中東のアートシーンは新たな局面へ。アート・バーゼルのカタール進出が与える影響と相乗効果

アート・バーゼル2025の開幕が迫る中、アート界で話題の中心になっているのが先頃発表されたアート・バーゼル・カタールだ。果たして、この新しいアートフェアに成算はあるのだろうか。この地域で先行するフェアや、湾岸諸国の文化振興策の現状についてまとめた。

カタールの首都ドーハのすぐ北に位置するルサイルシティの超高級ホテル、ラッフルズ・ドーハとフェアモント・ドーハの外観。両ホテルは、三日月型のカタラタワーズ内にある(2024年12月21日撮影)。Photo: Noushad Thekkayil/NurPhoto via Getty Images

5月20日アート・バーゼルは2026年2月にカタールで新しいアートフェアを開催すると発表。同フェアとして中東初進出となるこの計画は、アート界を少なからず驚かせた。ただし、アートフェア業界最大手のアート・バーゼルが、湾岸諸国に将来戦略の的を絞っていたのは周知の事実で、2024年11月にはアブダビ・アートを多額の資金で買収するのではという噂が流れていた。

この買収は実現しなかったものの、カタールの政府系ファンドの子会社であるカタール・スポーツ・インベストメンツ(QSI)およびカタール・ミュージアムズの商業部門であるQC+との新たなパートナーシップが最終的に決定し(詳細については双方とも明らかにしていない)、アート・バーゼル・カタールの開催が決まった。

アート・バーゼル・カタールは中東の潜在顧客を掘り起こせるか?

ドーハで行われるアート・バーゼル・カタールは、中東のアートシーンが新たな局面に入ったことを示す、最新の象徴的な出来事だ。あるいは、権力者たちがそれを後押しする用意があることが示されたと言うべきかもしれない。しかし疑問は残る。この地域のどの国の首都が(アート・バーゼルのフェア開催地の一つである)香港に比肩する新たなアート界の中心地になるのか? そして、この新しいインフラを支えるだけのコレクターは存在するのだろうか。

世界的メガギャラリー、Paceのマーク・グリムシャーCEOは、湾岸諸国は引き続き「建てれば人が来る」段階にあるとし、US版ARTnewsの取材にこう答えた。

「顧客が3人だけということはありません(*1)。私たちは、潜在的にもっと多くの顧客がいると信じています。今は進化の過程にあるのです」

*1 湾岸諸国におけるアートコレクターは王族が中心であることを念頭に置いた発言。

アート・バーゼルは、カタールやその近隣諸国に多くの潜在顧客がいると見て賭けに出ている。同フェアのノア・ホロウィッツCEOはUS版ARTnewsの取材で、QSIおよびQC+との契約の詳細については言及を避けたものの、文化、スポーツ、エンタテインメント分野で成長を続けるカタールの意欲的な計画に、さらに新たなエネルギーをもたらすため「意図的な」パートナー選びをしたと語った。ただし近年、アート・バーゼルの親会社であるMCHグループは、財政的に厳しい状況にある(ホロウィッツは、アート・バーゼルがドーハでフェアを立ち上げるための資金提供の有無や、金額については明らかにしなかった)。

アート・バーゼル・カタールの第1回目の出展者は未発表だが、約50のギャラリーが参加を予定しているとされる。ホロウィッツはこの数について「象徴的な意味がある」と言った。つまり、慎重で抑制されたスタートになるというわけだ。

ホロウィッツは、「アート・バーゼルの他のフェアとは、見た目も雰囲気も異なるものにするつもりです」と語り、ドーハはマイアミや香港、パリのような大規模なフェアとは異なる性格のものになることを示唆した。さらに、創設の目的は、単にアートフェアの数を増やすことではなく、地域市場の形成に貢献し、中東特有の文化的・制度的エコシステムを反映する「長期的で持続可能なイベント」を構築することだとも付け加えた。

先行するアート・ドバイ、新戦略を打ち出したアブダビ・アート

アート・バーゼル以前に、この地域で持続可能なエコシステムを構築しようとしたのが、ドバイ国際金融センター(DIFC)との官民パートナーシップから生まれたアートフェア、アート・ドバイだ。同フェアは2007年の設立以来、この地域随一のアートフェアとして成熟したプラットフォームへと進化してきた。この4月に開催された直近のフェアでは、60を超える都市から120の出展者が集まり、インド、イラン、モロッコ、トルコ、そしてもちろん湾岸諸国など、アート・バーゼルやフリーズが開催するアートフェアでは中心にならない地域の出展者が目立った。

今にして思えば、アート・ドバイは中東地域に新たな動きがあるのを見越していたのだろう。今年初め、アート・バーゼルで長年グローバル・ギャラリー・リレーションの責任者を務めてきたドゥンヤ・ゴットヴァイスがアート・ドバイの新ディレクターに就任し、アート・バーゼル香港で10年にわたり部門キュレーターを務めてきたアレクシー・グラス・カントールがアート戦略部門の責任者として迎えられたのだ。ゴットヴァイスは、US版ARTnewsのメール取材にこう答えている。

「この地域のカルチャーシーンは決して停滞することはなく、常にダイナミックで未来志向です。アート・バーゼルのドーハ上陸をはじめとする新しいプロジェクトは、湾岸諸国の重要性が世界的に認識されていることを反映しています。最近ドバイに移住した私から見て、ここが野心的で開放的な都市であり、この地域のアート市場の中心であることは明らかです。アート・ドバイはここで生まれ、地域とともに成長し、未来へと続くプラットフォームなのです」

アート・ドバイのアーティスティック・ディレクターを長年務めるパブロ・デル・ヴァルは、4月にUS版ARTnewsの取材に答え、アート・ドバイは「トロフィー(象徴的な名誉)のための市場」ではないと述べている。そうではなく、世界のアート市場の中心的な存在になりつつあるこの地域における関係構築の場なのだという。アート・バーゼルのホロウィッツも、アート・バーゼル・カタールが同じ路線になることを表明している。とはいえ、アート・バーゼルがメガギャラリーの参加と、それによってもたらされる最高価格帯の作品の出展を確保し、そのことをアピールしないとは考えにくい。

したがって、アート・ドバイ、そしてドバイから数時間の距離にある(アート・バーゼルが狙っていたと噂された)アブダビ・アートに期待されるのは、この地域のギャラリー間の有機的なつながりを深めることで差別化を図ることだろう。

昨年11月に開催された最新のアブダビ・アートは、フェアの規模を拡大すると同時に独自の新たな戦略を打ち出した。それは、モダンセクションを立ち上げ、リサーチとキュレーションを強化したことで、結果多くのギャラリーが、それまで市場に出回ることのほとんどなかった1960年代から80年代に活躍したアラブ系アーティストの作品を出展している。

アブダビはこれまで、2017年にオープンしたルーブル・アブダビや2026年に開館予定のグッゲンハイム・アブダビなど、大規模美術館の設立を通して他の湾岸諸国の文化戦略との差別化を図ってきた。アブダビ・アートも、アブダビ首長国政府が深く関与しており、上記の美術館と同様、文化観光省が運営に携わっている。

Paceが2025年秋、ほぼ10年ぶりにアブダビ・アートに参加することを決定したのも、その新たな戦略と地域市場の成長ぶりに納得したからだとグリムシャーは説明する。また、チームラボ・フェノメナ・アブダビがこの4月にオープンし、グッゲンハイム・アブダビとザイード国立博物館の開館も近づくなど、アブダビのアートシーンはますます充実度を高めている。

アブダビ・アートのディレクターを務めるディアラ・ヌセイベは、2025年のアブダビ・アートへの関心は、フェアのキャパシティーを上回るほどだと語った。

「私が2016年にチームに加わったとき、参加ギャラリーは37軒でした。それが2025年は100を超えています。実際のところ、応募してきたギャラリーをすべて収容するスペースがないくらいです。市場は目を見張るようなペースで成長していて、フェアも規模を拡大し続けています」

ヌセイベはまた、アート・バーゼル・カタールの創設は地域全体のアート市場に利益をもたらすものだと話す。

「私は、この地域を1つのブロックとして考えています。アブダビ・アートには独自のエコシステムがありますが、各フェアはそれよりもずっと大きなエコシステムの一部でもあるのです」

美術館充実の一方でカタールが抱える人権・表現の自由の問題

一方、アートフェア間の競争は側から見るよりずっと激しいと明かすのは、2005年からドバイのアートシーンで活躍し、現在はドバイのギャラリー、ローリー・シャビビを運営するウィル・ローリーだ。ローリーによると、航空会社やサッカー、F1など、湾岸諸国の都市同士のライバル関係によって急速に形を変えた他の分野と同じで、文化セクターも似たプロセスを辿っていると説明する。その表れがアート・バーゼルのカタール進出だというのだ。

最近カルチャー分野で注目されているのはサウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)だが、カタールを見くびってはいけないとローリーは言う。20年前にできたカタール・ミュージアムズは、マトハフ・アラブ近代美術館やカタール国立美術館などの大規模な博物館・美術館を擁し、今後さらにいくつもの施設のオープンを予定している。また、砂漠の中にはリチャード・セラやオラファー・エリアソン、医療施設のシドラ・メディスンにはダミアン・ハーストのパブリックアートが設置されている。

さらに、「他に先んじてコレクションを始めたカタールのアート愛好家は、スタートダッシュが早かったと言えるでしょう」とローリーが言うように、同国のコレクターはこの地域でいち早く、複数のカテゴリーにまたがるアートを本格的に購入するようになった。

サード・ライン・ギャラリーの共同設立者であるドバイのベテランディーラー、サニー・ラーバルも同意見だ。ドーハは、「美術館が充実している点においては、UAEやサウジのずっと先を行っている」と明言する。

それでも懸念は残る。2008年、ラーバルは地元コレクターの支援を得て、ドーハにサード・ライン・ギャラリーの支店を設立した。当時、ドーハのギャラリーはほかに1軒あるだけで、一般受けを狙った展覧会が一部の観光客を惹きつけたものの、王族以外のコレクター層は薄かった。約1年半後、ギャラリーは閉鎖している。

「ドバイとは違い、幅広いコレクターのコミュニティはありませんでした。当時は持続可能性がなかったのです」と話すラーバルはそれ以来ドーハを訪れたことはないが、友人たちから同地のアートシーンが劇的に進化していることを聞かされているという。

カタールのコレクターで、ドーハのカタラ・アート・センターの創設者でもあるタリク・アルジーダは、アート・バーゼルの進出について、チャンスもあればリスクもあると見ている。カタールでは、美術館のインフラは素晴らしいが商業ギャラリー分野は「地味」だと言い、真の課題は知識豊富な地元コレクターを育てることにあると指摘。「お金はすでにあります。必要なのは教育です」と話す。

アルジーダの意見では、アート・バーゼルの成功は市場を注意深く読むことにかかっている。華やかな一流作品だけを展示するのではなく、この地の嗜好に合ったミッドレンジの作品を中心に展示することが肝要で、コレクションの土壌がまだ成熟していない現状では忍耐とローカルニーズに合わせることが大切だという。

「どんな作品を揃えるかが重要です。人々は購入した美術品を生活の中で楽しみたいと考えていますから」

ちなみに、2000年代初頭、当時のカタール・ミュージアムズ・オーソリティ(現在のカタール・ミュージアムズ)に資金が注ぎ込まれた結果、カタールは湾岸で最大級の美術品買い入れ国となっていたが、2014年頃から予算は減っている。2014年はドーハのハマド国際空港が開港した年で、同空港にはカタール・ミュージアムズ・オーソリティが購入した一流アート作品が並ぶ。

2022年にはカタールでFIFAワールドカップが開催され、派手な演出が注目を浴びたが、一方では人権侵害をめぐる問題が論争を呼んだ。ヒューマン・ライツ・ウォッチなどの報告によると、当時表向きには労働法の改革が行われたものの、大会開催に向けた建設ラッシュで死傷した移民労働者は数千人にのぼる。FIFAのジャンニ・インファンティーノ会長は、欧米諸国からの批判に対し、大会をきっかけに労働者の保護は改善されたと主張してカタールを擁護したが、その改革は部分的で、十分に遂行されなかったとの指摘も多い。

さらには、表現の自由に関する問題も浮き彫りになっている。2024年11月にアーティストのインシ・エヴィナーは、自分のビデオ作品がマトハフ・アラブ近代美術館から検閲されたと訴えた。2020年にも、レバノンのバンド、マシュルー・レイラが、リードボーカルがゲイであることを糾弾され、カタールで予定されていたイベントを中止している。

そんな中、アート・バーゼルは、自らの独立性は損なわれていないと主張する。カルチャーメディアのハイパーアレジックから、表現の自由が妨げられたり、最悪の場合、カタール政府から圧力を受けたりする可能性はないかと聞かれたアート・バーゼルの広報担当者は、「アート・バーゼル・カタールは、アート・バーゼルの他のフェアと同様、独立したキュレーションと運営を行います」と回答している。

ギャラリー側に新たなフェア参加の体力はあるのか?

また、現実的な課題もある。アート市場の低迷が2年目に入り、ギャラリーは経費の高騰に苦しんでいる。アート・バーゼルは出展ギャラリーの経費の一部(ホテル滞在費、ブース出展料、輸送費など)を補助すると見られている。前例として、最近開催されたアートウィーク・リヤドでは、参加ギャラリーがハイブリッド形式のフェアと非商業的イベントに招待されている(後者ではギャラリーによる販売は認められない)。これは、アートウィークのキュレーターが出展作品を選択し、ギャラリーと会場の往復運送料とスタッフ1人の宿泊費・交通費を負担するというやり方だ。

しかし、費用が抑えられたとしても、スケジュールはタイトで、アートフェアの年間日程は既に飽和状態だ。アート・バーゼル・ドーハは2月に開催されるため、フリーズ・ロサンゼルスやアート・バーゼル香港に会期が近く、ギャラリーは難しい選択を迫られる。

1つ確かなのは、中東のアートフェアの勢力図に起きている変化に誰もが注目していることだ。しかし、この地域で20年間活動しているアートコンサルタントのベン・ローリングソン・プラントは、湾岸地域がゴールドラッシュだと安易に考えないよう欧米のアート関係者やディーラーに警告する。

「私の経験では、この地域の指導者たちは賢く、抜け目がありませんし、成長のために熟慮された戦略を追求します。パートナーシップの利点をよく理解していますから、必ず元を取るでしょう」

一方、アート・バーゼル・カタールの発展に深く関わり、バーゼルのシニア・インターナショナル・アドバイザーを務める(サウジアラビア文化省のアドバイザーも兼任)アートパトロンのアリア・アル=サヌーシー王女も、この新しいフェアがカタールだけでなく、中東全域で「コレクターの増加と対話の拡大を促進する」と発言。カタールやサウジアラビアをはじめ、他の全ての国の間に、芸術分野での「非常に大きな相乗効果」があるとの考えを示した。

「この地域のアートフェアの間にライバル関係が生まれないことを願います。私はどんな人も同じように助けることでキャリアを築いてきました。ですから、『上げ潮はすべての船を持ち上げる』という言葉を強く信じています」(翻訳:清水玲奈)

US版ARTnews編集部注:本記事の内容は、最新のアート市場動向やその周辺情報をお届けするUS版ARTnewsのニュースレター、「On Balance」(毎週水曜配信)から転載したもの。

from ARTnews

あわせて読みたい