終わりなき反復動作が暗示するもの。造花と中古家電でできたレイチェル・ユンのぎこちない彫刻【New Talent 2025】

US版ARTnewsの姉妹メディア、Art in America誌の「New Talent(新しい才能)」は、アメリカの新進作家を紹介する人気企画。2025年版で選ばれた20人のアーティストから、中古の家電と造花を組み合わせ、ぎこちなく、エロティックな、そして一見ばかばかしい動きのキネティック・スカルプチャーを作るレイチェル・ユンを紹介する。

ベルリンのアートギャラリー、ソイ・カピタンで行われたレイチェル・ユンの個展「Pleasure Circuit」の展示風景。Photo: Roman März/Courtesy Soy Capitán, Berlin
ベルリンのアートギャラリー、ソイ・カピタンで行われたレイチェル・ユンの個展「Pleasure Circuit」の展示風景。Photo: Roman März/Courtesy Soy Capitán, Berlin

色とりどりの造花が回転し、身をよじるレイチェル・ユンのキネティック・スカルプチャー(動く彫刻)。機械によるその動きも、動いている作り物の花や観葉植物も、人工的なこときわまりない。

ユンは、フェイスブックのマーケットプレイスなどで中古のマッサージ器や電動ゆりかごといった小型家電を入手し、それに人工の植物を取り付け、自動停止機能が作動しないようモーターの配線に改造を加える。すると、人工植物はギャラリーが閉店時間になって電源が切られるまで、いたずらっぽい動きを繰り返し続ける。まるで、永遠に岩を山頂まで運び上げる罰を課されたギリシャ神話のシーシュポスのように。

韓国アメリカ人のユンは、ミズーリ州とニューメキシコ州でキリスト教バプテスト派の家庭に育った。セントルイスのワシントン大学で美術を学んだのち、2022年にイェール大学の修士課程へ進学している。

その作品の核になっているのは、手軽な癒しを標榜する家電(そして母性や親密さを手っ取り早く実現する電動ゆりかごやマッサージ器)に不具合や失望が内在することだ。そうした中古家電を手に入れるとき、ユンは機械の寿命が近いかどうかは気にせず、モーターを交換して寿命を延ばそうとする。しかし、大量生産された安価な製品の部品が次第に摩耗していくのは避けられない。あたかも、そうした物品自体が、「文字通りの意味で、そして比喩的な意味でも、役目を終えた物はどのように壊れていくのか」と問いかけているようだ。

2024年にベルリンのギャラリー、ソイ・カピタンでの個展で展示された作品に《Plus ça change(変われば変わるほど)》(2024)がある。これは、トレッドミルデスク(スタンディングデスクとウォーキングマシンを組み合わせた製品)の歩く部分を分解して作ったフレームの上を、茎にローラーを取り付けたフェイクフラワーが揺れながら動いていくものだ。複数の花はカーブした部分を素早く曲がり、互いにぶつかり合ったり、絡み合ったりしながら、フレーム上をぐるぐる回り続ける。

歩きながら仕事をするためのウォーキングマシンは、いわばマルチタスクや効率化を象徴する製品だ。しかし、作品ではそうした意識の高さは放棄されている。横倒しになったベルトコンベア部は花々にワルツを踊らせるための機械に変えられ、健康増進という本来の目的もどこかへ行ってしまった。

個展の作品には、エロティックな暗示を感じさせるものもある。その一例が《Rend(引き裂く)》(2024)で、ローラースケートの上に自転車の背もたれ付きシートを置き、その左右に肩マッサージ器が固定されている。マッサージ器にはさらに細い針金のようなものが取り付けられ、その先端にはピンクのランの花がある。マッサージ器の動作でランの花が閉じたり開いたりする様子は、中世の拷問台を思わせる動きに欲望の要素が加えられたように見える。

レイチェル・ユン《Arrangement(アレンジメント)》(2023)。Photo: Nik Massey/Courtesy Soy Capitán, Berlin
レイチェル・ユン《Arrangement(アレンジメント)》(2023)。Photo: Nik Massey/Courtesy Soy Capitán, Berlin

さまざまな物が溢れかえるユンのスタジオは、企業のブレインストーミングで使われる整然としたイメージボードの写真やイラストが復讐心に燃えて動き出したかのようだ。ユンは、ダンボール箱からはみ出したフェイクの花や観葉植物について、プラスチックなどの素材は「どれだけ乱暴に扱われても」耐えられるし、「永遠に完璧な状態を保つ」ことができると説明する。また、最近ソウルのGギャラリーで行われた個展の前に話を聞いたときには、作品への反応についてこう語っていた。

「自動化という概念がどう受け止められるかに興味があります。常に動作し続けること、そして身体を機械のように扱うことへの欲求を、文化背景が異なる鑑賞者はどのように理解するのかと」

ユンと同じ文化の中で暮らす我われは、その彫刻の終わりのない反復動作を見ていると、こんな問いを投げかけずにはいられない。こうした労苦から得られるもの、称揚されるものは存在するのだろうか? あるいは、高邁な目的に駆り立てられているのではないとしたら、動き続けることそのものが目的になってしまうのだろうか?(翻訳:清水玲奈)

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