詩人・菅原敏 Poetry & Painting【Vol.2】アンリ・マティス《金魚鉢のある室内》

詩人・菅原敏が毎回異なる絵画を一点選び、その作品のために一編の詩を詠む「Poetry & Painting」。第2回は、現実と夢想の境界が溶け合うアンリ・マティスによる《金魚鉢のある室内》(パリ国立近代美術館所蔵)。菅原自身による朗読と合わせてお届けする。

 
 
 
誰もいない部屋に水が満たされて

鍵穴から水が吹き出して

細い廊下をゆっくりとカヌーがすべる
 
 
 

誰もいない部屋に水が満たされて

差出人のわからない

南洋の海流が郵便受けに届く
 
 
 

誰もいない部屋に水が満たされて

遠い街の灯りを見る

夜になればやっと息ができる
 
 
 

窓の外を流れる川に

この部屋の鍵がひとつ沈んでいる
 
 

真夜中に耳を澄ませば

水面に針が落ちる音を聞くこともある
 
 
 

誰もいない部屋に水が満たされて

その一生をバスタブで暮らすように

私はかつての私たちが泳ぐのを見ている
 
 
 

アンリ・マティス《金魚鉢のある室内》(1914年、油彩/カンヴァス、パリ国立近代美術館所蔵)©Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. GrandPalaisRmn / Philippe Migeat, Christian Bahier / distributed by AMF
Music:Tatsuki Hashimoto


アンリ・マティスは1869年、フランス北部のル・カトー=カンブレジ生まれ。当初は法律家を志したが、病気療養中に絵筆を手にしたことがきっかけで画家の道へと進んだ。パリで学び、アカデミー・ジュリアンやエコール・デ・ボザールで古典画法を修め、象徴主義の画家ギュスターヴ・モローの指導を受けて独自の感性を育んだ。やがて強烈な色彩と自由な形態を追求する独自の表現へと向かい、1905年のサロン・ドートンヌ展で「野獣派(フォーヴィスム)」の代表的画家として知られるようになり、色そのものを感情の媒介として表現した。彼の画面には、花、布、果物、窓辺、そして金魚鉢といった身近なモチーフがしばしば登場するが、本作《金魚鉢のある室内》(1914)もその代表作のひとつ。静謐な室内に置かれたガラス鉢の中で金魚がゆるやかに泳ぎ、外光を取り込む窓と室内の反射が交錯し、現実と夢想の境界が溶け合うように描かれている。晩年には大病を患ったことから、その表現手法は切り紙絵(gouaches découpées)に到達し、形と色の純化を極めようとした。1954年、ニースで心筋梗塞により没。彼の色彩は今なお、見る者の心に鮮烈な光を放ち続けている。

菅原敏(すがわら・びん)
詩人。2011年、アメリカの出版社PRE/POSTより詩集『裸でベランダ/ウサギと女たち』 をリリース。執筆活動を軸に、毎夜一編の詩を街に注ぐラジオ番組「at home QUIET POETRY」(J-WAVE)、Superflyや合唱曲への歌詞提供、ボッテガ・ヴェネタやゲランなど国内外ブランドとのコラボレーション、欧米やロシアでの朗読公演など幅広く詩を表現。現代美術家との協業も多数。近著に『かのひと 超訳世界恋愛詩集』(東京新聞)、『季節を脱いで ふたりは潜る』(雷鳥社)、最新詩集『珈琲夜船』(雷鳥社)。東京藝術大学 非常勤講師
https://www.instagram.com/sugawarabin/

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