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訃報:三宅一生の死去にアート界からも追悼の声。ファッションとアートの次元を高めた偉大な先駆者

ファッション界のみならずアート界でも世界的に高く評価された日本のファッションデザイナー、三宅一生が84歳で死去した。三宅デザイン事務所によると、肝細胞がんで闘病生活を送っていた。訃報に際し、先駆的な三宅の仕事を振り返る。

三宅一生 Photo Toru Yamanaka/AFP via Getty Images

三宅の実験的なデザインは、国際的な美術館やギャラリーで展示されているアートと同じ感動を与えると称賛され、アート界でも圧倒的な支持を得た。その服飾デザインは、日本と世界の芸術的なコンセプトを融合させたもので、彫刻のようなプロセスで作られた衣服が人気を博した。

現在では、ファッションデザイナーの作品が美術館やギャラリーで展示されることはめずらしくない。たとえば、メトロポリタン美術館(ニューヨーク)で開かれるファッションの展覧会は、同館の展覧会の中でもとりわけ多くの入場者数を集めることで知られる。こうした道を切り拓いたのが三宅だった。三宅のデザインがアート界で人気を博した1980年代当時は、ファッションデザイナーが分野を超えて圧倒的な魅力を発揮するのは異例のことだったのだ。

1982年にアートフォーラム誌は、武士の甲冑にインスピレーションを得た三宅のドレスを着たモデルの写真を掲載している。同誌がアート作品ではない写真を表紙に選んだ例は過去に数えるほどしかない。この号は大衆文化に浸透するアートを特集していたが、ファッションを表紙に採用したのは同誌史上初めての画期的事件だった。

この号でイングリッド・シシーとジェルマーノ・チェラントは、三宅の服についてこう書いている。「ファッションの要素があるのは言うまでもない。しかしそこにとどまらず、過去と未来の対話、テクノクラシーの時代における個人のあり方との対話がある。そうした要素によって、大衆向けのアバンギャルドを提示しているのだ 」

三宅が後に作り出した服も、シシーとチェラントの主張を証明したと言えそうだ。1993年に始まった「プリーツプリーズ」シリーズのポリエステル製の服は、折りたたむと絵画のように平面になる。現に、90年にアムステルダム市立美術館で行われた展覧会では、ファッション展によくあるマネキンを使った展示ではなく、ギャラリーの床に平らに置かれていた。

2007年にメトロポリタン美術館で展示された三宅一生のプリーツドレス Getty Images

三宅の作品はコンセプチュアルであるにもかかわらず、幅広い人たちから支持された。スティーブ・ジョブズが愛用していた黒のタートルネックも、彼がデザインしたものだ。

三宅一生は1938年広島生まれ。45年に広島に原爆が投下された時、自転車で登校中だった彼は負傷し、母親は後に被曝によって亡くなっている。しかし、三宅は原爆投下を目撃した経験を語りたがらなかった。「服飾デザインに惹かれた理由の1つは、その創造の形式が現代的で楽観主義的なものだからだ」と、2009年のニューヨーク・タイムズ紙への寄稿記事に書いている

三宅は多摩美術大学でグラフィックデザインを学び、1964年に卒業。その後パリに渡り、デザイナーのユベール・ド・ジバンシィの下で働いた後、ニューヨークに移り、ロバート・ラウシェンバーグやアンディ・ウォーホルといった著名なアーティストと出会う。何年も経ってから、ウォーホルは三宅のデザインについて「東洋と西洋の出会い」と表現し、「それが気に入ったのは、僕はもともと四角よりも丸が好きだったから」と語っている。

70年代後半には、米国でも数多くの熱烈な三宅一生ファンを獲得。1978年には作品集『三宅一生の発想と展開 ISSEY MIYAKE East Meets West』が出版された。この本には、建築家の磯崎新と、当時ヴォーグ誌の編集長だったダイアナ・ヴリーランドがエッセイを寄せ、ヴリーランドは「彼の服は完全に彼のものであり、彼だけのものだ」と書いている。その後、日本のファッションが世界を圧巻し、三宅の名声はさらに高まった。

三宅一生のデザイン Keystone/Getty Images

ウォーホルの発言のように、欧米では三宅のデザインを単純化して語ることが多い。しかし実際には、日本の社会や歴史から具体性のある要素が取り入れられていた。たとえば、初期の革新的な作品には、日本の農民に愛用されてきた刺し子を取り入れ、ハイファッションに昇華させた服がある。同時に、フランスのマドレーヌ・ヴィオネなど、西洋ファッション史に名を残すデザイナーの作品を参考にした、流れるような曲線で建築と身体の類似性を引き出すものもあった。

三宅の作品は世界各地の有名美術館で展示されてきたが、本人は自分のデザインをアートと呼ばれることに複雑な心情を抱いていたらしい。1993年にはニューヨーク・タイムズ紙に、「私はコンセプチュアル・アートとしての服にはほとんど興味がない」と語っている。

それでも、数多くのアーティストが三宅とのコラボレーションを望んだ。1996年、三宅は「プリーツプリーズ」に「ゲスト・アーティスト・シリーズ」を立ち上げている。その中で、中国人アーティスト蔡國強は、プリーツドレスの滑らかな生地の上で火薬を爆発させて龍のイメージを描き、美術史に残る名画を基にしたセルフポートレートで知られる森村泰昌は、ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの裸婦像を取り入れたイメージをプリーツドレスにあしらった

また、写真家のアーヴィング・ペンは、三宅のデザインを撮影した写真集『三宅一生 写真アーヴィング・ペン/ISSEY MIYAKE Photographs by IRVING PENN』を発表。評論家のマーク・ホルボーンは、1988年にアートフォーラム誌に寄せた書評で、「三宅の作品は、それが着用され、街で流通し、動くのを見たときに初めて完成する。その瞬間瞬間がファッションのサイクルを完成させるのだ。ペンの写真集は、三宅一生の作品をただ撮影したものではない。作品そのものの延長線上にある」と書いている。

イッセイ・ミヤケ(ISSEY MIYAKE)1994-95年秋冬コレクション Photo Thierry Orban/Sygma via Getty Images

その後の三宅は、デジタル技術を駆使したプロジェクトに取り組んだ。「A-POC(エイポック)」では、テキスタイル・エンジニアの藤原大と共同で、裁断されていない大きな布を扱う工業用編み機のプログラミングを行った。着る人が必要に応じて布を切り落とし、体にフィットさせることを意図している。このA-POCのドレスは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)にも所蔵されている

三宅の作品には、そのキャリアを通じて、数多くの美術館が関心を寄せてきた。中でも東京の国立新美術館は2016年に本格的な回顧展「MIYAKE ISSEY展:三宅一生の仕事」を開催し、MoMAは「Applied Design(応用デザイン)」展(2013年)などさまざまな展覧会で三宅の作品を取り上げている。「Applied Design」は、ビデオゲームなど、デザインの範疇に入るかどうかというようなものも取り上げた画期的な企画で大きな反響を呼んだ。

閉鎖的なファッション界のためだけのデザインではなかったことも、三宅の作品が幅広い人気を得た理由だった。洗濯機で洗える服や、服に見えない服も作った。かつて英テレグラフ紙のインタビューで三宅はこう語っている。「私はいつでも、現実の世界で人が着る服を作ることに興味があるんです」(翻訳:清水玲奈)

※本記事は、米国版ARTnewsに2022年8月9日に掲載されました。元記事はこちら

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