「明治の洋館」は憧れで終わらない──江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」【EDITOR’S NOTES】
江戸東京博物館で開催中の特別展「洋館 明治の夢と挑戦」は、華麗な洋館建築にまつわる資料を展示しているだけではない。文明開化期、日本人が試行錯誤を重ねながら西洋文化を吸収し自らのものへとしていった、その軌跡をたどる展覧会だ。

イギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計のもと、日本の近代化を海外に示す迎賓館として明治16年(1883)に建てられ、昭和15年(1940)に解体された「鹿鳴館」。もう写真や錦絵にしか残されていない存在だと思っていたが、本展会場で階段の一部やソファ、建具の断片を前にしたときは驚いた。
階段には、手すりやバラスター、親柱に至るまで植物文様が施されており、その精緻な装飾から実際の鹿鳴館はどれほど華やかな空間だったのだろうと想像がふくらむ。
しかし、江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」は、多くの人々を魅了してきた壮大で華麗な「明治の洋館」を紹介するだけの展覧会ではない。数百年に及んだ鎖国を終え、西洋建築という未知の文化を前にした日本人がどう受け入れ、自分たちのものへと変えていったのか。その過程が4章構成の展示を通して浮かび上がってくる。
印象に残ったのは、壁に黒地を塗り、その上に盛り上げた白い漆喰を格子状に巡らせる「ナマコ壁」に代表される擬洋風建築だ。まだ日本に建築家という職能が存在しなかった明治初期、大工や左官たちは江戸時代からの技術を生かして見よう見まねで西洋建築を形にしていった。ナマコ壁の代表例として紹介される明治5年(1872)築の第一国立銀行は、大きなベランダを備えながら、屋根には城郭建築に見られる唐破風を載せるという和洋折衷の姿をしている。そのちぐはぐさがおかしくもあり、愛おしい。異文化を理解しようとした職人たちの奮闘が、この建築に刻まれている。
展示室の中ほどに置かれた、銀座8丁目付近で出土した2つの赤煉瓦にも、近代化への試行錯誤の物語が隠れている。江戸東京博物館館長で建築家の藤森照信は自著『近代建築そもそも講義』(新潮新書)の中で、長崎で生まれた日本初の煉瓦は、屋根瓦の技法を応用した黒く扁平な「蒟蒻煉瓦」だったと紹介している。赤煉瓦が造られるようになってからもしばらくは、屋根瓦用の小さな窯で焼かれていたという。
そんな中の明治5年、外務大輔として外交実務を担っていた井上馨は、大火で焼失した銀座を煉瓦造りの街へと生まれ変わらせる「銀座煉瓦街」計画を進め、アイルランド人技術者トーマス・ウォートルスを招いた。ウォートルスは、ドイツ人技術者フレデリック・ホフマンが開発した「ホフマン窯」を日本に導入し、煉瓦の大量生産を実現する。ホフマン窯はその後全国へ広まり、戦後まで日本の煉瓦製造を支え続けた。
展示では、ジョサイア・コンドルが工部大学校造家学科(現在の東京大学工学部建築学科)の教師として辰野金吾や片山東熊らを育て、日本に「建築家」という新たな職能を根付かせていく歩みも、設計図や資料を通して紹介されている。見よう見まねから始まった明治の建築は、やがて専門教育を受けた建築家たちの手へと受け継がれ、一般の住宅にも日本の従来の生活様式と融合する形で西洋建築が浸透していった。
本展を見る前は、自分の生活と明治期の壮麗な洋館は全く別のものだと思っていた。だが、私の家の入り口はドアで、靴を脱ぐための玄関やガラス窓がある。その一つひとつは、明治の人々が西洋建築と向き合い、模索を重ねながら日本の暮らしへと取り入れてきた歴史の延長線上にあるのだ。本展を見終えたあと、街に残る洋館だけでなく、自宅の窓やドアまで少し違って見えた。
江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」
会期:6月23日(火)〜8月23日(日)
場所:江戸東京博物館(東京都墨田区横網1-4-1)
時間:9:30〜17:30(土曜は19:30まで、8月7日・14日・21日は21:00まで、入場は30分前まで)
休館日:月曜(7月20日、8月10日を除く)、7月21日























