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  • 2022.10.19

ウォール街の成功者がメガコレクターに。黒人の文化を守り、後世に伝えるレイモンド・マクガイアのコレクション

ウォール街の大手金融機関幹部として長年活躍してきたレイモンド・J・マクガイアは、才気あふれるアートコレクターでもあり、前回のニューヨーク市長選では民主党予備選の候補者だった人物だ。ARTnewsトップ200コレクターの1人として、アフリカ系アメリカ人作家の評価を高めようと尽力してきた彼の経歴や収集哲学、美術館理事としてのめざましい実績を紹介しよう。

ノーマン・ルイス《Part Vision(パート・ビジョン)》(1971)の前に立つレイモンド・J・マクガイア。ニューヨーク州ブリッジハンプトンの自宅にて Photo: Weston Wells for ARTnews

アートとは無縁だったウォール街の大物がコレクターに

6月のある日の午後、レイモンド・マクガイアはニューヨーク州ブリッジハンプトンにある自宅のリビングルームで、ノーマン・ルイスの美しい抽象画の向かいに座っていた。

神秘的で鮮やかな青色の濃淡で描かれたルイスの《Part Vision(パート・ビジョン)》(1971)は、マクガイアが映画監督で作家の妻、クリスタル・マクラリーと暮らす自宅の、ひときわ目立つ場所に飾られている。白いリネンのソファの上に掛けられたこの絵は、グレン・ライゴン、サム・ギリアム、ロメール・ベアデンなどの超一級の作品がひしめくリビングルームの堂々たる主役と言えるだろう。この部屋には、数百万ドル相当の美術品と、その背景にあるさまざまな歴史が詰まっているのだ。

マイルス・デイビスの曲がスピーカーから流れ、ハンプトンズのさわやかな海風が、一方はテニスコートに、もう一方はプールに面した2つの大きな窓の間を通り抜けていく。そんな中、マグワイアはジャズのリズムに合わせながら、ラングストン・ヒューズ(*1)の詩「Dreams(夢)」を暗唱してくれた。

夢を手放さないで

夢が死んでしまえば
人生は翼が折れた鳥のよう
もう飛ぶことはできないから

夢を手放さないで

夢が去ってしまえば
人生は雪で凍りついた
不毛の地になってしまうから

*1 アフリカ系アメリカ人の詩人・作家・劇作家(1901-1967)。1920~30年代に盛んだった黒人の文学・芸術運動、ハーレム・ルネサンスを代表する作家の1人

その時、マクガイアと筆者は文学について話していた。子どもの頃から本の虫だった彼は、シェイクスピア、キーツ、フォークナー、フィッツジェラルド、ボールドウィン、デュボア、ヒューズといった作家の初版本の熱心なコレクターでもある。

「ヒューズと同じくらい、フォークナーやシェイクスピアにも通じていなければならない」と彼は言い、ウィリアム・ワーズワースの「草原の輝き」からの一節、さらに「マクベス」の一節も暗唱してみせた。こうした作家たちについてマグワイアは、「彼らはいつも私のそばにいる。みんな私の友人なんだ。彼らの作品に慣れ親しんできたので、親しみを込めてそう呼んでいる」と教えてくれた。

マクガイアが完璧に暗唱してみせたヒューズの詩「夢」は、彼が歩んできた長い道のりの比喩とも言える。中西部オハイオ州デイトンで育った彼は、ウォール街で出世し、そこで最も長く幹部を務めた黒人の1人になったのだ。

また、本業のかたわらアフリカ系アメリカ人アーティストとアフリカ美術の大規模なコレクションを築いた彼は、ニューヨークで屈指の影響力を持つ美術館理事でもある。1994年からホイットニー美術館の理事を、ハーレム・スタジオ美術館では20年にわたり理事長を務めている。

「子どもの頃は、アートの世界とは無縁だった。おそらく毎日のようにデイトン美術館の前を友だちと自転車で行き来していたが、中に入ったことはない。そこで得るものがあるとは思えなかったし、自分や自分が育った環境とはまったく関係ない場所だと思っていたからね」とマクガイアは言う。現在は熱心なコレクターとして、そしてアートパトロンとして、子ども時代に自分が感じていた美術館は縁遠いものという人々の意識を変えようとしている。

マクガイアは、富裕層の邸宅が集まるロングアイランド東端のブリッジハンプトンにある自宅のほか、セントラルパークの西側に立つ歴史ある高級コーポラティブハウス、サン・レモにメゾネットタイプの住まいを持っている。2つの家に飾られているアートコレクションは、彼が妻のマクラリーとともに集めてきたものだ。

それは19世紀後半の作品(ヘンリー・オサワ・タナー)に始まり、20世紀初頭から半ばにかけての作品(ヘイル・ウッドラフ、ジェイコブ・ローレンス、チャールズ・オルストン、エリザベス・キャトレット、アルマ・トーマス、ロイス・メイロウ・ジョーンズ、チャールズ・ホワイト、ボーフォード・デラニー、ボブ・トンプソン、ロメール・ベアデン、ノーマン・ルイス、サム・ギリアムの初期の作品)へと続いている。

「歴史の厳しい評価に耐えられる一流の作品ばかりだよ」とマクガイアは言う。

さらに、現代を代表するアーティストたちの作品もある。グレン・ライゴン、デビッド・ハモンズ、フレッド・エバーズリー、ラシッド・ジョンソン、ジュリー・メーレトゥ、シアスター・ゲイツ、ケヒンデ・ワイリー、リネット・ヤドム=ボアキエ、チャバララ・セルフ、トイン・オジー・オドゥトラ、デリック・アダムス、サンフォード・ビガーズ、デボラ・ロバーツ、ジェームズ・リトルのほか、数年前に亡くなったジャック・ウィッテンなどだ。

「最新の動向にもアンテナを張っていないとね」とマクガイアは言う。「私は初期の世代から学んできたが、そこに縛られているわけではない」

マンハッタンの住居のダイニングルーム。リネット・ヤドム=ボアキエ(中央)やアルマ・トーマスの絵画とともに、ノク文化(現ナイジェリア)のテラコッタ像とクバ王国(現コンゴ民主共和国)の木製の仮面が飾られている Photo: George Chinsee

「彼はとにかく質にこだわっています。巨匠たちの作品が、首尾一貫した包括的なコレクションになっているんです」と、キュレーターのルース・ファインは述べている。彼女が企画し、2003年にワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーで開催されたロメール・ベアデンの回顧展では、マクガイアのコレクションから《Of the Blues: At the Savoy(ブルースの:サヴォイにて)》(1974)も出展された。「傑作もたくさんありますよ。アフリカ系アメリカ人アーティストによる業績の全体像が伝わるように、ドローイング、絵画、彫刻、写真など、幅広い作品が丹念に選ばれています」

彼のコレクションで、かなりの数を占めるのが写真作品だ。ロイ・デカラヴァ、ゴードン・パークス、ジェームズ・ヴァン・ダー・ジー、モネタ・ジョン・スリート・ジュニア、マリック・シディベ、キャリー・メイ・ウィームス、ローナ・シンプソン、ジャメル・シャバズなどの有名な写真が多数ある。

また、まだ正当に評価されていない作家の作品もある。ハーレム・ルネサンスの画家エリス・ウィルソンやアーロン・ダグラス、抽象画家でアートディーラーのマートン・シンプソン、そしてエルジエ・コルターやヒューイ・リー=スミスなど公共事業促進局(*2)のために仕事をしていた画家が手がけたものだ。こうした作家は、美術史的にはマイナーな存在だと考える人もいるだろう。だが、マクガイアにとって彼らの作品は、ほかの所有作品に勝るとも劣らない重要性を持っている。

*2 Works Progress Administration(WPA)。大恐慌後のニューディール政策の時代、ルーズベルト政権が1930年代半ばに立ち上げた政府機関。数多くの公共事業を行って雇用促進を図った。画家や写真家なども雇い、米国の貧しい労働者の置かれた状況を取材した作品制作を依頼している。

マクガイアの長年の友人で、ハーレム・スタジオ美術館の館長兼チーフキュレーターのテルマ・ゴールデンはこう語る。「収集する作品や作家をより多くの人に知ってもらいたいと願い、自分のコレクションが美術史的・キュレーション的な意味で、より大きなプロジェクトの一部となり得る可能性を常に意識する。レイのコレクション哲学の核心にはそうした考えがあります。アート作品の収集はレイの人生の重要な位置を占めていて、彼はそれを自分という存在の中核を成すものだと考えています。彼にとって、芸術作品とともに暮らすのは、作品と生き生きとした関係を結ぶことなんです」

アフリカ系アメリカ人や黒人作家、アフリカやアフリカ系ディアスポラ(移民)のアーティストたちは、何世紀にもわたって質の高い作品を生み出してきたが、彼らの仕事がメインストリームで認められるようになったのはごく最近のことだ。ハーレム・スタジオ美術館のようなアート施設や、2014年以来ARTnewsのトップ200コレクターズに毎年ランクインしているマクガイアのようなコレクターがこの潮流に貢献していることは間違いない。

「状況はずいぶん変わってきた。私が初めてトップ200に入ったとき、コレクターたちの間でアフリカ系アメリカ人のアートがどんな位置付けにあったかを考えてみてほしい。当時は、誰もそれについて話題にしていなかったし、ほとんど意識されていなかったんだ」とマクガイアは言う。

ハーレム・スタジオ美術館のゴールデンはこう付け加えている。「レイは今の状況をとても喜んでいると思います。いろいろな意味で彼はその実現に貢献しているわけですから」

ブリッジハンンプトンの自宅に飾られたノーマン・ルイスの具象画《Untitled (Seated Man)(無題〈座っている男〉)》(1933) Photo: Weston Wells for ARTnews

成功への階段、そして現代アートとの出会い

マクガイアはオハイオ州デイトンで、母のウィレサとその両親にあたる祖父母に育てられた。彼は幼少期から勉強が良くできる子どもだった。小学校5年生の時にその才能に目を止めた教師が、デイトンの裕福な地区にある進学校マイアミ・バレー・スクールに転入するよう勧めてくれ、奨学金を受けられるよう手配してくれた。マグワイアは6年生から11年生(高校2年生)までそこで学んでいる。

生徒会長やバスケット部のキャプテンを務め、成績の平均はAをキープしていた彼に対し、ある時、教師がこう言った。「君の実力が本物かどうか、東部の優秀な学生たちを相手に力試しをしたらどうだ」。この助言に従った彼はコネチカットに飛び、そこからグレイハウンドバスに乗って、ニューイングランドにある米国有数の私立校を見学して回った。そして高校3年生で名門のホチキス・スクールに転入。ここは1891年にイェール大学の付属校として、コネチカット州に設立された全寮制の学校だ。

ホチキス・スクール卒業後、マクガイアはハーバード大学への進学を選び、英米文学を学んだ。大学院に進む前、1979年から80年にかけての1年間はギャップイヤーを取って、ロータリー奨学生としてフランスのニースに留学している。留学先の大学がストライキで休講になったことで自由時間がたっぷりできた彼は、「アムステルダム国立美術館からフィレンツェのウフィツィ美術館、マドリードのプラド美術館まで、ヨーロッパ中の美術館を見て回った」と話す。中でもお気に入りだったのは、パリのジュ・ド・ポーム国立美術館だ。当時そこには、印象派とポスト印象派のコレクションが収蔵されていた。

米国に戻ったマクガイアは、MBAと法務博士の2つの学位を取得するため、ハーバード大学の大学院に進んだ。院生時代のある日、彼はボストン・コモン公園のそばにあるリッツ・カールトンで、名門投資銀行のファースト・ボストン(現クレディ・スイス)が主催するイベントに招待された。カクテル・パーティだと思い込んで参加したものの、どうも様子がおかしい。やがて彼は面接を受けるよう促され、同行幹部のグレッグ・マルコムと2人きりにされた。マルコムはこう言った。「君に時間を5分あげよう。好きなように自分を売り込んでくれ」

マクガイアはこの展開に仰天した。「その時、頭の中ではこんな考えが渦巻いていた。投資銀行の仕事については何も知らない。だけど、下町で育った人間として、売られたケンカは買わないわけにいかない。ここで失うものは何もない、とね」。何度か言葉を交わした後、マルコムにこう言った。「私を敵に回すより、味方にした方が得策だと思います。私は常に勝つ方法を見つけますので」。彼はこの面接に通り、ファースト・ボストンが設けている定員2人の夏期インターンの1人として、企業の合併・買収支援を行うM&A部門で働くことになった。

ノーマン・ルイスが1949年に描いた無題の作品の前に座るマクガイア。ブリッジハンプトンの自宅にて Photo: Weston Wells for ARTnews

大学院を修了すると、84年にニューヨークへ移住。ファースト・ボストンには88年まで在籍した。その年、同行で彼の上司だったジョー・ペレラとブルース・ワッサースタインが新たにワッサースタイン・ペレラ&カンパニーを立ち上げると、マクガイアもそこへ移籍。数年後にはメリルリンチのM&A部門に引き抜かれ、以後もモルガン・スタンレーからシティグループへと大手金融機関を渡り歩いた。15年間勤めたシティでは副会長にまでなっている。

「単純明快なキャリアだよ」と笑いながら言った後、彼はもう少しシリアスな口調でこう続けた。「この業界に入った当時、投資銀行の世界で私のような人間は本当にめずらしかったんだ。いや、そもそもウォール街で、黒人の私が出世できるなんて思いもしなかった。ハリウッド映画でもそんな話は見たことがない。最初の頃、“レイ・マクガイア”という名前を聞いた初対面の人は、アイルランド人はどこ? とばかりに、周りを見回していたね」

彼はさらにこう語った。「こうした環境で戦っていく時の鉄則がある。周りと対等になるためには、より優秀でなければならないし、人一倍がんばらなければならない。厳しい目で見られるので、失敗は絶対に許されない。どれも簡単なことじゃなかった。ここまで来るには、うまくいくよう祈り、入念に準備をし、高いパフォーマンスを出すこと、それと少しばかり偏執的なところも必要だった」

80年代半ば、マクガイアは美術への造詣をさらに深めていくことになる。現代アートに親しむ縁ができたのだ。ニューヨークに移住して間もなく、彼はM&A専門の著名弁護士ポール・T・シュネルと出会った。シュネルは、ニュースクール大学で開催された講演会でニュー・ミュージアムの創設者マーシャ・タッカーの話を聞いたことがきっかけで、83年から同美術館を支援していた。

マクガイアも彼に続き、87年にニュー・ミュージアムの理事になる。しかし、理事会の顔ぶれを見渡してこう思ったという。「自分のような人間で、自分のようなアーティストの作品を収集している人が誰もいない。いつか美術品を買えるお金ができたら、自分がそれを始めるんだ」

同じ頃に彼は、実業家でコレクター、そして長年ハーレム・スタジオ美術館の理事を務めてきたナンシー・レーン主催の昼食会で、ハーレム・スタジオ美術館からホイットニー美術館に移籍したばかりの若手キュレーター、テルマ・ゴールデンの知己を得た。マクガイアはその時のことをこう回想している。「現代アートのイロハについて手ほどきを受けたいと、テルマに頼んだのを覚えている」

マクガイアのほうは、手始めに一杯飲みながら話す程度と考えていたが、ゴールデンはもっと真剣に捉えていた。彼女は情報の詰まったフォルダーを持ってやってきて、知っておくべきアーティストのリストを彼に渡したのだ。

それを機に、彼はセドリック・ドーバーの『American Negro Art(アメリカの黒人芸術)』(1960)、ロメール・ベアデンとハリー・ヘンダーソンの共著『Six Black Masters of American Art(アメリカ芸術における6人の黒人の巨匠)』(1972)や『A History of African-American Artists(アフリカ系アメリカ人芸術家の歴史)』(1993)といった本を参考に猛勉強を始めた。

マンハッタンの住居の玄関ホール。手前にエリザベス・キャトレットの彫刻《Reclining Woman(横たわる女)》、壁にヘンリー・オサワ・タナーの絵画《Nicodemus Coming to Christ(キリストのもとを訪れるニコデモ)》、その両脇にコートジボワールのバウレ族の仮面(左)と、シエラレオネの「ブンドゥ」と呼ばれるヘルメット型の仮面(右)が置かれている Photo: George Chinsee/ARTnews

ゴールデンはこう語る。「私たちの友情は、黒人芸術と黒人アーティストに対する共通の愛着と責任感に根差しています。レイは、私たちの文化史を守り、後世に伝えることを念頭にコレクションをしている。単に作品を手に入れるだけでなく、美術品を収集することの意味を考え抜いているんです。美術品は私たちの文化の証。それを保有し、守ることで、次世代に継承できるようにすることが重要です。私たちがどこから来たのかを知るための証拠を残そうとして、収集に取り組んでいるんですよ」

ゴールデンとの出会いで彼が知ったアーティストの中に、19世紀後半にアフリカ系アメリカ人として初めて国際的な評価を得た画家、ヘンリー・オサワ・タナーがいる。現在マクガイアはタナー作品を20数点所蔵しており、マンハッタンの家の玄関ホールにある展示スペースにも飾ってある。「歴史的な文脈を常に意識しながら、タナーを軸にコレクションを構築してきた。つまり、中心にいるのは彼なんだ」と彼は言う。

イエスを訪ねるユダヤ人のニコデモを描いたものなど、マクガイアが持っているタナーの絵は、聖書の一場面をモチーフにしているものが多い。信仰心の厚い家庭で育ち、子ども時代はペンテコステ派の教会に通っていた彼にとって、そうした場面には個人的な思い入れがある。

祖父は教会の助祭長、祖母は宣教師、兄は牧師というマクガイアは、自分の思いをこう説明した。「私の歩んできた道のりは、信仰の旅だったと言える。こうして部屋を見渡せば、その旅との深いつながりが感じられ、希望や勇気を与えてくれるものがある。1つ1つの作品の中に、私の励みになるもの、明るい展望を与えてくれる何かがあるんだ」

タナーの作品と並んで、メゾネット式住居のメインフロアのあちこちにアフリカの古い彫刻が展示されている。マクガイアは、ベニン王国やコートジボワールのバウレ族、ダン族、現在のナイジェリア中央部で栄えたノク文化のものなど、価値あるアフリカ美術のコレクションも保有している。

ダイニングルームには、アルマ・トーマスの《Springtime in Washington(ワシントンの春)》(1971)が飾られ、階下の部屋では、「バスケットボール」シリーズのドローイングを含むデビッド・ハモンズの作品2点と、巻かれた消防ホースを使ったシアスター・ゲイツの壁掛け彫刻《In the Event of Race Riot(人種差別反対の暴動が起きた場合)》(2012)が向かい合っている。その近くに飾られているのは、ゴードン・パークスの代表作《American Gothic(アメリカン・ゴシック)》(1942)だ。

さらに、2つの住まいのどちらにも美術書がたくさん置いてある。蔵書の中には、写真家のロイ・デカラヴァと詩人のラングストン・ヒューズが55年に共同制作した《The Sweet Flypaper of Life(人生の甘い蠅捕り紙)》の初版本や、美術史家でアーティストでもあるデボラ・ウィリスが2009年に出版した《Posing Beauty: African American Images from the 1890s to the Present(ポージング・ビューティ:1890年代から現在までのアフリカ系アメリカ人の肖像)》などがある。

レイモンド・マクガイアと妻のクリスタル・マクラリー。アーロン・ダグラス、チャールズ・オルストンなどの絵画が飾られたマンハッタンの自宅にて Photo: George Chinsee/ARTnews

マクガイアと妻のマクラリーが出会ったのは03年10月、学者のヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアの出版記念パーティーでのことだ。マグワイアが帰ろうとしていたところに入ってきたのがマクラリーだった。お互いに一目惚れだったと彼女は振り返っている。だが実は、その数年前にも2人はあるところですれ違っていた。両者はその時期、ビル・ホッジス・ギャラリーでノーマン・ルイス作の同じ具象画を購入しようとしていたのだ。この時、絵を手に入れそこねたマクラリーが、マクガイアのブリッジハンプトンの家の書斎にその絵があることに気づいたのは、付き合って1年後のことだったという。

2012年の結婚以来、2人は現代アートを中心に作品を収集してきた。アート作品は「私たちにとって酸素のようなもの」とマクラリーは言う。「1点1点が、2人の人生に彩りを与えるタペストリーになっていく。私たちは家族でアートと対話しているんですよ」

マクガイアは、グレン・ライゴンの作品も多く収集している。彼が最初に入手したライゴンの作品は、コメディアンのリチャード・プライヤーのジョークを引用したテキストペインティングの《Mudbone(Liar)(マッドボーン〈嘘つき〉)》(1993)で、テルマ・ゴールデンの企画で94年にホイットニー美術館で開催された画期的な展覧会「Black Male(黒人男性)」でも展示された。

ライゴンはマクガイアについてこう語っている。「私が思っていたようなタイプではなかったが、彼はあの通りのコレクターだよ。おそらく黒人コレクターとして、また、アフリカ系アメリカ人のアートに焦点を当てたコレクターとして、初めて私の作品を買ってくれたのは彼だ。それに、私やローナ・シンプソン、ジュリー・メーレトゥなどの作家を、先行世代のタナーやキャトレットの文脈に置いている。マグワイアのコレクションは、黒人のアートの系譜を独自の視点で捉えているね」

マクガイア家と一緒にハンプトンズで夏を過ごすことが多いアーティストのラシッド・ジョンソンは、彼のコレクションの質は類い稀なものだと高く評価する。「特筆すべき点は、正統派の美術史に迎合しない姿勢にある」とジョンソンは言う。「彼が長年収集してきたアーティストたちは、自分の美術史観とぴったりマッチするという人もいれば、まったく相容れない見方をする人たちもいるからね」

マクガイア自身は、ハーレム・スタジオ美術館の存在の重要性を指摘している。この美術館がなかったら、「こうした作家の多くは知られることもなく、美術史における正統な地位を得ることもなかっただろう」

マクガイアは、2枚組のスクリーンプリント《Condition Report(コンディション・レポート)》(2000)など、グレン・ライゴンの作品を多数所有している Photo: Weston Wells for ARTnews

美術館理事としての使命は「次世代に何を残すか」

すでにホイットニー美術館の理事や、国際写真センター(ICP)の会長職にあった97年、マクガイアはハーレム・スタジオ美術館の理事にならないかと、当時の理事長ジョージ・ノックスに誘われた。その2年後に同美術館が新しい館長を探すことになった時、適任者を探す調査委員会のトップを任された彼はすぐに、30年近くメトロポリタン美術館のキュレーターを務めていたロウリー・ストークス・シムズに打診の電話をかけた。

話を聞いたシムズは最初、「次の世代に任せるべきだ」と言っていた。そこでマクガイアは、テルマ・ゴールデンと一緒にスタジオ美術館に入るのはどうかと提案した。すると、シムズは「テルマがやるなら、ぜひとも検討したい」と答えたという。マクガイアは、「オーケー」と言って、いったん彼女との通話を保留にし、ゴールデンに電話をかけた。「ローリーがやるならぜひ」とゴールデンが言うと、彼は3者通話に切り替え、話がまとまった。

口頭で約束を取り付けたマクガイアは、ノックスに電話をかけて経緯を伝えた。すると、「電話の向こうが一瞬静かになった。後からジョージから聞いたんだが、信じられずに言葉が出なかったらしい」。そして2000年にシムズが館長に、ゴールデンがチーフキュレーターに就任。シムズが退任した06年にゴールデンが館長に昇格した。

02年にマクガイアはハーレム・スタジオ美術館の理事長に選出され、以来、同美術館の知名度を高めるために奔走してきた。それについて彼はこう語っている。「私たちには未来についてのビジョンがあった。それに従って偉大なアーティストたちの展覧会を次々と開催していくうちに、注目度が高まっていった。スタジオ美術館は最先端を走っているんだ」

さらに彼はこう続けた。「私はテルマのリーダーシップを支えるパートナーとして、天才的な彼女を支援するために何でもできる立場にある。テルマがやることはユニークだし、彼女は誰よりもうまくそれをやるんだ。アート界で意味のある出来事は、テルマ・ゴールデンなしにはほとんど起こらない。こうして二人三脚で歩んできたんだよ」。

マクガイアの長年の友人で、02年に彼がハーレム・スタジオ美術館の理事に招いたアン・G・テネンバウムはこう語る。「レイはあらゆる面でテルマを支えている。本当に息の合ったチームで、館長と理事長との関係のお手本と言っていいんじゃないでしょうか。私はこれまでにも何度か理事会のメンバーの経験があるので、館長にはそうしたサポートが必要だということをよく知っています」

マクガイアとゴールデンは、ハーレム・スタジオ美術館の財産として残るような複数のプロジェクトに取り組んでいる。その1つが、アフリカ出身の建築家デイヴィッド・アジャイの設計による建設計画だ。完成した暁には、初めて美術館専用の建物に入ることになる。「後々に何を残すかを常に考えているレイのリーダーシップの核心を、すばらしい形で具現化したのがこの建築プロジェクトです」とゴールデンは言う。「スタジオ美術館が50年の歴史を通じて築いてきた存在価値の深度に見合う、永続性のある物理的空間を125丁目に作り出すこと。それを私たちの建築プロジェクトは目指しています」

ハーレム・スタジオ美術館のために新しい建物を建てることで、これまでの成果を「さらに上回る」高みを目指したいとマクガイアは考えている。「全米で活躍しているキュレーターや美術館館長の多くが、スタジオ美術館の出身者だ」と彼は言う。同美術館の“卒業生”の中には、グッゲンハイム美術館の副館長兼チーフキュレーターのナオミ・ベックウィズや、近々オープン予定のルーカス・ミュージアム・オブ・ナラティブ・アートの館長兼CEOのサンドラ・ジャクソン=デュモン、そして、最近クイーンズ美術館のキュレーション&プログラム部門のディレクターに就任したローレン・ヘインズなどがいる。

マクガイアが長年収集している写真作品の1つ。1965年、アラバマ州セルマで投票権を求めて行進するキング牧師(撮影:スティーブ・シャピロ) Photo: Weston Wells for ARTnews

ウォール街で若手の黒人幹部たちを育ててきたマクガイアは、同じように、次世代の黒人の美術館理事育成に貢献したいと考えている。20年の夏に起きたジョージ・フロイド殺人事件をきっかけに、彼はAC・ハジンズやパメラ・J・ジョイナーといったアートパトロンとともに「美術館のための黒人理事連盟」の設立に尽力。現在その共同会長を務めている。

「私たちは、黒人理事連盟が正式にスタートするずっと前からこの活動に取り組んできた。それは、コミュニティを形成し、私たちが自ら意思決定するための力を生みだすことだ。優れたリーダーが担うべき重要な役割の1つは、次の新しいリーダーを育てること。優秀な人材をいかに発掘し、引きつけ、関係を維持し続けられるかは、リーダーの力量にかかっている。“できる人“には常にいくつもオファーが来るからね」

マクガイアが自分の使命の1つとして考えているのは、長年美術館の理事を務めてきた経験を活かし、主に理事になって5年未満の次世代に知恵を授けることだ。「彼らには目先の些細なことに振り回されて、全体像を見失って欲しくない。私自身たまたま黒人で、多くの人にとっては“あの黒人の理事”と認識されている。長い間、黒人は私1人だったからね。私が自分の意見を伝えなければ誰がやるんだ、ということだ」

さらに彼はこう強調する。「口先だけではなく、コミュニティ内で才能を育むことに本気で取り組む必要がある。そうした才能はずっと存在していたにもかかわらず、見すごされたり、時にはあからさまに無視されてきた。それを育て、それに投資すべき時があるとすれば、今しかない」

アーティストのラシッド・ジョンソンは、現在グッゲンハイム美術館の理事を務めているが、そのオファーを受けるにあたってはマクガイアの存在が大きかったと述べている。「彼は美術館に対し、収集哲学に関する意見を述べ、経営陣に助言し、アートの領域でどのような人物を重視すべきかという共通認識を作ってきた。その力量は決して数値化できるものではない」とジョンソンは語っている。

テネンバウムも同じ意見だ。「多くの人が彼のリーダーシップに期待しています。彼は何十年も一貫してリーダーシップを発揮してきましたから」

一方、グレン・ライゴンはマクガイアをこう評している。「美術品を集めるだけじゃなく、とにかく人の役に立ちたいんだ。だからこそ市長に立候補したんだよ。美術館であれ、ニューヨークの街であれ、自分が信じる場所に奉仕したいという気持ちがあるんだろう」

マンハッタンのメゾネット式住居の1フロアにあるオフィスにはゴードン・パークスの代表作《American Gothic(アメリカン・ゴシック)》が飾られている Photo: George Chinsee/ARTnews

自らのコレクションに託す思い

20年の末にマクガイアは、大勢の立候補者の1人としてニューヨーク市長選に参戦した。当時、多くの人が数十年に一度の重要性を持つ市長選と考えていた選挙だった。民主党から出馬した彼は、ニューヨーク・タイムズ紙によると、「雇用に焦点を当て、予算を重視する現実主義者」と自らを位置づけていた。

ウォール街の仲間や、ジェイ・Z、ディディ(ショーン・コムズ)、メアリー・J・ブライジなどのミュージシャンたちから支持を受けたものの、21年6月の民主党予備選で指名され、市長に当選したのはエリック・アダムスだった。この件に関して、彼はきっぱりとした口調で言った。「兎にも角にも、公の仕事をしたいと思って挑戦した。土俵には上がってみたが、これまでとはまったく違う世界だったね」

今、次のステップについて考えているマクガイアは、おそらく金融の世界に戻ることになるようだ。彼は9歳になる息子のレオを引き合いに出してこう言った。「引退なんてまだまだ先だ。レオが許してくれないよ。やるべきことをやらないとね」

彼が最も大切にしているのは、「文化の世界を変えていくための力になりたい」という思いだ。そして、これまで通り「美術史の中で必ずしも重視されてこなかった質の高い作品の保存」を念頭に、コレクションを増やしていくだろうと語る。

将来的には、コレクションを寄贈する日が来るだろうが、行先はまだ決めていない。候補にあがっているのは、熱心に支援してきたハーレム・スタジオ美術館とホイットニー美術館だが、マクガイアは家族とともに「コレクションが展示されるのにふさわしい場所を探すつもりだ」と話す。「作品は人の目に触れなければいけない。公益活動として、みんながアート作品を享受できるようにしたい」

コレクターの多くは、保有する全ての美術品をずっと持ち続けるわけではない。彼らが手放すことに決めた美術品は大抵、オークションに出品される。そして、アート市場が活況を呈している今のような時代には、数百万ドルの値が付くこともある。だがマクガイアは、手に入れた美術品を一度も売ったことがないという。

ノーマン・ルイスの青い絵を指して、彼はこう語った。「作品の1つ1つがメッセージなんだ。アーティストたちの才能を評価しているし、リスペクトしているので手放す気にはなれない。このノーマン・ルイスを見てほしい。この作品は、私たちを高みに引き上げてくれ、私たちの感情を揺さぶる。ここには私たちに語りかけ、感動させる何かがある。アート作品というのは、私たちに語りかけてくるものなんだ。それを受け入れる気持ちさえあれば」(翻訳:野澤朋代)

※本記事は、米国版ARTnewsに2022年10月4日に掲載されました。元記事はこちら

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