81歳のトランス女性アーティスト、ピッパ・ガーナーのラディカルな戯れ──「先のことはわからないし、分裂した自分が気に入っている」

ピッパ・ガーナーは、「アーティスト」という包括的な呼び方をする以外に定義が難しい人物だ。彼女の奇想天外ないたずらや改造品、発明品の背後には、社会に対する鋭い問いがある。先駆性が改めて注目されているピッパに、これまでのキャリアや作品について話を聞いた。

「Shirtstorm」シリーズ(2005年頃)の作品、「Sperm Bank of America(精子バンク・オブ・アメリカ)」と書かれたTシャツを着たピッパ・ガーナー。Photo: Courtesy STARS Gallery, Los Angeles

1960年代からロサンゼルスを拠点に精力的な制作活動を続けてきたピッパ・ガーナーは、トランクルームにエンジンを積んで逆走しているように見える自動車や、スプレー缶にシャワーのノズルをつけたものなど、ウィットに富んだ発明品を世に問うてきた。発表の場は、美術館から路上、あるいはテレビ番組の『ザ・トゥナイト・ショー』まで多岐にわたる。

1982年に人気司会者ジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・ショー』に出演したときは、ジャケットとシャツの胸から下の部分がカットされた「ハーフスーツ」を着用し、鍛えた腹筋を露わにして登場した。カーソンに「発明家」と紹介されたガーナーは、テレビショッピングで新商品をアピールするビジネスマン(当時は性別移行前で、男性の姿だった)として自分を打ち出し、当時女性たちの間で流行していたクロップトップ(裾丈の短いスタイル)を見て、ビジネススーツにも「省略版」が必要だと考えたと説明。フォーマルな印象を作り出しているのは、スーツとワイシャツの襟とネクタイを結んだ首周りだから、あとは省略しても構わない、と主張した。一見理屈が通っているようで実は不条理なアイデアを、大真面目に実行に移す。それこそが、彼女の創作物に通底するロジックだった。

ガーナーはしばしば「パフォーマンス・アーティスト」というレッテルを貼られる。どの作品にも彼女の人となりが隅々まで染み込んでいること、そして、どこまでが自分の身体でどこからが作品なのか、彼女自身が区別していないということも影響しているのかもしれない。彼女が性別移行を始めたのは1980年代のことで、当初は闇市場でエストロゲン(女性ホルモン)を購入していたという。性別移行について彼女は、「社会における自分の存在に揺さぶりをかけ、類型的な分類から自由であるためのアートプロジェクト」と説明している。

何十年にわたってトランスジェンダー女性のアーティストとして活動してきた彼女は今、若者の間で再び注目を集めている。昨年、ミュンヘン芸術協会が企画した個展「Act Like You Know Me」はヨーロッパを巡回し、今年の夏には、ハイヒールのローラースケートや、たまごっち以前に考案されたバーチャルペットなど、彼女の挑発的な発明品を掲載した『Better Living Catalog』(1982)の復刻版が、プライマリー・インフォメーションから出版された。

また、ニューヨーク州北部の町ゲントにあるアートセンター、アート・オーマイ(Art Omi)では、現在ガーナーの個展「$ELL YOUR $ELF」が開催中だ(10月29日まで)。この展覧会に合わせ、彼女の活動を網羅した新刊もアート・オーマイとパイオニア・ワークスから共同出版されている。世界がようやくガーナーの先駆性に追いつく中、現代のオーディエンスに向けてガーナーが自身の作品をどう作り直そうとしているのか、本人に話を聞いた。

1982年12月8日放映の『The Tonight Show Starring Johnny Carson』に出演中のピッパ・ガーナー(左)。Photo: Courtesy Carson Entertainment Group

タトゥーで自分の身体を作品に

──伝説になっているタトゥーについて教えてください。

私の下着のことですか? ブラジャーとTバックのタトゥーを入れたのは、それが理にかなっていると思ったからです。たとえ体重が130キロ以上増えたとしても、着られなくなることはないですから。それに、洗濯の手間も省けます。唯一の問題は、ヌーディスト村に入れてもらえなくなったことです。

タトゥーはほかにもあります。自転車に乗っていて車にはねられた後、脚に木目の模様を入れました。3カ月間入院しましたが、医師たちは私の脚を左右対称に戻せませんでした。なので、体に「だまし絵」を入れるチャンスと捉えることにしたんです。

──アート・オーマイの展覧会では、あなたの絵のタトゥーを来場者に入れるプログラムもあると聞いたのですが、本当ですか?

はい。自分でも、いくつかの作品のタトゥーを入れるかもしれません。そうすれば、歩くポートフォリオになれますから。

──自らの性別移行のプロセスをアート作品だとしていますね。

ピッパ・ガーナー《Untitled($ELL YOUR $ELF)》(1996) Photo: Courtesy STARS Gallery, Los Angeles

近頃は、シリコンを使って好きなように身体の形を変えられるので、すばらしいと思います。身体はシリコンが好きで、拒絶したりしません。頬骨を高くしたければ、ちょっとシリコンを入れればいい。お化粧みたいなものです。50年前には誰もそんなふうには考えていませんでしたが。

よく想像するのが、政治家たちが全員トランスジェンダーだったらどうだろう? ということです。そうなったら男性と女性の長所を混ぜ合わせて、短所を減らせるかもしれません。たとえば一般的に、男性には女性の10倍ものテストステロン(男性ホルモン)があり、テストステロンは攻撃性に関係します。政治家が全員トランスジェンダーだったら、いい感じでバランスが取れるかもしれません。

美術学校を退学させられ工業デザインを学ぶ

──「発明家」という肩書きを使うこともありますね。

これまでに3つの美術学校から退学させられましたが、そのうちの1つでは、車のデザイナーにでもなろうと思って工業デザインを専攻していました。自分のデザインしたキックボードの特許も取得していて、それに乗ってサンタフェ・センチュリー(ニューメキシコ州にある約170キロメートルのサイクリングコース)を走ったこともあります。

──退学になった理由は?

大学ではみんな、デザインをものすごく真剣に捉えていて、命を賭ける勢いでテールランプをデザインしていました。私はそうした態度をからかいたくなり、あるとき半分車で半分人間のオブジェを作品として提出したんです。フロント部分は典型的な50年代風の自動車で、後ろ半分はかなりリアルに造形された人間の男性の下半身の像でした。それが、デトロイトの地図の上で(雄犬がおしっこをひっかけるように)片脚を上げている。この作品が最後の引き金でした。学校側は自動車産業から多額の資金提供を受けていたので、そうしたものを許容できなかったようです。

そこで私は、しばらくの間、玩具専門のデザイン会社で働きながら、ロサンゼルスの街を記録し始めました。当時のロサンゼルスは、小さな田舎町がそのまま巨大化したような雰囲気でした。戦後、平凡な生活に飽き足りなさを感じた人々が、どんどん西海岸に移り住んだんです。「自由が欲しいならどうする?」「カリフォルニアに行くしかない!」という感じです。

街中を運転していると、ちょっと変わった人たちが改造した風変わりな自動車や家をよく見かけました。そういうものに遭遇するたびすぐに写真を撮れるように、私は自動車を手放し、カメラと自転車を手に入れたんです。そんなふうにして、戦後のまだファンキーで自由気ままだった時代のロサンゼルスの街を記録したのです。

ピッパ・ガーナー《Backwards Car》(1973-74)

1970年代、逆走しているように見える車を制作

──車を運転していた当時の経験が、《Backwards Car》(後ろ向きに走る車)の制作にもつながったのですか?

オリジナルの《Backwards Car》を作ったのは1974年です。当時のキャデラックには、止まっている時も動いているように見える、大きいテールフィンが付いていました。ある日、これが後ろ向きに走ったらどうだろう、とふと思ったのです。それを実現するには、腕利きのメカニックの協力を得たり、専門の道具や設備を借りたりしなければいけませんが、私には何のつてもありませんでした。

とはいえ、後ろ向きに走る車をつくるまでは夜も眠れないという気持ちでした。59年型シボレーの車体を使おうと決めたのは、テールフィンが平らだったから。上に向かって高く伸びているキャデラックだと、前後が入れ替わった車を運転する時にテールフィンで視界が遮られてしまいます。シボレーも流線型のデザインでしたが、キャデラックよりも少し平らで、全体として雫のような形をしていました。

私はアイデアスケッチを描き、企画書を方々に送りました。最終的に、エスクァイア誌がやろうと言ってくれてカメラマンを派遣し、制作費も前払いで出してくれたんです。私は車を手に入れ、サンフランシスコで駐車場を作業スペースとして借りました。そこで、車のボディとシャーシ(車体を支える骨組みの部分)を固定している部品を全て外し、あとは車体を持ち上げて向きを変えるだけ、という状態にしました。

そして、大勢の友人たちをガレージに招いて盛大なパーティーを開き、ひとしきり食べたり飲んだりしてから、「みんなで車の周りを隙間なく囲んで、合図をしたら持ち上げて」と頼みました。そして実際、やってのけたんです! まさか上手くいくとは思いませんでした。

あとは、制御に関わる部分を全てつなぎ直して、車体を再び固定するだけです。作業を終えると、私はハンドルを握り、サンフランシスコの街を走りました。何か変だと気づく人は少なくて、歩道にいる人が「あれを見て!」と指差しているのをチラッと見かける程度。ゴールデンゲートブリッジを何度か往復するうちに、雑誌に掲載するためのいいショットが撮れました。時速90キロ以上で走行中の車列のうち1台が逆走していて、今にも正面衝突が起きて大惨事になると思わせる写真です。

撮影が終わった後、車はスクラップ工場で廃車にしました。この作品を都市伝説のようなかたちで存続させたかったからです。居合わせた人々が確かにその目で見た、あるいは見たかもしれない幻のようなものとして。それに、人身事故は起こしたくありませんでしたから。

──アート・オーマイの展覧会で再びこのプロジェクトに取り組んでいます。50年後の今、改めて作ってみてどうでしたか?

もう一度やるなんて考えたこともありませんでしたが、アート・オーマイのキュレーターから電話がかかってきて、「また《Backwards Car》をやりましょう。メカニックも予算も確保しています」と言われたんです。そのときは、「今は規制が多くて無理だと思いますよ」と答えました。1970年代は規則がそんなに厳しくなく、リアウインドウにワイパーを付け、ヘッドライトとテールランプを付け替えるだけで許可をもらえました。それに、最近の車は前も後ろも大して変わらないデザインで、唯一ロゴの位置くらいでしか見分けられないというのも難点です。

そうするうちに、ふと、ピックアップトラックを使って荷台の部分にエンジンをもってくればいいじゃないかとひらめきました。前後の向きを強調するために、ほかにもいくつか工夫をしていて、巨大なトラックナッツ(*2)と、バンパーステッカーを2枚ほど貼り、ステッカーの1つには、「女性はFree(=自由または無料)であるべきだ」と書きました。自動運転車や電気自動車など、自動車産業が革命的な転換期にある今、人々がこの車にどんな反応を示すのか楽しみです。


*2 アメリカで人気の面白グッズ的カーアクセサリー。睾丸の形をしており、リアバンパーにぶら下げる。

自動運転車の時代、むしろ「人力」に惹かれる

──自動車の組み立てラインで働いた経験もあるそうですね。

デトロイトにあるクライスラーのギアと車軸の工場で半年ほど働いていました。時給3ドル50セントくらいで、60年代としては結構稼げる仕事でした。《Backwards Car》は、大量生産への皮肉と言えるかもしれません。生産ラインが逆回転したらどうなるのか、という。

デトロイトで働いていたときに徴兵されたのですが、学生になれば免除されるということでした。それでロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインに入学し、1、2学期ほど通いましたが、結局徴兵されました、東南アジアで13カ月間、「コンバット・アーティスト」として過ごしたんです。そんな仕事が実際にあったなんて誰も信じてくれませんが、私の軍隊での任務はスケッチしたり、写真を撮ったり、文章を書くことだったんです。上層部はそれを、作戦を立てるための資料として使っていました。

──自動車はあなたにとって何を象徴するものなのでしょう?

かつて車は自由の象徴で、男の子はみんな車に関心がありましたが、今は単なる移動手段です。それどころか、まるで軍隊のようです。渋滞している高速道路を見ると、軍曹から「前進!」と命令された隊列のように見えます。

もうそろそろ、全く違うものが欲しいとみんな思っているんじゃないでしょうか。自動運転車も、最初は気味が悪いと感じるかもしれないけれど、そのうち当たり前になるでしょう。もしかしたら、不要になった信号機がジャンク品としてリサイクルショップで売られるようになるかもしれません。情報化がますます進むと、この先どうなるのだろう? と思います。ひょっとしたら逆回転するかもしれないし、原始時代に逆戻りするかもしれない。先のことは分かりません。

──モーターのない車を作って、「世界一燃費のいい車」と呼んでいますね。

70年代のホンダの小型車からエンジンなどを全て取り外して、ペダルを漕いで動くように改造しました。バーニングマン(*3)の会場で走らせたこともありますし、今はロードアイランド州のオードレイン自動車博物館に展示されています。人力には、すごく興味があります。哺乳類の中でも人間はかなり非力なんです。もし私にうちのペルシャ猫と同じジャンプ力があれば、地面から2階の窓まで飛び移れるでしょう。でも近頃は、電気自動車などの普及で人間の力は軽視されていて、何にでもモーターをつけたがる風潮があります。


*3 ネバダ州のブラックロック砂漠で毎年開催される野外イベント。

──今後はどんなことをやろうと思っていますか?

思いつきで動くタイプなので、次に何をするかは分かりません。時々、夜中に何かひらめいて目が覚めることがあります。自分が2バージョン存在していて、一方が現状に満足し始めると、もう一方が出てきてそれをかき乱すという具合です。でも、そういう分裂した自分が気に入っています。鏡に映った自分の姿を見る時も同じで、身体は単なる道具なんだから、思いっきり改造して楽しもうと思うんです。

私は慢性リンパ性白血病を患っているのですが、ベトナムで枯葉剤にさらされたことが原因のようです。視力も悪くなっていて、肺炎にもなりました。私はこの50年間、ジムに通い続けていて、(自分の体を指しながら)これを最高の状態に保たねば、といつも気を配っています。永遠に生きられるわけではありませんから。

でも、一つ考えていることがあります。荒野を舞台にしたアニメーションビデオを作りたいんです。ガサガサという音が聞こえてきて、やがてゴロゴロという轟音に変わり、突然、地面からガラス窓や鉄、燃料などの物質が出てきて車の形になる。美しくてピカピカの新車は、15秒ほどそこに止まっていたと思ったら、ブルブルと震え始める。それから同じような轟音とともに、全部地中に吸い込まれていく。

私は自分のことを、これの短いバージョンだと考えています。自動車は、完全に粉々にしてしまわなければ、何らかの形で何百年かは残るでしょう。人間の寿命はその足元にも及びません。私はもうすぐ81歳になりますが、病気のことを考えれば、ここまで長生きできたのはラッキーだったと思います。(翻訳:野澤朋代)

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