ルネサンス期を象徴する傑作、《ダビデ像》の誕生秘話を振り返る
500年以上人々を魅了し続けるミケランジェロの《ダビデ像》。その圧倒的存在感と芸術的価値、そしてフィレンツェの歴史における重要性を解説する。

イタリア・ルネサンス期の巨匠、ミケランジェロが手がけた《ダビデ像》を「時代を象徴する作品」と表現するだけでは、その本質を捉えきることはできない。この像は、芸術的評価の面においても美術史における記念碑的作品であり、世界一有名な彫刻作品だと言える。ましてや、高さ約4.3メートル、重さ6トン以上というその存在感は圧倒的だ。
カッラーラ産の白い大理石を用い、全裸で表現された《ダビデ像》(1501–1504)は、フィレンツェ・ルネサンスの絶頂期を象徴し、ヨーロッパが中世から古典主義へと移行する転換点を体現した傑作だ。1550年に初版が刊行された『画家・彫刻家・建築家列伝』(日本では『美術家列伝』としても知られる)において、ジョルジョ・ヴァザーリはこう記している。
「この作品は、現代彫刻はもちろん、古代のギリシャやローマの彫刻よりも優れている。この作品に匹敵する芸術はほかに存在しないと言ってよいだろう」
実際、この作品の評価は当時から極めて高く、《ダビデ像》の設置場所をめぐる議論にはボッティチェリやレオナルド・ダ・ヴィンチも参加していた。ダ・ヴィンチはその出来栄えに羨望の念を抱き、人目につかない場所への設置を提案したほどだった。しかし、彼の意見は採用されず、最終的にこの像は当初予定されていた大聖堂の屋根ではなく、フィレンツェ政権の中心であるヴェッキオ宮殿前のシニョーリア広場という、最も名誉ある場所に設置されることとなった。
イスラエルの羊飼いの少年で、のちにイスラエルの王となるダビデは、長年にわたって芸術家たちに取り上げられてきた。例えば、ドナテッロが1440年代に制作した《ダビデ像》では、片手を腰に当て、もう一方の手で剣を握りながらゴリアテの切り落とされた頭を踏む姿が描かれている。
ルネサンス期のフィレンツェでは、ダビデは自由と自治の象徴と見なされていた。そのイメージは、フランスの王、シャルル8世がイタリアを侵攻した際に強化される。屈辱的な外交により独立を損なったメディチ家は市民によって追放され、新たな共和国が樹立された。しかしながら、その始まりは暗く、聖職者であるジローラモ・サヴォナローラによる神権政治が続く。不安定な政情と外敵の脅威に直面した時代にフィレンツェでは、「正義の武器を手に取り立ち上がる若者」としてダビデを再解釈し、その理想を結晶化した作品が、ミケランジェロの《ダビデ像》だったのだ。
実のところ、《ダビデ像》の制作はミケランジェロの発案ではなかった。1463年、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の造営局は、ドナテッロの弟子アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオに像の制作を依頼していた。当初は複数の大理石を用いる計画だったが、カッラーラの採石所で選ばれたのは、「ビアンコ・オルディナリオ」と呼ばれる質の低い岩塊1つだけだった。ディ・ドゥッチオはダビデの胴体や脚の部分を荒削りしたものの、1466年に師が死んだことを機に、作業を放棄したという。10年後にドナテッロのもう一人の弟子、アルアントニオ・ロッセルリーノが後を引き継いだが、素材の質の悪さを理由に途中で手を引いている。この大理石は「イル・ジガンテ(巨像)」と呼ばれ、大聖堂の庭に横たわったまま25年間放置されたのちに、ミケランジェロが手を加えることとなった。
ミケランジェロが彫刻の制作を1501年9月13日に始める前に、大聖堂を管理する組織は横たわっていたイル・ジガンテを直立させ、周りに足場を組んだ。作業は屋外の中庭で風雨にさらされながらも秘密裏に実施された。過酷な環境をものともせず、そこに創造性を宿すミケランジェロの姿勢は、やがてシスティーナ礼拝堂の天井画の神話的制作へとつながっていく。
しかし、像は完成したものの、当初の計画通りに大聖堂の上まで引き上げる手段がないことが判明。その後、適切な設置場所を決めるために先述の委員会が招集され、ボッティチェリは大聖堂近くの設置を推した。しかし、大理石のもろさを考慮した他の委員会メンバーたちは、屋根に守られたシニョーリア広場のロッジア・デイ・ランツィの屋根の下に置くべきだと主張した。最終的にヴェッキオ宮殿の前に設置されることが決定し、政治的にも象徴的にも最も重要な場所に据えられることとなる。
完成間近の《ダビデ像》は木箱に梱包され、1504年6月に大聖堂からシニョーリア広場までの約800メートルの道のりを運ばれた。作業には40人の男たちが動員され、油を塗った丸太の上を転がしながら、搬送には4日以上を要したという。設置後もミケランジェロは手を加え続け、仕上げの細部を整えた。像の一部には金箔も施されていたが、この装飾は長い年月の中で剥がれていった。
ミケランジェロの《ダビデ像》は、それ以前のいかなる作品とも一線を画すものだった。従来の作品が勝利の瞬間を描いていた一方で、ミケランジェロはあえて戦いの前に焦点を当てている。肩に投石器をかけ、片手に石を握りしめるダビデの姿は、一見すると静かだが全身には緊張感がみなぎっている。こわばった表情、標的を鋭く見据えたまなざし、そして過剰なまでに大きな手が、うちに秘めた攻撃の爆発力を予感させる。ヴァザーリが述べたように、ミケランジェロが筋肉と表情を通してダビデに内在する緊張を伝える力と繊細さに匹敵する作品は、過去も現在も存在しない。
《ダビデ像》は、左脚に亀裂が発見されたことを受けて保存のために1870年代にフィレンツェのアカデミア美術館へ移設された。1882年にはアカデミア内の専用に造られた壁龕に置かれ、そこではドーム型のトップライトの下に設置されている。1910年には、シニョーリア広場の元の場所にレプリカが置かれた。
長年にわたり、《ダビデ像》は何百万人もの人々を魅了し続けてきたが、1991年には思わぬ被害に遭う。精神に支障をきたした芸術家、ピエロ・カンナータがハンマーで襲いかかり、左足の人差し指を折ったのだ。破片を持ち去ろうとした観光客とともに彼はその場で拘束されたが、像は無事修復され、人類の創造力の象徴として立ち続けている。(翻訳:編集部)
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