訃報:抽象画家のパット・ステア、87歳で死去。「重力」を共同制作者として独自の視覚言語を確立
3月25日、重力に委ねて絵具を流す独自の手法で知られる抽象画家のパット・ステアが87歳で死去した。代表作「Waterfalls」シリーズを通じ、視覚と言語の境界を探る表現を追求した。

はしごの上から絵具を流す手法による大型抽象画で知られるパット・ステアが、3月25日、マンハッタンで老衰のため死去した。87歳だった。
彼女の死は遺族と、ステアが所属していたハウザー&ワースのプレジデント、マーク・パイヨによって確認された。パイヨは声明で次のように述べている。
「パット・ステアとともに多くの時間を過ごし、作品世界に入り込み、親密な関係性を育めたことは、私のキャリアにおける大きな特権の一つです。ミニマリズムとコンセプチュアリズムを背景に、パットはキャリアを通して独自の視覚言語を築きました。そこには詩や哲学が織り込まれ、抽象表現の新たな地平を切り開くと同時に、執筆やパフォーマンス、後進の育成にも影響を与えました」
重力を「共同制作者」とする作品制作
アーティスト活動を開始してから30年近く経った1980年代後半、ステアはのちに世界的な評価を得ることになる手法を生み出した。はしごや高所作業車の上から、粘度の異なる油絵具を直立させたキャンバスに流し、重力を共同制作者とする手法だった。ステアは2012年に行われたUS版ARTnewsの取材でこう語っている。
「限られた条件のなかで、偶然に委ねているのです。私が色を決め、キャンバスを大まかに区切ると、後は絵の具を注ぐ行為そのものが作品を形作っていきます」
「Waterfalls」シリーズの初期作は白い絵具を中心に制作されていた。しかし、やがてキャンバス上で重なり合う色の関係が重要な要素となり、それこそが作品理解の鍵となっていった。2017年に行われたインタビューで彼女はこう語った。
「ピンクの上に緑、その上に白を重ねるとオレンジに見えます。緑がその色をピンクに見せるのは、私たちが見ている色がパレットの上で混ざっているのではなく、目の中で混ざり合っているからです。私たちは、ある色を通して別の色を見ているのです」

筆ではなく重力に委ねる制作へと移行したことで解放されたステアは、その後のインタビューでも、この選択についてたびたび語っている。
ステアは、この制作手法の転換について、当時の現代美術界への問題意識や、抽象絵画が軽視されているという認識を背景として挙げている。「私はアンチ・モダニズムについて考えていました」と、彼女はスミソニアン・アメリカ美術アーカイブが2008年に行ったインタビューで語っている。それが「ポスト・モダニズム」を指すのかと問われると、ステアは「アンチ・モダニズム」という言い方のほうがしっくりくると答え、こう続ける。
「私の作品は、モダニズムやミニマリズムの絵画のように見えるかもしれません。でも、私が考えていたのはアンチ・モダニズムでした。ポスト・モダニズムと呼ぶこともできるでしょうが、そもそもそんなものがあるのかと疑っていたんです。そして今の美術を見ても、それがあるとは言いがたい気がします」

「アーティストになりたい」という思い
ステアは1938年、ニュージャージー州ニューアークでアイリス・パトリシア・スコーネックとして生まれた。父方は第一次世界大戦前にアメリカへ移住したロシア系ユダヤ人だ。
1985年に書かれたUS版ARTnewsのプロフィールによれば、ステアは早い段階で「パット」という名前で活動することを選んだ。というのも、「アイリス」という名前に気恥ずかしさを感じていたためだ。幼少期はニュージャージー州内を転々とし、家族はシルクスクリーンやウィンドウディスプレイ、高速道路用のネオンサインを扱う父の仕事に伴って各地を移り住んでいたという。
「父はどこか悲しげでした。本当はアーティストになりたかったのです」と、彼女はスミソニアンが行ったインタビューで振り返っている。家族を養うために、父はその夢を諦めざるを得なかったという。その仕事では、石膏で作られたアイスクリームソーダや大統領の等身大パネルを満載したバンを運ぶこともあった。「1960年代にダン・フレイヴィンやクレス・オルデンバーグの作品を見たとき、どこか見覚えがあると思いました」と、彼女は1985年にUS版ARTnewsに語っている。「ポップアートを見て涙が出る人間はそう多くないと思いますが、私はそのひとりです。父のことを思い出してしまうのです」

幼い頃、父は絵具セットを買い与えるなどして彼女の関心を後押ししていたが、成長するにつれて、アーティストとして生計を立てられるかを案じるようにもなったという。「5歳のときにはクラスで詩を書いていました。自分はアーティストになりたいとずっと思っていましたし、詩人でありアーティストだと感じていたんです」と彼女は語る。学校の美術の授業は、期待していたほど本格的なものではなかったため、彼女は授業を抜け出してフィラデルフィア美術館へ通っていた。「床に座り、本を広げて作品を眺めながらリンゴを食べていると、そのうち警備員にも追い払われなくなりました」と当時を振り返る。
ステアはスミス大学英文科への奨学金を得たが、美術を学びたいという思いが強く、同校ではその希望を十分に満たすことができなかった。そこで高校の校長に相談し、プラット・インスティテュートの面接を取り付けてもらった。通常の出願時期からは遅れていたが、彼女は1956〜57年度の入学を許可された。当時プラット・インスティテュートには絵画科がなかったため、グラフィックアートとイラストレーションを専攻し、フィリップ・ガストンやリチャード・リンドナーに学んだ。奨学金を得ていたものの生活は厳しく、在学は2年にとどまった。「この決断は家族との大きな断絶を生みました」と、彼女は1985年のインタビューで語っている。
1958年には、高校時代の親友マール・ステアと結婚し、ハーバード大学に通う彼に合わせてボストンへ移った(この結婚は長くは続かなかった)。ボストン美術館附属美術学校に入学したのち、ボストン大学へ転校する。その後ニューヨークに戻り、プラット・インスティテュートでの学業を再開し、1961年に美術学士を取得している。
画業の展開と教育活動
当時の彼女は、ロウアー・マンハッタンのマルベリー・ストリートにあるアパートに住まいを構え、そこを数十年にわたって拠点とした。1964年にはニューヨークのテリー・ディンテンファス・ギャラリーに作品写真を持って訪れたことがきっかけとなり、初の個展を開いている。

1971年には、ニューヨークのグラハム・ギャラリーで個展を開催している。翌1972年には、キュレーターのマーシャ・タッカーが彼女をホイットニー・ビエンナーレの前身であるホイットニー年次展に選出したことで大きな転機を迎えた。それ以前には出版社でアートディレクターとして働いていたが、こうした活動を通じてニューヨークのアートシーンに深く関わるようになっていく。1970年代半ばには抽象的な表現へと移行していき、バラを塗り消した絵画などを発表している。
同時期にはフェミニスト・アート運動にも深く関わるようになり、ルーシー・リッパード、ジョーン・スナイダー、ミリアム・シャピロ、ハーモニー・ハモンドらとともに、アーティスト・コレクティブ「Heresies(ヘレシーズ)」を立ち上げた。しかし、自身の作品にフェミニズム的な要素を求める当時の風潮には、違和感も抱いていた。「私はさまざまな困難を乗り越えてアーティストになりました。自分にふさわしいイメージを他人に決めさせるつもりはありませんでした」と、彼女は2019年にニューヨーク・タイムズ紙に語っている。
制作活動に加え、ステアは教育者としても精力的に活動し、プラットやカリフォルニア芸術大学で教鞭をとった。教え子には、デヴィッド・サーレ、ロス・ブレックナー、エイミー・シルマンなど、のちに高い評価を受ける画家たちが名を連ねている。

「何度も再発見された」アーティスト
1980年代半ばには、レンブラントやゴッホをはじめとするオランダ美術に魅了され、1年の半分をアムステルダムで過ごしていた。そうした滞在のなかで、ロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館を訪れた帰り道、ヤン・ブリューゲル(父)の静物画のポスターを切り刻み始めた。この経験が、のちに64枚のパネルからなる《The Brueghel Series (A Vanitas of Style)》へとつながる。この作品では、セザンヌ、ピカソ、マティス、モンドリアン、ロスコ、カンディンスキー、バスキアなど、美術史上のさまざまな花の静物画の断片が、巨大なグリッドの中に並べられている。
「美術史における様式の違いは、それほど大きなものではないと感じています」と、彼女は1985年のARTnewsのプロフィールで自身のアプローチについて語っている。「あらゆる創作は、リサーチであり、選択であり、思考と直感の組み合わせであり、歴史と人間とを結びつける営みなのです」
その後、「Waterfalls」シリーズの発表によって、彼女の評価はさらに高まり、その後も着実に注目を集めていった。もっとも彼女自身は、2019年にニューヨーク・タイムズ紙の取材に対し、「何度も忘れられ、そのたびに再発見されてきました」と皮肉を込めて語っている。2020年には、ヴェロニカ・ゴンザレス・ペーニャによるドキュメンタリー『Pat Steir: Artist』の題材にもなった。

ステアは晩年に至るまで、新作の制作を続けていた。
「私の人生に最も大きな影響を与えてきたのは、私自身の人生です」
彼女は1985年のUS版ARTnewsにこう語っている。
「私たちは子どもの頃、『人生とはこうあるべきだ』という考えを植え付けられます。でも、心の安らぎを得るには、そうした考えを手放さなければなりません。一つの見方にとらわれてはいけないのです。私の作品の主題は視点、つまり私たちがどのように世界を見るかということです。私は、できるだけ多くの他者の目を通して見ようとしているのです」
(翻訳:編集部)
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