マルセル・デュシャン「レディメイド」再考──AI時代に通じる「アートの生き残り」への問い
7月28日は、アートの概念を根本から覆したマルセル・デュシャンの誕生日。デュシャンの代名詞である「レディメイド」とは何か。それはどのように生まれ、なぜ画期的と言われるのか。20世紀美術の源流となり、今なお刺激的なデュシャンの芸術を考察する。

アート作品は、いつからアート作品になるのだろう? それはカンバスに絵の具が塗られたときなのか。あるいは大理石の塊に彫刻が施されたときなのか。
マルセル・デュシャン(1887-1968)にとって、その答えははるかに直接的かつ過激なものだった。アーティストがそうだと考えれば、ありとあらゆるものがアートになり得る。つまり彼自身が言うように、「ありふれた物」でも「アーティストの選択によって威厳あるアート作品へと高められ得る」のだ。そして、デュシャンのレディメイド作品によって具現化されたこの概念は、20世紀美術における最も画期的な機軸と見なされるようになった。
レディメイドはいつ、どのように誕生したのか
デュシャンのレディメイド──1913年から創作活動をやめると宣言した1923年の間に制作されたもの──とは、日常から拾い集めた大量生産品を単独で、あるいは複数を組み合わせて用いた作品だ。最初のレディメイドは後者で、自転車のフロントフォークが4本足のスツールにボルトで垂直に固定され、車輪が自由に回転するようになっている。1914年に加わったもう1つの作品は、デュシャンがパリの老舗デパート、バザール・ド・ロテル・ド・ヴィルで購入したトゲだらけの塔のような金属製ボトルラックだった。この《Porte-bouteilles(ボトルラック)》(1914)は、たくさんのトゲが突き出た見た目から、「hérisson(ハリネズミ)」とも呼ばれる。
しかし、デュシャンはこの2つをアートとして扱ってはいなかった。当初デュシャンは自転車の車輪を「愉快な気晴らし」と考え、「暖炉で揺らめく炎を見るのと同じように、それを眺めるのを楽しんだ」。ボトルラックも同様で、そこには何の手も加えられていない。実際、デュシャンが「レディメイド」という呼称を考案したのは、1915年のニューヨーク滞在時のことだった。
デュシャンのニューヨーク行きには、第1次世界大戦の勃発が影響している。リウマチ性心疾患のために兵役不適格とされたものの、その見た目は他の健康な若者と変わらなかった。非愛国的な徴兵逃れとして同胞の怒りを買ったデュシャンは侮辱され、脅され、唾を吐きかけられることすらあり、それがパリを去るきっかけとなった。
ニューヨークに到着したデュシャンが衝撃を受けたのは、アメリカの近代性と階級意識の希薄さだった。おそらく、そこから生まれた自由の感覚が、芸術に境界はないという信念をデュシャンに抱かせたのだろう。あるいは、どこへ行っても溢れるほどの商品が売られている物質的豊かさが理由だったのかもしれない。いずれにせよ、レディメイドという概念は、パリにいる妹スザンヌ宛の手紙にはっきりと示されている。
デュシャンは手紙で自転車の車輪やボトルラックに言及しつつ、ニューヨーク滞在中に「同じ趣向の物をいくつか購入した」と説明し、「それらを『レディメイド』として扱うつもりだ。サインをして……英語の銘文を添えようと思う」と書いている。そして、アトリエに置いてあるボトルラックに「マルセル・デュシャンにならって」と記すようスザンヌに依頼した。デュシャンは「遠隔操作による『レディメイド』作品」を創作するつもりだったが、残念ながらスザンヌは、兄の部屋を片付ける際にボトルラックも自転車の車輪も捨ててしまっていた。

デュシャンはまた、レディメイドとして構想され、柄に「折れた腕の前に」と書かれた雪かきシャベルのことも手紙に記している。この言葉は、冬に歩道の雪かきを怠ることの危険性を皮肉った警告だと解釈される場合が多いが、デュシャンの意図はナンセンスなものだった。それが証拠にスザンヌにこう伝えている。
「ロマン主義や印象派、キュビスム的な意味で無理やり理解しようとしないこと──何の関係もないのだから」
この作品は1915年11月、デュシャンとスザンヌの夫である画家ジャン・クロッティ(1878-1958)がニューヨークのコロンバス・アベニューにある金物店に立ち寄り、山積みになった大量のシャベルに驚嘆したことがきっかけで生まれた。アメリカの製造業の力を示す光景に感銘を受けたデュシャンは、アトリエにその1本を持ち帰って文字を書き込み、天井から吊るしたという。
レディメイド作品に共通する「機能性の放棄」
しかし、レディメイドは突如として生まれたわけではない。1912年、ジョルジュ・ブラック(1882-1963)は、鉛筆とガッシュで描かれた静物画《果物皿とグラス》に木目調の壁紙の切れ端を貼り付けた。このありふれた大量生産品を、仲間であり、ライバルであり、協力者でもあったパブロ・ピカソ(1881-1973)とともに確立した分析的キュビスム様式の構図に組み込むことで、ブラックは日常的なものとアート作品の境界を曖昧なものにした。
ピカソはさらに踏み込み、《アブサンのグラス》(1914)という小ぶりの彫刻を制作している。その一番上には、既製品のアブサン(リキュール)用スプーン(角砂糖の上からこの酒を注ぐ時に使う平たく穴の空いた道具)が取り付けられている。こうしてブラックとピカソは、その後数十年にわたって用いられることになるアプロプリエーション(流用)の戦略を生み出したのだった。
しかし、デュシャンの自転車の車輪は、具象的な役割を果たしていたピカソのスプーンとは大きく異なる。レディメイドは「視覚的無関心という反応に基づき」、計算された中立性によって選ばれるからだ。それは、フロイトのフェティシズム(無生物や身体の一部などへの性的執着)理論に触発されたシュルレアリスムの「オブジェ・トゥルヴェ(発見された物)」──最も有名な例はサルバドール・ダリの《ロブスター・テレフォン》(1938)──とレディメイドを明確に分けるものでもあった。
デュシャンはその後、大量のレディメイド作品を発表した。使用する物はランダムに選ばれたが、重要な共通点が1つある。それらは全て実用品ではあるが、芸術の有効性を問うことを目的に、デュシャンによって無用の長物にさせられたものだった。機能性から切り離された品の一例に、アンダーウッド社製タイプライターのビニールカバーを用いた《旅行者用折りたたみ品》(1916)がある。デュシャンが、「レディメイドに柔らかさを取り入れてみようと思った」ことが理由だった。
1917年に制作された《罠》は、もともと板に4つのフックを取り付けたコート掛けで、壁に取り付ける予定だったが床に放置されたままになっていた。そこで何度もつまずいたデュシャンは、「もういい、そこに居座って私をうんざりさせたいなら、床に釘で打ち付けてやる」と決め、これをレディメイド作品としている。また、《帽子掛け》(1917)は誰も届かない高さに吊るされた。
この《帽子掛け》はクモに似ていた。少なくとも、アトリエの壁に影を落とすこの作品を1918年に撮影した写真で、デュシャンはそれを示唆している。写真では、《帽子掛け》がクモの巣のような《旅行用彫刻》(1918)の中に収まっているのが見えるが、これはデュシャンがブエノスアイレスへの旅行に持参したゴム製のシャワーキャップを切り貼りして網状にしたものだ。
中には実現しなかったレディメイドもある。その1つ、「Emergency in favor of twice(2回を好む緊急事態)」は、妹に宛てた手紙に記された不可解なフレーズとしてのみ存在する。もう1つは、ロウワーマンハッタンのウールワース・ビルディングに関するもので、1916年の自分宛てのメモに「ウールワース・ビルディングをレディメイドとして設置するための銘文を見つけ出す」と書かれているが、結局のところそれが実行されることはなかった。とはいえ、当時世界一の高さを誇ったこのビルを対象としたデュシャンの計画は、極めて大胆なものと言えるだろう。
デュシャンが手を加えた「アシステッド」レディメイドの代表作
レディメイドは通常、「アシステッド(何らかの形で改変されたもの)」と「ノンアシステッド(手を加えていないもの)」に分類される。厳密に言えば、文字が刻まれたり素材を組み合わせたりしたものは全て「アシスト」されたものだが、この用語はデュシャンの手仕事がよく分かる作品を見ると理解しやすい。たとえば、初期の例の1つである《薬局》(1914)は、冬の風景を描いた安っぽい版画にデュシャンが2つの色の点と署名を加えたもので、その点が薬瓶を連想させることからこのタイトルが付けられた。
このほか、《エナメルを塗られたアポリネール》(1916-17)と《L.H.O.O.Q》(1919)にもデュシャンの手が入っている。前者にはサポリン・エナメルの広告看板が用いられ、ベッドフレームに塗料を塗る少女の上方にそのラベルが描かれている。ブランド名から文字を削ったり加えたりすることで、フランスの詩人ギヨーム・アポリネール(1880-1918)にオマージュを捧げたとされているが、実は名前の綴りが間違っていた(のちにデュシャンは、アポリネールとはそれほど親しくなかったと話している)。また、広告に描かれた鏡に映る少女の後頭部の髪も鉛筆で描き加えられている。
《L.H.O.O.Q》では、《モナリザ》のありふれた絵葉書にヴァン・ダイク風のヒゲが書き込まれ、その下に「L.H.O.O.Q」と記された。この文字列は、フランス語で発音すると「彼女のお尻は熱い(性的に興奮している)」という意味になる。《エナメルを塗られたアポリネール》には、少女が男根を思わせるベッドの柱を刷毛で撫でるというイメージに、不快なエロティックさを感じさせる含みがある。そして《L.H.O.O.Q》は、オールドマスターの作品を、ジェンダーを逆にしてパロディ化し、隠された意味を明示的なテキストへと変えている。
デュシャンのレディメイドには、鉄鋼財閥の一族で主要なパトロンだったウォルター・アレンズバーグへの贈り物として、あるいは彼の意見を取り入れて制作された作品がある。たとえば、薬用アンプルに50ccのパリの空気を封入した《パリの空気50cc》(1919)は彼に贈られたもので、フランス語で「高さからの3、4滴は残虐性とは関係ない」という謎めいた言葉が刻まれた鉄製の《櫛》(1916)はアレンズバーグとの共同作品だ。
巻かれた糸が上下2枚の真鍮板に挟まれている《秘めた音で》(1916)は、ある指示とともにアレンズバーグに贈られた。その指示とは、上部をねじって外し、糸の中心に自分だけが知る物体を隠して再び閉じておくという内容だった。タイトルは、その謎の物体が発するガラガラという音からきている。
アレンズバーグは、デュシャンが最も物議を醸したレディメイド作品である《泉》(1917)の制作にも関わっていた。横に倒した小便器に「R・マット」と署名された《泉》は独立芸術家協会の第1回アンデパンダン展に出品されたが、会場の他の作品から見えない場所に設置されたため、デュシャンはそれを撤去。その後、この作品の写真が、ニューヨーク・ダダの雑誌「The Blind Man(盲目の男)」に掲載された。撮影はアルフレッド・スティーグリッツで、R・マットを擁護するデュシャンの小論に使われている。
芸術の自由の試金石だった《泉》は、デュシャンがアレンズバーグや画家のジョセフ・ステラとともに構想したもので、小便器は5番街118番地のJ. L. モット鉄工所で購入された。(デュシャン同様)独立芸術家協会の理事でもあったアレンズバーグには《泉》に対する説明責任があり、画家のジョージ・ベローズから「カンバスに馬ふんを塗った作品」でも展覧会に出展できるかと怒りをあらわに詰め寄られて、「できる」と答えたという。
AI時代にも通じるデュシャンが追求し続けた問い
《泉》に関しては、R・マットという偽名の由来(本人は人気コミック『マットとジェフ』から取ったとしている)から小便器の入手場所、さらには出品したのがデュシャン自身だったかどうかに至るまで、ありとあらゆる側面が議論されてきた。中には、奔放な前衛芸術家だったエルザ・フォン・フライタグ=ローリングホーヴェンが持ち込んだと主張する者もいる。この説は、デュシャンがスザンヌ宛ての別の手紙の中で、女性の友人が《泉》を持っていったと述べていることを根拠としている。
彼女が関与していたかどうかはともかく、女性が制作したレディメイド作品はある。少なくとも、デュシャンが扮した女性の別人格「ローズ・セラヴィ(Rrose Sélavy)」が作品を制作したのは事実だ。この名前は、「Eros, c’est la vie(エロス、それが人生だ)」をもじったもので、前述の《L.H.O.O.Q》に登場するひげを生やした《モナリザ》と対になる存在と言える。
当初、ローズの綴りはRoseだったが、1921年にデュシャンがフランシス・ピカビア(1879-1953)の作品《カコジル酸塩の目》にサインをした際にRroseへ変更された。ピカビアがこの作品を制作したのは、目の感染症で寝込んでいたときで、ギプスにサインをするのと同じように、見舞いに来た友人たちに作品に名前を書き込むよう頼んでいた。
洗練された髪型で最新のファッションをまとったデュシャンは、アメリカの写真家マン・レイ(1890-1976)が撮影した作品にローズとして登場し、いくつかのレディメイドをローズ名義で発表している。特に有名なのは《ローズ・セラヴィよ、なぜくしゃみをしない》(1921)で、アイスキューブのような大理石が詰め込まれた鳥かごに温度計とイカの甲が突き刺さっている。やかんの内部に蓄積した石灰分を取り除くために使われる大理石のキューブは、金物店で購入されたものだ。ひんやりした感触の大理石と温度計は風邪を連想するよう意図され、イカの甲は狭いカゴから飛び立った鳥を象徴する。また、作品タイトルには、くしゃみとオーガズムとの生理的な類似性が暗示されている。

ローズの名で発表されたもう1つのレディメイド《なりたての未亡人》(1920)は、ガラスの代わりに黒い革のパネルがはめられたミニチュアのフランス窓だ。これは「ウィドウ(未亡人)」と「ウィンドウ(窓)」の言葉遊びに加え、ほとんどのレディメイドが時間の経過とともに失われたり壊れたりした中で、ほぼ完全な形で現存する数少ない作品の1つという点でも注目に値する(ただし1960年代に限定版のレプリカが制作されている)。
つまり、レディメイド作品は、それを作るために使われた物と同じく、いずれは消滅してしまうものだった。これはデュシャンが意図していたことでもある。デュシャンは他の多くのアーティスト以上に、産業革命が社会をいかに変容させたかを理解していた。単に手仕事が機械に取って代わられたことだけではなく、文化の永続性の前提が揺るがされたことを理解していたのだ。
かつてアート作品の定義は、唯一無二のものであるという特性に依存していた。それに対してデュシャンは、雪かきシャベルに象徴される大量生産品の氾濫の中で、アートはいかにして生き残れるのかという問いを追求した。その問いは、AIの時代においてこれまで以上に大きな意味を持つのではないだろうか。(翻訳:清水玲奈)
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