アート・バーゼル・カタールがいよいよ開幕。前夜祭ではジェニー・ホルツァー作品が夜空を照らす
アート・バーゼル・カタール(ABQ)がいよいよ幕を開ける。前夜祭での象徴的な演出、87の出展者すべてが個展形式という異例の構成、そして「Becoming」というテーマ設定……。ABQは、従来の「フェアの常識」を意図的に覆す「実験の場」となっている。
詩と光が示す、政治的・文化的立ち位置
アート・バーゼル・カタール(以後、ABQ)開幕前夜、同国が誇る文化施設、イスラム美術館は光に満ちていた。 世界的建築家、I・M・ペイが手がけた同館ファサードにはジェニー・ホルツァーの新作《SONG》がアラビア語と英語で力強く投影され(ABQ期間中、常時投影される予定)、それと呼応するように、上空には同作の一部がドローンによって同じくアラビア語と英語で描かれた。《SONG》でホルツァーが用いたのは、現代アラビア文学に決定的な影響を与えたパレスチナを代表する詩人で活動家、日本においては2024年に改訂版『パレスチナ詩集』(四方田犬彦訳)が出版されたマフムード・ダルウィーシュの詩と、親密な語りと抑制された映像表現を通じて湾岸社会に生きる人々の声や記憶をすくい上げてきたUAEの詩人・映画作家のNujoom Alghanem(ヌジューム・アル=ガーネム)の詩だ。イスラム美術館が、イスラム世界の知的遺産を自らの手で再編し、取り戻すために構想された文化機関であること、そして、カタールという国が湾岸諸国の中でも例外的に、パレスチナ、とりわけガザ地区を政治的・人道的に一貫して支持してきたことを考えれば、これは単なるパフォーマンスでもジェスチャーでもなく、国家としての明確な意思表示であるとも受け取れる。
規模や制限に反映された意図
では、2月3日午前11時(カタール現地時間)にVIPプレビューから幕を開けるABQ本番はどうなるだろう。ABQはアート・バーゼルの中でも最小規模で、600以上の参加希望者から厳選された87ギャラリーで構成される(参考までに、パリは206軒、マイアミは283軒、3月開催の香港は240軒だ)。さらに異例と言えるのが、そのすべてが個展形式での出展となることだ。そこには、「商業的な見本市」というより「キュレーションされた展覧会」に近い印象を与えたいという主催側の意図が垣間見える。
ある情報筋によれば、カタールでの次回以降の開催は他のアート・バーゼルと同規模に拡大する予定だというが、同じ「今注目の作家」が複数ブースにまたがって並ぶことも珍しくない姉妹フェアとは異なり、ABQでは厳格な制限が課されている。多くのギャラリーが使用できる壁面は2面のみで、持ち込める作品数もごくわずかだ。ブースには電源が備え付けられておらず、そのため映像作品や大規模インスタレーションは事実上不可能となる。椅子やテーブルの設置も認められていない(ただし、各ギャラリーには特別にデザインされたベンチが提供される)。ギャラリーは、予備作品の持ち込みは許可されているもののフェア開幕後の掛け替えには厳しい制限があると聞く。こうした条件の結果、このフェアがよりゆったりと落ち着いて「鑑賞できる」設計となっているのは、アートフェアの狂騒に慣れていない来場者への配慮と言えるのかもしれない。
一方、このフォーマットは、企画段階では眉をひそめられ、反発を招く場面もあった。個展形式自体はバーゼルでは目新しいものではないが、それを全面的に義務付けるのは大きな転換だ。契約書にサインする前、「誰が」「どの市場の寵児」を連れてくるのかをめぐり、複数のギャラリーがせめぎ合う光景は容易に想像できる。
テーマ「Becoming」に込められた思想
「Becoming」というフェアのテーマにも、他の姉妹フェアに比べABQの思想の強さが表れている。記念すべき第1回ABQのアーティスティック・ディレクターに起用されたのは、エジプト出身のアーティストで、ドーハの現代美術の制作と実験を担うアートセンター、Fire Stationのディレクターを務めるワエル・シャウキー(Wael Shawky)だ。シャウキーは2017年の横浜トリエンナーレにも作家として出品している。
プレス資料によれば、ギャラリー・プレゼンテーションとスペシャル・プロジェクトの双方を貫くテーマである「Becoming」は、変化や日常生活を形づくるシステムをめぐる緩やかな枠組みを指し、湾岸地域はその対話の舞台としてふさわしいと提示されている。シャウキーは、アート・バーゼルのインタビューでこう説明している。
「少なくとも私が思うに、アーティストとは、人類が抱いてきた『発展』という夢がもたらしたものを作品を通じて表現している。(ABQで発表される)すべてのアート作品は、この『Becoming』という概念と結びついている。つまり、人類が“より良く”“より高い段階へ”と到達しようとしてきた帰結としてのヒューマニティとは何か、ということだ」
アート・バーゼル誘致のためにカタールはいくら払ったのか?
湾岸地域でフェアを立ち上げることは、さまざまな噂も呼び起こした。一部のディーラーは、カタール王室が輸送費やブース費用を補助していると聞いたというが、そうした取り決めは一切なかったと話すギャラリーもあれば、この話題自体を避けるギャラリーもあった。フェアの経済面に詳しい匿名の関係者によれば、輸送費などは確かに補助されているが、それはカタール側ではなくバーゼル側の負担であるという。
もう一つの噂は、アート・バーゼルがドーハでの開催と引き換えに、今後10年間にわたり巨額の資金提供を受けるというものだ。この点についてアート・バーゼルの広報担当者に確認すると、「原則として、いかなるパートナーシップの財務条件についてもコメントしない」と述べるにとどまった。たとえば、アートマーケットの専門家であるマグナス・レッシュが最近の投稿で指摘しているように、カタールは世界最大級のテックサミット「Web Summit」を誘致するため、同サミットに23億円以上を支払い20以上の候補都市から開催を勝ち取ったという。ABQのローンチに先立って、同様の競争があったとしても不思議ではない。実際、2024年には、フェアはアブダビと提携するという噂があった。おそらく、同市も数ある誘致候補だったと考えられる。
市場はどう応えるのか──ABQという試金石

いずれにせよ明らかなのは、ギャラリー各社がこの市場に対して、まったく異なるアプローチを取っているという点だ。
アルミン・レッシュは歴史、素材、身体を、地に足のついた触覚的な言語で探究する彫刻や紙作品で知られる作家、Ali Cherriの個展を開催する。同ギャラリーによれば、価格帯は水彩が3万6000ドル(約560万円)、新作彫刻は15万6000ドル(約2400万円)に及ぶ。Cherriの作品は、同時期に同ギャラリーのニューヨーク・トライベッカ拠点でも展示されている。
また、ニューヨークとロンドンに拠点を持つVeneKlasenは、イギリス人アーティストのイッシー・ウッド(Issy Wood)の新作絵画を3万5000ドル(約540万円)から19万ドル(約2900万円)までの価格帯で販売する。VeneKlasenは、最近マイケル・ヴェルナーと袂を分かったゴードン・ヴェネクラスンが自身の名を冠したギャラリーとして2月1日に設立した。

タデウス・ロパックでは、ラキブ・ショー(Raqib Shaw)に焦点を当てる。フェアの中でも上位に位置する価格帯となる約25万4000ドル(約4000万円)の紙の作品から約90万ドル(約1億4000万円)の絵画まで、色彩豊かで主張の強い作品を紹介する。ドーハでの価格設定をめぐっては、各ギャラリーが異なる判断を下している現状が見て取れる。
この戦略の分岐は、取材を通じて何度も浮かび上がった。初日から本気度を示すために高価格帯の重要作を持ち込むべきだと考えるギャラリーもあれば、まだ形成途上の市場では、より低価格で明確な入口を用意することこそが信頼構築の近道だと主張する向きもある。会場では、その両方の考え方が同時に展開されているのが分かるだろう。
メガギャラリーの戦略

メガや大手ギャラリーは、おなじみのアーティスト作品をカタールに持ち込むようだ。
まずハウザー&ワースは、フィリップ・ガストン(Philip Guston)の晩年作《Conversation》(1978)を含む主要絵画3点を展示する。《Conversation》が最後に市場に出たのは2007年で、クリスティーズの秋のイブニングセールで270万ドル(約4億2000万円)を記録した。同じく1978年作の《Orders》は、1989年にサザビーズで52万8000ドル(約8200万円)で落札されている。
デイヴィッド・ツヴィルナーは、マルレーネ・デュマス(Marlene Dumas)による3点の絵画を出品。いずれも2010年に同ギャラリーで初披露された「Against the Wall」シリーズの作品で、同シリーズの作品は、MoMA、メトロポリタン美術館、ブロード美術館、ダラス美術館といった重要な美術機関のコレクションに収蔵されている。作品の多くは、イスラエルとパレスチナの紛争をめぐる、デュマス自身が収集した報道写真や新聞の切り抜きをもとにしている。
一方、ホワイトキューブはゲオルグ・バゼリッツ(Georg Baselitz)を、Mignoniはドナルド・ジャッド(Donald Judd)を、グラッドストーン・ギャラリーはアレックス・カッツ(Alex Katz)を、そしてAcquavella Galleriesはバスキアを展示する。いずれもバーゼル常連にはおなじみの作家だが、今回のような厳格なルール下においては「在庫」というより「立場」の表明として提示され、ディーラーが美術館レベルの注目を狙っていることがうかがえる。
総じて見ると、ABQはアート・バーゼルの単なる派生版というより、実験的な試金石のように感じられる。静かなフェアは緊張感を失わずに成立するのか。作品数が少ないことで、かえって重みは増すのか。そして、このフェアの核心である地域の潜在的コレクターたちは、過剰ではなく明快さに反応するのか。VIPプレビュー終了時点で、ディーラーたちはどの戦略が功を奏したのかを把握するだろう。いずれにしても、ドーハ初のアート・バーゼルはすでに異例のことを成し遂げている。つまり、ただ「少なく見せる」ことで、アート界を「スローダウン」させているのだから。
from ARTnews