述べている。
また、ギリアムが語るところによると、ケネス・ノーランドやトーマス・ダウニングといったワシントン・カラー・スクールの仲間の作品や、アルブレヒト・デューラーなど先達の作品を研究したこともきっかけになったという。
ドレープペインティングは、早くから美術館に受け入れられ、ニューヨーク近代美術館やコーコラン美術館(ワシントンD.C.)などで展示されている。だが、その美術史的な意義については、ようやく焦点が当たりつつあるところだ。2021年にディア・ビーコンとヒューストン美術館が《Double Merge(ダブル・マージ)》(1968)という大型作品を共同購入しているが、長さが20メートル以上ある2枚のカンバスを吊り下げたこの作品が一般公開されたことはそれまで一度もなかった。
ギリアムは、ドレープペインティング以外にも、さまざまな実験的方法で抽象画を制作している。1967年から取り組み始めたシリーズでは、カンバス地にアクリル絵具を染み込ませ、折れたり皺になったりしたまま乾燥させた。すると、カンバスの表面には色彩を撒き散らしたような、不思議な模様が浮かび上がる。そのカンバスを、縁を斜めにカットした枠の上に取り付け、抽象画が壁から飛び出してくるように見せたのだ。
また、ドレープペインティングでは、キャンバスの一部を切り取ることもあった。常識にとらわれないこうした手法についてギリアムは、絵画の概念が変化していることへの、自分なりの反応だったと語っている。さらに、89年に記録されたオーラルヒストリーのインタビューでは、こう話している。「ドレープペインティングを作っていた時、私は彫刻を作ろうとしていたのではなく、絵画を問い直していたのだ」
《Fan Craze(ファン・クレーズ)》(1973) ©Sam Gilliam/2022 Artists Rights Society (ARS), New York/Courtesy David Kordansky Gallery and Pace Gallery
黒人であることと、どう向き合ったか
ギリアムの初期の抽象画は、ピーター・シェルダールなどの美術評論家から高く評価された。シェルダールは2020年のニューヨーカー誌で、「眩いばかりの色彩が視野いっぱいに広がり、波打つような印象を与える」と賞賛している。
同じ年に、評論家で詩人のフレッド・モートンはこう書いている。「私はギリアムの作品にとても惹かれる。しかし、その思いがあるからといって、作品の魅力を誇張しているわけではない。私は、彼の作品と親しく打ち解けることができないが、そこから抜け出すこともできない。ここでは、読者が何かを得られるような文章を書かなければならないのは分かっている。けれども、これを読むあなたが何も得られなかったとしても、それはあなたのせいではない。それは私のせい、というよりも、すべてギリアムのせいなのだ。大きな渦巻きのような、抗しがたい渦潮のような、深さと表面との相互作用から生まれる渦のようなものなんだ」
ギリアムが黒人であることと作品との関連性を問う声もある。この点について彼自身は概ね否定的で、2018年のニューヨーク・タイムズ紙のインタビューでは「肌の色は重要ではない」と答えている。
それでも、彼の初期の抽象画は、人種問題に関係した展覧会で展示されている。たとえば、米国で初めて有色人種と白人の作品が一緒に展示された1971年の「The DeLuxe Show(ザ・デラックス・ショー)」や、2017年に始まり現在も巡回中の「Soul of a Nation: Art in the Age of Black Power(国民の魂:ブラック・パワーの時代のアート)」などがある。
また、社会問題や政治問題をほのめかすようなタイトルの作品もある。それも、黒人であることや黒人の著名人に関するものだ。あるドレープペインティングは、《Three Panels for Mr. Robeson(ローブソン氏のための3枚のパネル)》と名付けられているが、これは歌手で公民権運動活動家のポール・ローブソンにちなんだものだ(ギリアムの妻で著述家のドロシー・バトラーはローブソンの伝記を書いている)。別の作品は、《Composed (formerly Dark as I Am)(コンポーズド〈旧:私は黒人だが〉)》(1968-74)で、このタイトルは、ギリアムが黒人であることと、この絵の形式的な側面の両方に言及しているようだ。
1968年にキング牧師が暗殺された後、ギリアムは彼にちなんだ抽象画をいくつか制作している。しかし、キング牧師が撃たれた日を示唆するタイトルの作品でも、公民権運動を指導したキング牧師が明確に表現されているわけではない。アコーディオン状に折りたたんで乾燥させた一連の抽象画についてギリアムは、「紋章のようなメタファー」が含まれていると語っている。
こうした作品を制作していた頃のギリアムは、黒人アーティストの間で議論を呼んでいた「ブラック・アート」という言葉とは微妙な距離を取っていた。具象画を描いていた黒人作家の中には、ギリアムの芸術は黒人の美学を表していないと考える者もいた。ギリアムが用いていた抽象的な表現は、黒人の生き方とは関係がないとされていたからだ。
ギリアムの作品は、69年にハーレムのスタジオ・ミュージアムで開催された、「X to the 4th Power(Xの4乗)」に出品されている。この展覧会は画家のウィリアム・T・ウィリアムズが企画したもので、黒人作家による抽象芸術の展覧会として重要なものに数えられる。しかし、これ以来13年もの間、同美術館でギリアムの作品が展示されることはなかった。
「黒人であることは、緊張感と自己発見という意味で非常に重要なポイントだ」と、ギリアムは73年のARTnewsのインタビューで語っている。「私たち黒人は白人の世界観から生まれた二項対立にむりやり巻き込まれている。私たちが自己をありのままに受け入れるためには、この二項対立を捨てなければならない。それを正面から客観的に行うべきだと考える者もいれば、そんなものは存在しないとする者もいる。自分は、普遍的な生き方が求められているのだと思う」
《Seahorses(タツノオトシゴ)》(1975) Photo Johansen Krause/Courtesy of the artist, David Kordansky Gallery, Los Angeles, and Pace Gallery
2000年代の回顧展をきっかけに再評価される
サム・ギリアムは、1933年にミシシッピ州テューペロで、鉄道員の父と教師の母の間に生まれた。間もなく一家はケンタッキー州のルイビルに移住。ギリアムはルイビル大学で美術の学位を取得する。
大学卒業後の数年間は米国陸軍で兵役に服し、58年の除隊後はルイビル大学に戻って修士号を取得。卒業後は恩師の助言に従い、ワシントンD.C.の高校で教職に就いている。それは、アーティストとして身を立てたいと考える黒人が就くことのできる数少ない職業の1つだった。
当初は具象画を描いていたが、ワシントン・カラー・スクールの画家たちとの出会いをきっかけに、抽象画を描くようになったという。最もよく知られているのは、60年代から70年代にかけて制作された抽象画だが、ギリアムはその後もずっと作品を作り続けてきた。近年は彫刻も手がけるようになり、色彩豊かな日本の和紙を使ったピラミッド型の作品を発表している。
80年代と90年代は発表の機会が減っていたが、2005年にコーコラン美術館で初の本格的な回顧展が開催されると、再評価の機運が高まった。18年にスイスのバーゼル美術館で開かれた回顧展は好評を博し、これをきっかけに、ギリアムの作品は米国以外でも広く知られるようになった。
そうして多くの人が彼と彼の芸術に注目するようになる中、ギリアム自身は謙虚な姿勢を崩さなかった。とはいえ、アート・バーゼルに作品が出品されることになった18年、彼はニューヨーク・タイムズ紙でこう語っている。「みんなをびっくりさせてやるよ」(翻訳:野澤朋代)
※本記事は、米国版ARTnewsに2022年6月27日に掲載されました。元記事はこちら。