アート界を変える黒人スターアーティスト、ラシッド・ジョンソンの哲学
10年ちょっと前のこと。近所のバーで出会ったラシッド・ジョンソンとジョエル・メスラーは、ジョンソンの自宅とメスラーのギャラリーがあるニューヨークのローワーイーストサイドで頻繁に時間を共にするようになった。
そんなある日、メスラーが冗談半分で言った。「俺たちの間で、オーチャード通りの縄張りをはっきりさせようぜ」。メスラーは、グランドストリートの南側2ブロックは自分の、北側はジョンソンの“シマ”だと決めた。このエリアの非公式な首長になったジョンソンを、メスラーは「建物の玄関や階段に座り、タバコを吸いながら過ごすようになった。彼は近所のみんなと顔見知りだった」と回想する。
社交的に見えるジョンソンだが、最近はあまり世間話には興味がないようだ。親しい友人や知人は、彼のことを慎重で言葉を注意深く選ぶ人物だと言う。ジョンソンとの会話は、たわいない内容であっても、非常に有意義だと強調する人も多い。メスラーいわく、ジョンソンと話していると、どんなに月並みな話題でも気づけば「超哲学的」になっているらしい。そんなわけで、電話嫌いのはずのメスラーが、1日に3、4回もジョンソンと電話をするようになった。
ジョンソンの周囲の人たちと話すと、彼の人間関係が型にはまっていないことが分かってくる。作品のコレクターは友人でもあり、アートと関係ないことでも定期的にアドバイスを求めてくる。ジョンソン作品の特徴でもある大型絵画の制作を監督しているスタジオマネージャーは、2019年にジョンソンが初めて手がけた長編映画のプロデューサーも務めた。この映画は、リチャード・ライトの小説『アメリカの息子』を現代風にアレンジした作品だ。アミリ・バラカが1964年に発表した戯曲「ダッチマン」を、ジョンソンが、ニューヨークにあるサウナを舞台に再演したときには、このスタジオマネージャーの妹が出演している。
彼はまた、後進アーティストの指導や支援もしている。アルテロンス・ガンビーは、ハンターカレッジの学生だった時代から10年近くにわたってジョンソンと交流がある。彼にとってジョンソンは、初めて作品の講評をしてくれた指導者の一人だ。ガンビーはイェール大学の大学院に進んだ後もジョンソンと連絡を取り、将来に関するアドバイスを求めたという。
ニューヨークのソーホーのカフェで会った二人は、数年後にはパリで昼食を共にすることになった。ガンビーがアーティスト・イン・レジデンスでパリに滞在中、ジョンソンもルイ・ヴィトン財団美術館での展覧会の準備のために現地を訪れていたのだ。2017年、英国・サマセットのHauser & Wirth Gallery(ハウザー&ワース ギャラリー)で開催されたジョンソンの展覧会のオープニングに、ガンビーがひょっこり現れたこともある。
ジョンソンはそのとき、友人のメスラーがニューヨークのイーストハンプトンで経営するRental Gallery(レンタルギャラリー)で開催予定のグループ展「COLOR PEOPLE」に出展するようガンビーを誘った。ジョンソンがキュレーションを担当していたこの展覧会で、ガンビーの作品はメアリー・ハイルマンやロバート・コレスコット、サム・ギリアムの作品と共に展示されることになる。ハンプトンでの宿を決めていなかったガンビーは、結局ジョンソンの自宅に泊まることに。ジョンソンの妻シェリー・ホブセピアンが気さくに迎えてくれた。ジョンソンと直接会ったのは数回程度だったにもかかわらず、その厚意に甘えてもいいと思えるほどに。
ジョンソンの仲間への接し方について、ガンビーはラッパーのN.O.R.Eのポッドキャストで聞いた話を引き合いに出してこう語る。「ゲストのファット・ジョー(人気ラッパーで音楽プロデューサー)が、『2000年代に俺の周りにいたヤツは全員食いっぱぐれなかった』と話していました。ラシッドもまさにそんなタイプ。彼の近くにいれば、困ることはない」
ジョンソンのように成功を収め名声を得たアーティストには、その助けを求めて大勢が殺到するものだ。特に、黒人のアーティストたちは、後進支援のために制度の内外で尽力してきている。正式なサポート体制を築くため、助成金やレジデンシー、アートスクールなど、有色人種のアーティストを後押しするさまざまな施策を立ち上げてきたのだ。ジョンソンもまた、ニューヨークとその周辺のアート界で幅広い支援をしてきた。部外者から組織内に入った人間として、また、組織内に働きかける外部の人間として。
ジョンソンは自らを内向的だと言うが、とてもそうは見えない。「作品に描かれている、私と不安との関係はフィクションじゃない」と、ジョンソンは「Anxious Men(不安な人)」シリーズのドローイングについて話す。このシリーズは、かつて彼が「目や口の代わりに荒々しい落書きがある自画像」と形容したものだ。「みんな『内向的』という言葉の意味を誤解してるんじゃないかな。内向的な人だって、外に出かけて、人付き合いはできる。でもそうすることで、何かが吸い取られてしまうんだ」
それでもジョンソンは、自分の作品を自信満々に語り、積極的に自分をアピールし続けてきた。初めてバックアップしてくれることになるアートディーラーに、売り込みに行ったのは20代前半のこと。20年前、シカゴにギャラリーをオープンして間もないモニーク・メロシュに、作品を扱ってくれと頼んだのだ。メロシュは当時をこう振り返る。「彼は、鶏の骨、綿花の種、南部の料理に使われる豆、床屋のひげ剃りなど、黒人文化に関するものを使って、アフロフューチャーリズム的な抽象写真をたくさん制作していました」。どの作品も似通っていると感じたメロシュは、二つの条件付きでジョンソンの作品を扱うと伝えた。「もう鶏の骨を使わないこと、そして、大学院に行くこと」
ジョンソンは彼女の言葉を真摯に受け止め、シカゴ美術館付属美術大学に進学した。だが、卒業を目前にして退学し、2005年にニューヨークへ移る。「彼には大きな志があった」とメロシュは振り返る。「シカゴで生まれ育った彼は、そこから抜け出したかったんでしょう」
シカゴ出身のアーティスト、バーナード・ウィリアムズは、ジョンソンと同時期に黒人ギャラリストのG・R・ンナムディに世話になっていた縁で彼と親しくなった。ウィリアムズは、ジョンソンのニューヨーク移住をとても大胆だと感じたそうだ。「彼はシカゴに大勢の支援者がいたし、シカゴを拠点に多くを成し遂げることができたはず」とウィリアムズは言う。「それでも、ニューヨークにはずっと多くのチャンスがあるんだ」
当時、メロシュはニューヨークを訪れるたびに、ジョンソンの作品を見たいというキュレーターやディーラーを、ジョンソンの小さなスタジオでのパーティに招待していた。「ラシッドは苦労していたし、予算も限られていた」と、彼の友人でコレクターでもあるダニエル・S・バーガーは言う。「彼の粘り強さと、何としても成功しようという不屈の精神には心を動かされたものです」
「ラシッドは、マーク・ブラッドフォードなど他のアーティストと共に、抽象表現に取り組む黒人作家に注目が集まるきっかけになった」とバーガーは続ける。ジョンソンはまた、サム・ギリアム、アルマ・トーマス、エド・クラーク、ノーマン・ルイスのように、古い世代のアフリカ系アメリカ人アーティストたちが再評価されるきっかけも作ったという。
いまやジョンソンの影響力は、アーティストの枠を超えたものになった。実際、彼は複数の美術館の理事会で顧問や委員などを務めている。「20年前には、アーティストが美術館の理事になることはありませんでした」とメロシュは語る。「もちろん、有色人種もとても少なかった。彼が抱いていた野心に時代が追いついてきたんです」
メスラーが言うように、「彼がやってのけたこと、実現に貢献したことは、人々が思っている以上に大きい」のだ。
ジョンソンは子どもの頃、シカゴ周辺のどの美術館に行っても黒人アーティストの作品がほとんど展示されていないことに気がついた。成長したのち、シカゴ大学ルネサンス・ソサエティのカラ・ウォーカー展やシカゴ現代美術館のゲイリー・シモンズ展を見た彼は、「こうした文化施設で黒人の思想に触れ、黒人としての意識を持つことが、若者にとってどれほどありがたいことか」理解できたという。
ジョンソンの長年の友人で、最近ニューヨークのニュー・ミュージアム副館長に就任したイゾルデ・ブライエルマイヤーによると、ジョンソンは父親になったことで(ホブセピアンとの間に10歳になる息子ジュリアスがいる)、以前にも増して「(息子を始めとする次の世代が)今後生きていくであろう未来や世界について考えるようになった」という。「彼はアートのエコシステムについて、特に私たちのように過小評価されている人々のことを深く気にかけています。着実にキャリアを築いてきたいま、広く大きな影響力を与える立場になったんです」
ジョンソンは、美術館の制度が危機に瀕していること、そしてある意味、本質的な欠陥を抱えていることを理解しながらも、それを改善しようと努力を続けている。「実際、私はこういうところに通って育ったし、美術館は今も重要で、現代であれ、古代であれ、記録された歴史を目にすることができる場所であることに変わりはない。だから、そこでの議論や意見交換のやり方などを積極的に変えていかなければ、みんなに不利益をもたらすことになると思うんです」
2020年、イリノイ州のノースウェスタン大学ブロック美術館の理事に就任したジョンソンは、文化施設の歴史についてスピーチを行い、具体的な日付けや実際の取り組みなどを示しながら、有色人種のコミュニティを効果的に受け入れている施設とそうでない施設について語った。同美術館のリサ・グラジオーセ・コリン館長は、「話された内容以上に、その話し方」が心に響いたという。「道徳的な権威」に溢れた話し方をするジョンソンは、「組織の内部にいながら、外側からの客観的な見方ができる特別な能力を持っている」人物だと感じたとコリンは言う。
複数の理事職に就いているジョンソンだが、最も深く関わってきたのが2016年に就任したグッゲンハイム美術館だ。2019年に同美術館で開催された展覧会「Basquiat’s “Defacement”: The Untold Story(バスキアの「落書き」:知られざる物語)」のゲストキュレーター、シェドリア・ラブーヴィエが、美術館の内部関係者から差別的な扱いを受けたと告発した時には、特に大きな存在感を発揮した。
グッゲンハイムのリチャード・アームストロング館長は、論争の只中でのジョンソンの貢献を次のように語っている。「新真実が次々に浮上する中、彼は状況分析を手伝ってくれたり、何が起きたのかを教えてくれたりしました。また、解決策や進むべき道を探るために、大きな力となってくれたんです」。アームストロングはジョンソンのことを「嵐の中の樫(かし)の木」と呼び、「理事会だけでなく、スタッフとの対話でも中心的な役割を果たし、非難するのではなく、知恵を絞ってもつれた糸をほぐしていた」と説明する。
手放しの賞賛に対して、自分は大したことはしていないとジョンソンは謙遜する。「多様性の擁護者であることが、私にとっての関心事なだけ」と彼は言い、「それと同時に、他の側面においても、この組織が自らの存在をどう位置づけていくかを手助けしたい。自分の役割を多様性の問題に限定したくはないですね」
こうしたジレンマを乗り越えることは、この業界の黒人にとってはごく当たり前のことだ。美術館の仕事に携わっている多くのBIPOC(1*)の人々と同様に、ジョンソンは美術館を自分たちの文化遺産のための場所にしていこうと注力している。「文化施設に関わる人たちが、有色人種や女性を排除しようと企んでいるとは思いません。多様性やそれに関わることが後回しになってしまうさまざまな状況から、問題が生じることが多いのでしょう」
ジョンソンは、2001年にテルマ・ゴールデンから声がかかり、スタジオ・ミュージアム・イン・ハーレムで開催された黒人アーティストの代表的なグループ展「Freestyle(フリースタイル)」に出品して以来、早くから文化組織の支援を受けるようになった。その頃、シカゴ時代の友人、ウィリアムズはニューヨークにいて、同じスタジオのジョンソンの近くで制作をしていた。間仕切りで区切られただけのスペースは話し声が筒抜けで、有力コレクターのメラ&ドン・ルーベルがジョンソンを訪問した時のやり取りも聞こえてきたという。緊張した様子だったかと尋ねると、ウィリアムズは笑ってこう答えた。「それはないですね。絶好調でしたよ」
過去を振り返って言えるのは、良くも悪くも、何でも自分なりの方法でやることだとジョンソンは若手アーティストにアドバイスする。「他のアーティストのやり方をそのまま真似てはいけない。それは、自分という存在を表現する方法、自分の作品について議論する方法、自分の個性に合うよう作品を文脈化する方法、全てについて言えることだ」
限界や枠組み、ステレオタイプ、比喩的な表現などに対して、ジョンソンは人一倍強く反発する。彼はまた、一つのことに注力せよという市場の圧力に負けることなく、いくつもの分野に活動を広げてきた。
2013年、ジョンソンはテキサス州マーファにあるアートセンター、Ballroom Marfa(ボールルーム・マーファ)の共同設立者であるフェアファックス・ドーンとのプロジェクトに取り組んだ。ジョンソンは彼女の運営するスペースが「とても実験的で、リスクを取ることを恐れない」と評価したという。ジョンソンはBallroom Marfaで彼の初ビデオ作品を制作し、その後間もなくこの施設の理事に就任している。
実験精神で知られるニューヨークのパフォーマンス・アート・ビエンナーレ「Performa(パフォーマ)」とも、ジョンソンは似たような関係を築いている。2013年に開催されたこのイベントで彼は初めて舞台演出に挑戦し、「ダッチマン」を上演。翌年にはPerformaの役員に就任し、2021年8月には会長に任命されている。
「ダッチマン」(*2)で舞台演出を経験したことは、いろんな意味で長編映画「ネイティブ・サン〜アメリカの息子〜」を作るための下地となった。リチャード・ライト原作のこの物語を自分なりに語ろうと思った大きな理由は、「独自の感性で世を渡る、自立した黒人の登場人物」を作り出したかったからだとジョンソンは言う。彼が目指したのは、「もともとの物語の構造を逆にして、黒人のアウトサイダーについてのもう一つの物語を作ること」だった。
ジョンソンのリメイク版(*3)では、主人公のビガー・トーマスは髪を緑色に染め、外見も態度も生粋のパンク青年として描かれている。ただ、バラク・オバマやミシェル・オバマが、「誰が見ても成功を収めている、優秀で有能な黒人の主人公たち」として全国的な舞台に登場して以来、感じ方が変わったとジョンソンは言う。「もう、(罪を犯した)ビガーを登場させることで、黒人の進歩に水を差すのではないかと心配しなくてよくなったと感じます。黒人の登場人物に問題や欠点があり、複雑であってもいいのだと」
「ネイティブ・サン〜アメリカの息子〜」の脚本を担当した著名な劇作家のスーザン=ロリ・パークスによると、彼女自身と監督のジョンソンは二人とも、この物語を今の時代を生きる黒人が共感できるものにしたいと考えていたという。パークスは、映画について初めて話をしたときから「思いを共有している」と感じたと話す。それまでジョンソンのことをあまり知らなかったが、彼が「原作だけでなく、私や私の仕事に対しても深い敬意を示してくれた」ことに心を打たれたと続ける。
「男性であれ、女性であれ、多くの黒人はお互いにサポートする方法を知りません。彼は一緒に仕事ができる貴重な一人。それは決して小さなことではないんです」(翻訳:野澤朋代)
※本記事は、米国版ARTnewsに2021年12月13日に掲載されました。元記事はこちら。