「狂気のきらめき」をめぐる賞賛と批判──生誕250周年、J.M.Wターナーの革新性を代表作から紐解く
イギリスを代表する画家の1人、ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)の生誕250周年にあたる今年は、斬新で多彩な風景画を数多く残したその業績を称える展覧会が世界各地で開かれている。ここでは、ターナーのキャリアと代表作をおさらいし、今に至る影響力の源泉を辿る。

19世紀イギリスのロマン主義の画家、J.M.W.ターナーの風景画は今でこそ高く評価されているが、その奔放な光の表現と色彩は、当時の人々にすんなりとは受け入れられかった。しかし、彼の革新性は今も、イギリスの優れた現代アーティストに毎年授与されるターナー賞に受け継がれている。また、イギリスの20ポンド紙幣にはターナーの肖像が用いられているが、これは資本主義が台頭し、産業が急拡大した時代を、時に矛盾に満ちた形で記録した彼にふさわしい称賛の仕方だと言えるだろう。
水彩画から油彩画へ、若くして画家としての名声を得る
理髪師の息子だったターナーは、1789年にロンドンのロイヤル・アカデミー付属の美術学校に入学。最初は古典彫刻の石膏模型でデッサンを学び、その後は男性ヌードの写生で訓練を積んで物の形を正確に捉える技術を身につけた。大胆な筆運びの晩年の作品からは想像がつかないかもしれないが、高い製図技術を身につけていた彼は、キャリア初期には数人の建築家の下で働きつつ腕を磨いている。
ターナーの才能が初めて認められたのは、当時イギリスで重要性が増していた水彩画の分野だった。キャリアを通じて水彩で風景を描き続け、水彩絵の具の色調を自在にコントロールして光を表現したターナーの才能は、川で洗濯をする女性たちの日々の労働と、背景にある中世の修道院を対比させた《Jedburgh Abbey(ジェドバラ修道院)》にもよく表れている。

だが、ターナーの時代に最上級の芸術形式とされていたのは油彩画だ。野心家だったターナーが最初に発表した油絵は、彼が当時のアート市場を深く理解していたことを物語っている。《海の漁師たち》という作品で彼は、海洋国家としてのイギリスのアイデンティティを打ち出しつつ、暗い夜空に輝く月とそれに照らされた波を描きながら、明暗の強いコントラストを探求している。2隻の小さな漁船は製図技師のような細やかな筆致で精巧に描かれているが、高波の描写では、絵画における動きの表現の可能性を試している。これこそ、彼がキャリアを通じて追求し続けたテーマだった。

この絵で早熟なスタートを切ってから、ターナーは60年にわたってほとんど休むことなく制作を続け、500点以上の油絵、何千点もの水彩画、デッサン、スケッチを残した。1802年には26歳でロイヤル・アカデミーの会員に選出され、同アカデミー史上最年少の会員として名声を得た。しかし、彼が王室の依頼を受けて作品を制作したのは1度きりで、それは1822年にジョージ4世の命で描かれたトラファルガーの海戦の絵だった。1805年に起きた海戦はナポレオン戦争の命運を分ける重要な戦いで、イギリスは勝利を得た一方、同国最大の英雄の1人とされる海軍中将ホレーショ・ネルソンを失っている。
歴史的事件を下敷きにした壮大な絵画に関心があったターナーは、風をはらんだ帆や渦巻く煙、そして混沌とした海戦の様子を巨大なカンバスに描き、この難しい題材に挑んだ。しかし完成した絵に対しては、歴史的に不正確だとする批判の声が一部から上がった。別々に起きた戦いの様子が1つの画面に収められ、ネルソン提督の姿がないこと、また、手前に血みどろの戦闘を描いて勝利の代償を強調したこの絵が、戦争の道徳性について疑問を呈しているように見えたことなどがその理由だ。なお、この《トラファルガーの海戦》は、国立海洋博物館での18カ月間の保存修復作業を経て、10月から再びグリニッジにある博物館、クイーンズ・ハウスで展示される。

光と大気を劇的に描写した風景画を精力的に描く
フランスとイギリスの間で束の間の和平が訪れた1802年、ヨーロッパを訪れたターナーは、スイスアルプスに感嘆し、ルーブル美術館では巨匠たちの名画の研究に明け暮れた。だが、ナポレオン戦争によって再び海外渡航が制限されると、ターナーと彼のパトロンたちはイギリス国内に目を向けるようになり、風景画というジャンルへの関心を高めていった。そんな中、ターナーが田園風景を描いた水彩画をもとにした銅版画集『Picturesque Views in England and Wales(イングランドとウェールズの美しい風景)』が、1827年から38年にかけて出版された。これによってターナーは自作を広く流通させ、さらなる名声(と収入)を獲得している。
版画のために描かれた水彩画には、光と大気の劇的な描写でイギリスの風景の荘厳さが表現されている。その中でおそらく最も印象的なのは、ストーンヘンジの絵だろう。ここでターナーは、羊飼いと羊の群れが雷雲に襲われる場面を描いた。こうした水彩画の習作は、テートが今年完成を予定しているターナー作品のオンラインカタログに収録されている。スケッチやデッサン、水彩画など、3万7500点もの作品をウェブ上で閲覧できるカタログの基礎となっているのが、いわゆる「ターナーの遺贈品」だ。彼は自分の死後、膨大な作品を貧しい風景画家たちの支援に充てて欲しいと考えていた。しかし、これに反対した親族らは金銭での相続を望み、作品は国に譲渡された。

ストーンヘンジの版画における羊たちの描写──体の捻り具合や、ふわふわした毛の質感、鳴き声が聞こえてきそうな様子──からは、ターナーが動物に対し驚くほど深い関心を寄せていたことが窺える。彼のこうした一面に焦点を当てた展覧会「Turner’s Kingdom: Beauty, Birds and Beasts(ターナーの王国:美と鳥と獣たち)」が、トゥイッケナムのサンディコム・ロッジ(ターナー自身が設計した別荘。現在は博物館になっている)で、10月26日まで開催されている。この展覧会で動物を緻密に描写した作品を見ると、自由な表現を探求するようになっていた時期にも、ターナーが自然界を熱心に観察していたことが見て取れる。

ターナーの生きた19世紀は、紡績工場や蒸気船、鉄道が登場して産業が爆発的に発展した時代で、これらの産業で富を得た新興実業家たちが顧客として彼を支えていた。特に1820年代に描かれた絵には、蒸気機関車の黒い煙や、快晴の空にたなびく黒煙が頻繁に登場する。その一例が、新時代の猛烈なスピードを讃える《雨、蒸気、速度─グレート・ウェスタン鉄道》だ。この絵でターナーは、自然の速度の象徴である野ウサギを左側に小さく描き、手前に向かって疾走する汽車が今まさにそれを追い越そうとする様子を表現している。
近年、科学者たちはターナーの作品を環境破壊の記録として見るようになっている。ターナーが環境に対する倫理的な意識を持ってこれらの絵を描いていたかは議論の余地があるものの、大気の熱心な観察者だった彼の作品は、必然的にイギリスの気候の変化を捉えていた。

ターナーと交流があったのが、同時代の著名なイギリス人画家、ジョン・コンスタブル(1776~1837)だ。ターナーは展覧会が始まる直前に作品を書き足す傾向があり(開催前日は「ニス塗り日」と呼ばれ、出品作家が会場で作品に最後の仕上げをすることが許されていた)、コンスタブルが「ターナーが来て、銃を撃っていったな」とぼやいたという逸話が残っている。力強いタッチで崇高さを表現したターナーの絵は、コンスタブルの穏やかな佇まいの風景画とは対照的だが、ロンドンのテート・ブリテンで11月に開催される展覧会「Turner and Constable(ターナーとコンスタブル)」では、この2人を直接比較することができる。
1834年10月にロンドンの国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)が焼失した火災を、ターナーもコンスタブルも目撃していたが、燃え盛る炎の激しさを表すのに適していたのは、ターナーの派手な筆使いだった。火の勢いを表現するため、ターナーは絵の具を扱いやすくし、ハイライトの重ね塗りを可能にする「メギルプ」という添加剤を多用したが、この素材は年月とともに変質して色調が暗くなった。実験的な素材を頻繁に用いたターナーは、工業化を絵の題材としただけでなく、その成果を素材として取り入れることに熱心だったと言えるだろう。新しく開発された合成絵の具は、彼の作品に鮮やかな色彩を与えた。しかしその多くは不安定で、時間の経過とともに褪色してしまっている。

大きな時代の変わり目を体現する作品を数多く生み出す
近代の抜きんでたアーティストの御多分に漏れず、ターナーも保守的な評論家たちから酷評されている。ターナーの「狂気のきらめき」を受け止める準備ができていなかった彼らは、その作品を「変形し、狂乱状態に陥った芸術」だと非難した。しかし、ターナーには熱心な支持者もいた。その1人が思想家・美術評論家のジョン・ラスキンだ。著述家として頭角を現した彼がターナーを初めて擁護したのは弱冠17歳の時で、否定的な批評にこう反論している。
「栄光の道を駆け抜ける流星のような存在である彼のことは、誰であれ称賛はできても、その後を追うことは叶わないだろう」
ラスキンは1843年から60年にかけて出版された5巻からなる著作『近代画家論』の中で、ターナーの特異な偉大さについて詳しく論じている。精神性や霊性を重視していたラスキンは、自らの心に通じる何かをターナーの中に見出し、その作品について次のように書いている。「それは自らの強い感情や鋭い思考を(鑑賞者に)共有させ、内なる熱意へと自らを駆り立て、全ての美しいものへと導き、低劣なものから引き離し、喜びを超えた境地に立たせる。高貴で啓蒙された心持ちになるのは、新しい光景を見たからだけではなく、新しい精神と交わり、より高貴で深い知性による鋭い知覚と激しい感情を一時授かったという感覚によるものだ」
そうした交感が可能なのは、ターナーが敢えて細部を省略し、観る者の想像力を喚起するからだろう。そのような作品の1つに(習作として描かれているため、特にラフな仕上げとなっている)、《Waves Breaking on a Lee Shore at Margate (Study for “Rockets and Blue Lights”) (マーゲートのリー海岸に打ち寄せる波 [《のろしと青い光》の習作] )》がある。現在、題材となった海辺の街マーゲートのターナー・コンテンポラリーに展示され、《海の漁師たち》から大きく作風を発展させたことを示しているこの作品で、ターナーはところどころに荒い筆致で白いハイライトを描き込み、波の向きと勢いを表現している。

ラスキンは、ターナーの最も悪名高い作品の1つである《Slave Ship (Slavers Throwing Overboard the Dead and Dying, Typhoon Coming On)(奴隷船 [台風が近づく中、死者と瀕死者を海に投げる奴隷商人] )》の最初の所有者でもあった。イギリスで奴隷制廃止運動が盛り上がる中、ターナーは奴隷船ゾング号の船長が保険金を回収するため、積荷として運んでいた人々を海に投棄した事件をもとにこの絵を描いている。燃えるような太陽を中心に据えたこの絵は、前景に描かれた人間の苦悶──鎖でつながれた手足が波の上に伸びている──から意図的に注意をそらしているようにも見える。

美しさと恐怖の間に生じる緊張感について、作家のウィリアム・サッカレーは「この絵は崇高なのか、それとも馬鹿げているのか? 私にはわからない」と述べている。また、M・ヌーベセ・フィリップやデイヴィッド・ダビディーンといった現代の詩人たちは、ターナーが犠牲者の個々の人間性に焦点を当てず、群像的なモチーフとして扱っていることを批判している。

ターナーは、政治や社会問題に対する個人的な見解をはっきり表現することはほとんどなかった。その代わり、世界が根本から再構築され、古い伝統が新しい技術に取って代わられつつあった時代に立ち会ったことを最大限に活かして、数多くの作品を生み出している。そんな時代の変遷を象徴する作品の1つが、トラファルガーの海戦に使われた古い船が蒸気船によって解体現場へと曳航される様子を描いた《解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号》だ。ターナーは賛否の立場を表明するのではなく、新旧を対峙させてダイナミックかつ壮大な作品を残したのだ。(翻訳:野澤朋代)
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