ロード新アルバムで物議を醸した写真家、タリア・チェトリットの魅力──現実と虚構の曖昧な境界

ロエベセリーヌなどのキャンペーンビジュアルを手がけ、ポップスター、ロードを撮影した写真が物議を醸すなど、写真家タリア・チェトリット(Talia Chetrit)の近年の人気は目覚ましい。ファインアートから商業写真までを幅広く手掛け、私生活を舞台に現実と虚構との微妙な境界を演出するチェトリットの作品とその核心にある思考を、若手小説家のリリアン・フィッシュマンが探った。

《Untitled (Outdoor Sex #1)》(2018) Photo: Simon Vogel/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York, and Sies + Höke, Düsseldorf
《Untitled (Outdoor Sex #1)》(2018) Photo: Simon Vogel/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York, and Sies + Höke, Düsseldorf

人生を最大限に満喫していない人々を嘲笑うかのような、爽やかな9月のある日、私はタリア・チェトリット(Talia Chetrit)に会いに行った。新生児が眠る家の張り詰めた静寂の中、彼女は最上階にあるスタジオへと私を案内してくれた。チェトリットが家族と暮らすブルックリンの自宅は、目に入る限り明るくシンプルだが、スタジオへと続く階段は暗い赤に塗られている。スタジオは真っ白で、産後間もないにもかかわらず彼女が着ている襟付きシャツも真っ白だ。彼女の最新作の横に座って話していると、時折、彼女の息子の訴えるような泣き声が聞こえてきた。実物大にプリントされた写真に捉えられているのは両脚を大きく広げた彼女の下半身で、潰れて丸まった水のペットボトルの向こうに歪んだ陰部が見える。

チェトリットについて記事を書かないかと声をかけられたとき、私はファインアートについて執筆経験がない自分が引き受けてしまっては彼女に失礼ではないかと思い、辞退しようとした。物書きの初記事の対象になってもいいと思う奇特なアーティストなどいるだろうか? ぎこちなく見当違いな文章で、いつの日か苦い思いで振り返る黒歴史の一部となることが分かっているのに。

主に小説を書いている私は、それについて執筆することを前提に写真作品を見たことはなかった。だが、自宅にあるチェトリットの写真集は、移ろいやすい女性の人生という身近な世界から届いた便りのような魅力を放ちつつ、それとはまた別の神秘的な力にも満ちている。私は10代の若者のように高揚し、専門家になりきろうと前のめりな使命感が湧いた。

その感情は、単に私の無邪気さから生まれたのではないと思う。チェトリットの写真には、不安をかきたてるような大きなスリルが宿っている。私たちが見慣れたもの──部屋、お腹、ブーツなど──が突如として、確固とした内なる深淵を露わにするからだ。その作品は、彼女自身のように歯切れが良く、豊かな質感がありながら冷静で、人を釘付けにする。もし、彼女の写真の世界に入っていけたなら、ほんの少しだけ血を採られるような経験をするだろう。クリニックでの指先を刺す採血検査のように、一瞬チクッとするだけで痕は残らない。そして、担当者がすぐに拭き取り、真っ白なコットンのガーゼを巻いてくれる。

《Vagina/Vase》(2011) Photo: Roberto Marossi/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York
《Vagina/Vase》(2011) Photo: Roberto Marossi/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York

ファッションや音楽業界から次々指名される人気写真家

1982年にワシントンD.C.で生まれたチェトリットは、雑誌でのインパクトあるファッション写真、物憂げなストリートフォト、意外性のある静物写真やポートレートなど、多彩な作品で知られる写真家だ。彼女の芸術写真の彫刻的な精密さは、その輝きを保ったままファッション写真の中にも表れている。最近はフィービー・ファイロ、プロエンザ スクーラー、ロエベ、アクネ、セリーヌなどの広告キャンペーンを手がけ、ファッション業界で働いている友人いわく「どこのブランドのムードボード(*1)にも登場する」存在だという。

*1 デザインのイメージやコンセプトを視覚的に伝える画像、素材、テキストなどをボードやスクリーン上にコラージュしたもの。

シンガーソングライターのロードが今年発売した最新アルバム『Virgin』からの先行シングル、「What Was That」のカバー写真もチェトリットが撮影したもので、顎の先から完璧な形の一粒のしずくを滴らせるロードの鮮烈なポートレートには、思わせぶりなシュールさがある。また、このアルバムのLP盤(アナログレコード)に付属するブックレットの写真もチェトリットが手がけていて、ビニール素材の透明なパンツだけを身につけたロードの下半身を捉えた1枚は、ネット上で「Lordussy(Lordeとpussyを掛け合わせたミーム)」と呼ばれて大きな話題になった。

瞬く間にアイコニックなイメージとして拡散したこの画像は、チェトリットが自身の身体、そして近年ではパートナーのデニスの身体をさまざまな演出で撮影した写真の系譜に連なるものだ。おそらくそれらは、彼女の作品の中で最もよく知られたものだろう。自分やパートナーの無防備な姿を写したこれらの写真は、チェトリットが「bottomless(ボトムレス)」と呼ぶ2015年にスタートしたシリーズから始まった。同シリーズで撮影されたのは、スタジオでパンツを脱ぎ、それ以外は着衣のままの自分自身だ。その中で目立つのは白いヒーターの上に斜めに座った姿を鏡の枠の中に収めたもので、自らの陰部がポートレートのように優しく、そして躊躇なく捉えられている。

2016年以前にチェトリットは、ビニールの服やガラスの花瓶、メッシュ生地、割れた鏡の破片、水のボトルといった透明な物体を通して自身の身体を撮影していた。それ以降の作品には、陽光が降り注ぐ野原でデニスとセックスをする自分を撮ったシリーズ(2018)がある。また、ニューヨーク州北部の閑静な街にある家で、グッチのハーネスやモリー・ゴダードのチュールドレスで着せ替えごっこに興じる半裸のデニスと2019年生まれの長男ローマンを長期にわたって撮影したシリーズ(2020-22)は、通俗的でありながら鋭い洞察力を感じさせる。さらに、第一子と今年生まれた第二子の妊娠中と産後すぐに撮影されたセルフヌードは、巧みな構図で奥深い美しさがある。

《Model/Family》(2020–22) Photo: Simon Vogel/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York, and Sies + Höke, Düsseldorf
《Model/Family》(2020–22) Photo: Simon Vogel/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York, and Sies + Höke, Düsseldorf

チェトリットにとってこれらの作品は本質的に心理的なもので、見るからに挑発的な内容や大胆なヌードが注目されるのは副次的な現象に過ぎない。個々の写真は感情的なプロセスの結果であり、複雑で濃密な人間関係についての物語でもある。デニスと付き合い始めた頃に撮影した2人のセックスの写真について、チェトリットは制作過程で最も興味深く、そして今でもその写真を見て最も興味深いと感じられるのは、複雑に絡み合った恋愛の力学だと強調する。

それをデニスと一緒に作り上げるプロセスは、2人の関係がどこまでいくか、彼女がどこまでデニスを挑発できるかを探る場となった。この写真は性そのものについての作品ではない。主題になっているのは、チェトリットがウインクをしながら「ポリアモリー(複数愛)」と形容する、カメラという3人目の相手がいる特殊な状況下でチェトリットがデニスと築いた親密さが持つ味わいだ。

この夏、チェトリットとデニスは新たな写真シリーズの制作を始めたが、第二子誕生がその軸となっているのは自然の流れだろう。チェトリットは、妊娠という過酷な変容の最中でも、冷徹な好奇心をもって自らを撮影する。春に出産のため入院した際も機材一式を持ち込み、デニスに指示を出して狙い通りの写真を撮っている。

制作中のチェトリットとデニスは、苛立ちをぶつけあったり、口論をしたり、主導権を巡る闘争状態に陥る。熱を帯びたチェトリットの表情を見ていると、むしろ闘争状態へ昇り詰めると言うべきかもしれない。これは対等な関係に基づく彼らの家庭生活とは正反対の状態だ。「私たちは対立し、主導権を握ろうと争いますが、結局はいつも写真家が優位に立ちます。それは前提として組み込まれているんです」とチェトリットは明かす。「そして、終わった後に私たちの距離は縮まります」

自らが生み出すイメージに対してチェトリットが持つ絶対的な力は、特にデニスを被写体とした作品から強く感じられる。画面中央にデニスのペニスの先端が覗いている《Seated Portrait(座像)》(2019)で、柔らかく傷つきやすそうなそれは、彼女の右手に握られた黒いケーブルレリーズ(シャッター用ケーブル)のように、意のままに操れる玩具のようだ。

チェトリットが最も心惹かれるのは、制作中に生まれる強烈な緊張感の視覚的な痕跡なのだ。作品を1点ずつ見ながら彼女が話してくれたのは、作品の物語というよりも、それが生み出された状況についての話である場合が多かった。息が詰まるような話もあれば、温かい気持ちになる話、気まずい話、恥ずかしい話、どれも鮮明に、そのときのことをすぐに思い出せるようだった。

《Self-portrait (Downward)》(2019) Photo: Gregory Carideo/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York
《Self-portrait (Downward)》(2019) Photo: Gregory Carideo/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York

現実から虚構を、虚構から現実を

デニスとの関係に限らず、チェトリットは写真撮影という状況を利用して、新しい関係を意識したり、それを生じさせたりしてきた。何年も前に彼女は、当時の恋人が昔付き合っていた、それまで一度も会ったことのない女性をスタジオに招いたことがある。「彼女が人と接する様子をこの目で見て、話し方を直接聞きたかった」と話すチェトリットの言葉には、彼女の写真に鋭さを与えているのと同じ性質の、ほとんど無感情と言っていい好奇心が滲んでいる。スタジオで2人きりになった彼女たちは、秘密を打ち明けあったり、自己紹介をしたりすることはなかったが、チェトリットの言葉を借りれば、ほかの誰にもできない方法で互いのことを理解した。その女性とともに制作されたのが《Headstand(頭立ち)》(2012)という作品だ。

こうした作品は日記的と評されることがあるが、チェトリットにとってそれは不本意なことだという。その言葉があまりに単純で、生活感を抱かせるからだ。彼女はこう説明する。

「常に身近な題材を扱っているので、実人生に作品がついてきていると言えるのかもしれません。それは中間的な領域で、現実を使って虚構を創り出し、虚構を使って現実を創り出すのです」

確かに、ボンデージ用のハーネスを装着したデニスが息子のローマンに哺乳瓶でミルクを飲ませている写真など、小道具を使ったチェトリットの作品からは、現実から虚構を生み出そうとする彼女の遊び心あふれる衝動が鮮やかに伝わってくる。

しかし、それよりも胸を打つのは、虚構を使って現実を生み出したいという彼女の切なる願いが感じられる作品だ。それはチェトリットが昔から撮影している両親の写真で、2人の顔には、穏やかで無骨な教養が感じられる。しかし、十代の頃に一旦離れた両親への関心が、被写体というかたちで再び戻ってきたのは15年近く経ってからだった。両親との撮影で生まれる緊張感は、彼女とデニスの間で生じる心地よい諍いや、商業写真の仕事でクライアントの意を汲むときとは種類が違う。なぜなら、両親は彼女に対して支配的な立場にいることに慣れているからだ。「私のために少しは時間を割いてくれます」とチェトリットは言う。「でも、途中で誰かから電話がかかってくるんです」

大人になって、2014年に両親を再度撮り始めた彼女は、カメラの前で2人が繰り広げるドラマに驚いたという。気を引こうとする父に対し、つれなくしてみせる母。まるで彼らの関係性における最高の場面を垣間見た気分だった。その瞬間に生き、官能的で、家庭生活を回すための雑事に縛られていない2人がそこにいたからだ。

翌年にかけて定期的に両親を撮り続ける中、チェトリットはこっそり撮影現場の様子を映像で記録した。使ったのは当時発売されたばかりの、録画中に赤いランプが点灯しないデジタルカメラだった。写真撮影用に用意していた何台ものカメラの1つであるかのように、時々それを手に取って静止画を撮ることもあった。動画を撮っていることを秘密にしたのは、両親にそれを意識して欲しくなかったからで、単に両親の関係性を記録に残しておきたいと思っていた彼女は、当初この映像を公開するつもりはなかった。

約1年後に撮り溜めた動画を見返した彼女は、あれほど苦労して両親に感じさせないようにしていた自意識を自分自身が感じていたことに気づく。その自意識は撮影を重ねるにつれて増していき、映像をわざとらしいものにしていた。しかし、3人の間に存在する切ないほどの親密さが記録されていた最初の動画だけは気に入ったという。2014年にミラノのギャラリーカウフマン・レペットで公開されたこの映像には、淡々としていながらも愛情深く娘のために撮影に応じる両親の姿がある。

たとえば、チェトリットが整えた父親の襟元の仕上がりに、母親が首を傾げる。また、2人並んでポーズを取るとき、父親は大げさに愛嬌を振りまいたあげく、自嘲気味に笑いながら「これはタリアの策略かもしれないな」と呟く。そして画面の外からチェトリットが冗談を飛ばす。「そう、2人の結婚生活が長続きするようにね」

自分のために無防備になってくれ、自分たちが知らない間に撮影された映像を後にギャラリーで鑑賞することになる両親に心を動かされたチェトリットは、自らも同様のリスクを取りたいと思うようになった。そこで彼女はスタジオで服を脱ぎ、セルフヌードを撮影し始めたのだ。そのことについてチェトリットはこう語った。

「私も危険に身を晒すべきだと感じたのです。カメラのために何でもやる覚悟を私自身が持たなければと。『bottomless』シリーズで自分の性器を撮ったのは、自らを晒して辱めるためで、両親がおそらく感じたはずの無防備さに見合うことをしたかったんです」

現実を分解・変容・再構築するためのビジョン

チェトリットのフィクションは長期にわたって紡がれ、野心的で、巧みなレトリックに溢れている。そこには、循環的なテーマと時間による深化の力への意識が感じられる。たとえば、彼女のスタジオに飾られている女性器と水のボトルを写した最新作は、明らかに14年前の自作を参照したものだ。現在ホイットニー美術館に収蔵されているその作品では、波打つ形状のガラスの花瓶の向こうに彼女の性器が透けて見える。

彼女はノートパソコンに保存されている写真も見せてくれた。今年の夏に撮影したその写真では、クリーム色のTシャツに大きく切り抜かれた穴から彼女の腹部が露出している。下の方には帝王切開手術の傷跡を塞ぐ医療用テープが歯のように並び、Tシャツの生地が楕円形のフレームを形成して構図を緩やかにまとめている。

露わにされたその身体からは、豊潤さ、責務、そして超然とした神話性が感じられる。そして文脈から切り離された素材の質感は、彼女をより人間的に見せながら、同時に彫刻的な存在へと変容させている。こうした要素が組み合わさったところを見たとたん、その写真は私の最もお気に入りの作品になった。

この新しい作品は、最初の子どもがお腹の中にいた頃に彼女が撮影した写真と、出産後に撮影した写真の2点の旧作を思わせる。それは、チェトリットが鏡の上にアクロバティックなポーズでかがみ込み、乳房と腹部が絶妙なバランスと浮遊感で鑑賞者の方へと垂れ下がっている《Self-Portrait (Downward)(セルフポートレート[下向き])》(2019)、そして前回の帝王切開手術の直後に撮影された《New(ニュー)》(2019)だ。緩やかなカーブを描いてお腹を横切る医療用テープと、上から真っ直ぐ垂れ下がるシャツの赤い紐のコントラストが面白い後者の構図には、最近の帝王切開の後に撮られたポートレートに通じる完璧さがある。

《New》(2019) Photo: Andrea Rossetti/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York
《New》(2019) Photo: Andrea Rossetti/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York

6歳になる長男のローマンが彼女に撮影されることをどう思っているのかを尋ねると、赤ちゃんの頃にしょっちゅう写真を撮られていた彼はすでにそれを懐かしがっているという答えが返ってきた。そして、この夏に再び家族で写真を撮り始めたことを喜んでいるそうだ。「登場人物たちは進化しています」とチェトリットは言う。

今だからこそ表現できることと、もう扱えなくなったものについて彼女は自覚的なのだ。たとえば私が大好きな《Girls (Bed)(女の子たち [ベッド] )》(1996/2017)という作品では、友人だった10代の少女2人がベッドに裸で寝そべり、カメラを意識しながら気だるいポーズを取っている。それを彼女は、「今の自分には絶対に撮れない」と言う。当時は彼女自身が、そこに写っている2人と同じ10代の少女だったが、今はその年齢の若者より優位な立場にいる大人だからだ。

彼女はまた、2019年のコメディ・ドラマシリーズ「PEN15」を傑作だと話す。この作品ではマヤ・アースキンとアナ・コンクルという大人が中学生役を演じているが、そうした仕掛けについて、チェトリットは「性に目覚める年頃の頭がおかしくなりそうな感覚は、30代の俳優でなければ正確に捉えられない」と評し、「複雑な機微に深く切り込んでいくのは、15歳の俳優では絶対にできないことだと思う」と付け加えた。これは写真家としての彼女の立場、そして「今だからこそ扱える関係性をテーマにする」というスタンスとは反対のアプローチかもしれない。彼女にとっては現在こそが常に唯一無二で、はかなく消えやすいチャンスなのだ。

チェトリットの作品は必然的に、下品なコメントから道徳的な批判まで、ネット上で強いリアクションを誘発してきた。こうした反応に苛立ちながらも、彼女はそこに垣間見える人々の心理を興味深いと感じている。初めて深刻な批判を浴びたのは、家族ぐるみで付き合いのあるエヴァーという少女を撮影した写真だった。チェトリットはエヴァーの思春期から何度も彼女をモデルにしており、2017年に撮った写真のエヴァーは、勝ち誇ったようにこちらを見据え、着せ替えごっこに興じる少女らしく奔放なポーズで脚を投げ出している。

それに対し、チェトリットがエヴァーを性的に見せているという懸念の声がインスタグラムのコメント欄に溢れた。思春期の子どもの大胆さの中に大人の性を見て不安がる人々の反応は、別の作品に対する反応をチェトリットに思い起こさせる。それは、彼女のヌード写真──被写体を貶めるような表現ではなく、授乳の様子など、肌の露出が題材と切り離せない場合──に対する批判だ。

こうした写真の根底に共通して流れているのはセクシュアリティだが、思春期には独自の性があり、乳幼児期や母になりたての時期も、狂おしい独特の性にあふれている。しかし、私たちはそうした性について、倒錯に陥ることなく語る言葉を持たない。チェトリットはまさに一歩間違えば倒錯的になってしまう、その危うい境界線を捉えることに関心を抱いている。

《Boys》(2019) Photo: Simon Vogel/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York, and Sies + Höke, Düsseldorf
《Boys》(2019) Photo: Simon Vogel/Courtesy kaufmann repetto, Milan and New York, and Sies + Höke, Düsseldorf

フィクションや、進化し続ける登場人物という仕掛けを使うことで、チェトリットはこうした複雑で微妙な状態を私たちに示している。そのために彼女は自らの人生を素材にしているが、学生に写真を教えていた頃、誰のネガからでも自分の作品を作り出せることに気がついた。学生たちが講評のために提出した組写真とそのネガを見比べて、自分が編集できればよかったのにと思うことがあったという。それは、退屈な作品の中にさえ彼女を惹きつける鋭さが潜んでいて、手を入れさえすればその鋭さを引き出せるということだ。

つまり、芸術的な虚構を構築するには、素材を劇的な形で脚色したり歪めたりする必要はなく、現実を分解し、変容させ、再構築するためのビジョンさえあれば事足りる。むしろそうしたビジョンだけに依って立つ虚構ほど優れているのだ。

会話の途中でチェトリットはふと、私の腕時計に目を止めた。彼女の母親が同じ時計を何十年も着けていたのだ。「私の母と同じ手元」と彼女が言うように、ポートレート撮影の現場で録画された映像の中で、彼女の母親が少し焦った様子で確認していたあの手元だ。冗談を言おうか質問をしようかと迷いつつ、私は言葉に詰まった。それは私が処女小説の出版を記念して自分のために買った記念の品だが、この時計と自分の関係についてここで語るのは、なぜか不適切に思えた。

だが、彼女が握る私の手首はもはや私とはほとんど関係がない。彼女が有無を言わさず采配を振るう世界に引き込まれた私は、純粋に物質的なモチーフへと変容する。ここで主導権争いをしてみせようとは思わない。おそらくデニスがそう感じているように、私は彼女の被写体となった瞬間を楽しんでいる。真新しいガーゼに包まれ身を委ねた瞬間を。(翻訳:野澤朋代)

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