詩人・菅原敏が名画の世界を詩で拡張する“朗読付き”新連載!【Vol.1】ヴィルヘルム・ハマスホイ《陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ30番地》
詩人・菅原敏が毎回異なる絵画を一点選び、その作品のために一編の詩を詠む新企画「Poetry & Painting」がスタート。第1回は、ポーラ美術館収蔵のヴィルヘルム・ハマスホイ作《陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ30番地》。静謐な名画に着想を得て、詩人はどんなことばの世界を紡ぎ出すのか。菅原自身による朗読と合わせてお届けする。

見開きの大地へと
遥か遠く旅に出た彼女は
部屋にいながら
あとかたもない
ページをめくる音もなく
行間の谷を迷いながら
彼女の声は遠く
あとかたもない
一緒に暮らしても拭いきれない
あわいあきらめのような光
パンにバターを毎朝塗るように
やさしく染み込んでいく
この静寂を保つために
私たちはひとりでいる必要があった
誰にも邪魔をさせないように
大切な人を大切なままで失う方法
ひとつの家具がそこにあるように
この美しい距離のまま
風景になりたいと願う
そろそろ食事にしましょうか
百年の沈黙のあと
彼女は本を閉じて椅子から立ち上がり
食卓の上
ガラスのコップに牛乳を注ぎ
卵を焼いてそれから
パンにバターを塗った

ヴィルヘルム・ハマスホイは1864年、デンマーク・コペンハーゲンに生まれた。ハマスホイは多くの部屋を描いた。コペンハーゲン・ストランゲーゼ30番地の自宅の室内、差し込む光、閉じた扉、背を向けた人物、それらは何度も描かれている。装飾のない壁と簡素な家具、そして淡い光。そこに物語はなく、時が立ち止まっている。《陽光の中で読書する女性》では窓辺に置かれた椅子に座り、女性が本の世界へと沈み込む。画家が描いたのは彼女の眼差しではなく、静けさに満ちた空間そのものだ。色彩はグレーと鈍い白にとどまり、明暗が配置された画布には静寂だけが広がっていく。しばしば17世紀のフェルメールと比較されるが、ハマスホイは特定の感情を排し、ただ沈黙と余白の置かれた空間そのものに関心を向けていた。デンマーク王立美術院で伝統的なアカデミー教育を受けたが、同時代の華やかな印象派や象徴主義とも距離を置き、あくまで個人的な視点を貫いた。死後長らく忘れられていたが、近年その独自性が再評価されている。彼の沈黙の絵画は、喧騒の時代にこそ深く響くように思う。1916年、喉頭癌により51歳で死去。
菅原敏(すがわら・びん)
詩人。2011年、アメリカの出版社PRE/POSTより詩集『裸でベランダ/ウサギと女たち』 をリリース。執筆活動を軸に、毎夜一編の詩を街に注ぐラジオ番組「at home QUIET POETRY」(J-WAVE)、Superflyや合唱曲への歌詞提供、ボッテガ・ヴェネタやゲランなど国内外ブランドとのコラボレーション、欧米やロシアでの朗読公演など幅広く詩を表現。現代美術家との協業も多数。近著に『かのひと 超訳世界恋愛詩集』(東京新聞)、『季節を脱いで ふたりは潜る』(雷鳥社)、最新詩集『珈琲夜船』(雷鳥社)。東京藝術大学 非常勤講師
https://www.instagram.com/sugawarabin/