ヘンリー・ダーガー(シカゴのアウトサイダー・アーティスト)のアートと現実を越境する独創的な世界
引きこもりの画家、ヘンリー・ダーガーは、シカゴのアパートに数多くの作品を残したまま1973年にこの世を去った。最近になって、このアパートの家主とダーガーの親族との間で作品の権利をめぐる法的な争いが起きている。これを受け、ARTnewsの姉妹誌であるArt in Americaでは、1985年2月号に美術評論家のマイケル・ボーンスティールが寄稿した、ダーガーを含むシカゴのアウトサイダー・アーティスト3人に関するエッセイを再掲した。
シカゴのアウトサイダー・アーティスト(*1)、ヘンリー・ダーガー、リー・ゴディ、そしてジョセフ・ヨークム。彼らが自分の内面から解き放ったファンタジーは、絵の中だけにとどまることなく、日常の中に入り込んで現実世界を一変させてしまった。ダーガーらが他の作家と異なる明確な特徴は、アートと生活の区別がつかなかったことではないだろうか。彼らは、作品の背後にあるアイデアやコンセプトだけではなく、自分が創造した芸術的な虚構そのものを深く信じていた。それが、見る者の心に働きかける不思議な力を作品に与えている。
ジャン・デュビュッフェ、ロジャー・カーディナル(*2)、そしてミシェル・テヴォー(*3)が論じるところによると、アウトサイダー・アートは単なる妄想的人格の産物ではない。妄想的人格が生むファンタジーは、普通は現実世界で形あるものにはならないが、アウトサイダー・アーティストはファンタジーが存在する「証拠」を作ることによって、自分の妄想を記録し、確認する。そして、この「証拠」によって、彼らの絶対的な信念はさらに強固なものになるのだ。
アウトサイダー・アーティストを真摯に評価しようとすると、さらに複雑な問題に直面する。彼らの作品は、描いた絵から着ている服まで、そして、話し方の癖から明らかに脚色された経歴に至るまで、生活におけるほぼ全ての行動によって成り立っている。常識では理解しがたいが、彼らは文字通り自分のアートを生きているのだ。
そのため、明らかな矛盾があるにもかかわらず、伝記作家たちはアウトサイダー・アーティストの言葉を鵜呑みにする傾向がある。黒人アーティストのヨークムは、自分は純血のナバホ族だと主張し、シカゴの仕立て屋の息子であるダーガーはブラジル生まれだと言い、ホームレスだったゴディは裕福な家の出だと語っている。こうした主張に異論を挟むことは、表現主義の画家が描く人間の身体を本物らしくないと言うのと同じくらい無意味だろう。多くのアウトサイダー・アーティストにとっては、それも含めて全てがアートなのだ。
いわゆるプリミティブ・アート(*4)やナイーブ・アート(*5)、アウトサイダー・アートの作家たちは、第二次世界大戦の頃にはシカゴ美術界の有識者たちに受け入れられるようになっていた。シカゴ・イマジスト(*6)たちがインスピレーションを求めてフィールド自然史博物館や、独学で作品を作るようになったアウトサイダー・アーティストのもとを訪れるようになるずっと前から、ジェニー・シポリンやトバルド・ホイヤーのような地元のナイーブ・アーティストは、シカゴの小さなアートコミュニティではよく知られた存在だった。実際、1940年にシポリンとホイヤーは、シカゴ美術館が毎年開催する「Chicago and Vicinity(シカゴとその周辺)」展に出品している。
シカゴ美術館附属美術大学の教授たちは、シカゴにおける未来のアーティスト、歴史家、批評家を育てるカリキュラムの中で、プリミティブ・アートや近現代のナイーブ・アーティストを取り上げてきた。この伝統は、アフリカ系アメリカ人を主題とする作品を残したモダニズム画家のキャスリーン・ブラックシアに始まり、美術史家でアーティストでもあったホイットニー・ハルステッドから、画家・コラージュ作家のレイ・ヨシダに至るまで連綿と続いている。
そのため、1951年にデュビュッフェが、シカゴのArts Club(アーツクラブ)で有名な「反文化宣言」の講義を行った時、彼が言うところのアール・ブリュットを受け入れ、愛する基盤がすでにこの地には存在していた。アール・ブリュットの文字通りの意味は「生の芸術」で、美術界の主流からほとんど影響されていない、独学のアーティストが生み出す無垢な芸術のことを指す。
1979年にシカゴ現代美術館で開かれた「Outsider Art in Chicago(シカゴのアウトサイダー・アート)」展では、ダーガー、ゴディ、ヨークムが、ウィリアム・ドーソン、アルドブランド・ピアチェンツァ、ポーリーン・サイモンらと並んで紹介されている。後者の三人は、フォーク・アート(*7)やナイーブ・アートなどのより広い文脈での作品を生み出した作家だ。一方、ダーガー、ゴディ、ヨークムは、真のアウトサイダー・アーティストとして彼らとは明確な違いがある。自らの特異な構想から作品を創造する、比類のない独創性を持っているのだ。
ホームレスのアーティスト、ゴディは、路上生活者の取り締まりで裁判所に連行された時、職業を聞かれて「私は有名な芸術家よ」と答えたという。安物の布に身を包んだ(自分流に東インドのサリーを再現したスタイル)彼女を見た裁判官は、この老人は誇大妄想に悩まされていると考え、精神病院に入院させた。しかし、現代に生きるフランスの印象派作家だという度を越した自己評価はともかく、有名な芸術家であるのは間違いない。なんといっても10年以上、作品を売って身を立ててきたのだから。シカゴのアーティストで、そんな実績を誇れる者は多くない。
彼女は、シカゴ美術館の正面階段に鎮座する二頭のライオン像と同じように、いつもそこにいた。そして、何年もの間、通りすがりの人に自分の絵を見せては、歯の抜けた口を開いて「私はセザンヌよりずっと上手なのよ」と不思議と興味をそそる話し方で作品を売り込んでいたという。彼女の名前はシカゴのアート界以外にも広く知られており、数多くの作品が地元の人の手に渡っている。それを有名と呼ばずして、一体何をそう呼ぶのだろう。
60年代後半、ゴディは絵に使っていたのと同じ絵の具で自分の頬に丸くオレンジ色を塗り、アイシャドーをし、黒々と太い眉を描いていた。父親はマーシャル・フィールド・シニア(*8)と一緒に銃を撃ち、妹はイグナツィ・ヤン・パデレフスキ(*9)にピアノを習っていたと吹聴していたこともある。ゴディ(自分では「ゴーデイ」と発音していた)というのが本名なのか、それともフランス印象派を自称する彼女のアイデンティティーにふさわしい偽名なのかも分からない。もちろん、彼女がキュビスム作家でないのと同じくらい印象派作家でないことは、あまり問題ではない。彼女が想像力のパレットで自分の人生を変貌させたことが重要なのだ。
ゴディが描くのは、大きく見開いた瞳と豊かなまつ毛を持つ、華やかで快活な女性のポートレートだ。フォーク・アーティストのアイネズ・ナサニエル=ウォーカーが描く女性像と似ているところもあるが、ゴディの描く女性は、どちらかと言うとアロイーズのような、アール・ブリュット作家独特の強烈さと異様さがある。《Flaming Youth(燃える若さ)》《Sweet Sixteen(スウィート・シックスティーン)》《Gibson Girl(ギブソン・ガール)》といったタイトルの作品は、世界恐慌前の無邪気な時代を思い起こさせるが、彼女自身は今もそんな世界に生きている。どんなに寒い日でもスラックスをはかずに間に合わせのドレスを着て、自分の安宿に男性が訪ねてきた時は階下のロビーで会い、決して部屋には上げない。
ゴディは、マーガレット王女やジェームス・ディーンのような有名人の肖像を描くこともあるが、たいていは身の回りの人物を描いている。《Girl in the Mirror(鏡の中の少女)》については自画像だと話していたこともあれば、「シャーリー・テンプル(1930年代の天才子役)のように美しく」、幼くしてジフテリアで亡くなった自分の娘の肖像だと言ったこともある。
キャンバスとして使っていたのは、下塗りされた麻布の端切れから窓の日除けまで幅広く、不思議な比率で不揃いにカットされていることが多い。水彩絵の具とボールペンに切り替える前は、テンペラ絵の具を瓶から直接、何度も塗り重ねていた。そのため、初期の作品は木工用のニスで繰り返しコーティングされているにもかかわらず、かなりの剥離が見られる。一部の作品は完全に乾いておらず、現在でも粘着性が残っているように感じられる。
作品の中には、証明写真ボックスで撮った自分(扇のように札束を広げている)の写真に彩色したものが貼り付けられたものもある。ゴディの発明には、絵の「本」(キャンバスの束の片側を靴ひもでまとめたもの)、絵の「枕」(2枚のキャンバスを背中合わせに縫い、新聞紙を詰めたもの)、白と黒のキーボードの上にトレースした手の形が浮かぶシリーズ作品(あらかじめ作られていて、注文に応じて違う長さにカットして売る)などがある。10年以上、彼女はその時の気分次第で5ドルから50ドルで作品を売っているが、この価格はインフレ前はおろか大恐慌前の水準だろう。
ヘンリー・ダーガーは、自分が創り出した世界をあまりにも強く信じていた。そのため、ダーガーが書いた壮大な物語『非現実の王国で』は、彼自身の日常生活と分かち難く結びついている。彼にとって現実と非現実の世界は一体であり、一方での行動が他方に影響を及ぼすのだ。ダーガーは母を知らず、子どもの頃に父親を亡くしている。2631ページに及ぶ自伝によると、カトリック系の孤児院を転々とさせられ、そこで修道女からひどい虐待を受けていた。その後「心の弱い」少年たちのための施設に入れられたが、結局そこから逃げたという。ダーガーの「王国」は、彼自身の幼少期の記憶や経験が、幻想的かつ恐怖を起こさせる形で投影されたものなのかもしれない。
「大人になりたくなかった」と文句を言っていたダーガーは、ある意味、本当に大人にならなかったのだろう。彼の創造的なビジョンには宇宙的な広がりがあったが、現実認識は思春期以前の段階で止まっていたようだ。厳格なカトリックの教育を受け、男だけの環境でしか暮らしたことのないダーガーは、服を脱いだ女の子の体が男の子と違うことを知らなかったのかもしれない。あり得ないことのように思えるだろうが、女性嫌いで恋人がいなかったダーガーが、ペニスのある少女という両性具有の絵を描いた理由として、それが最もシンプルな説明に思える。
半世紀以上にわたって人生を捧げることになるこの物語を、ダーガーは1911〜16年の間に書き始めている。そして、この記念碑的なライフワークは、1973年に彼が亡くなるまで発見されることはなかった。ほかの家主ならダーガーの作品を一目見ただけで、全部ゴミ捨て場行きを決めてしまったかもしれない。しかし、自身もアーティストで写真家でもあるネイサン・ラーナーはそうしなかった。ダーガーに貸していたシカゴのノースサイドにある狭いアパートで、壊れたおもちゃ、キッチュな宗教画、その他さまざまなガラクタの山に埋もれた古い旅行カバンに入っていた作品を発見すると、すぐにその重要性を見抜いたのだ。
『非現実の王国で』は、約1万9000枚のリーガルサイズの紙(A4サイズよりやや大きい)にシングルスペースでタイプされ、十数冊分の製本された部分と未製本の部分があった。また、日記や帳簿も多数発見されている。さらに驚くのは、3冊の巨大な「本」として縫い合わせた87枚の壁画のような水彩画だ(作品を束ねて本にしたのはゴディが最初ではなかった)。67点のイラストも見つかったが、どれも彼の王国の物語世界を描いたものだった。
ダーガーは基本的に、作家としてもイラストレーターとしても、パッチワークのような手法で作品を制作するコラージュアーティストだった。完成されているかと思えば、時にぎこちない文体は、ブース・ターキントンの童話や南北戦争の歴史書、新聞の天気予報欄などをつなぎあわせたものなのかもしれない。同じように、物語に添えられている絵も、人気のパルプ本や雑誌、新聞から切り抜いたものだ。それを近所のドラッグストアに持ち込んで、自分の求めるサイズに拡大・縮小してもらっていたという。そして、図像を配置してトレースし、水彩絵の具や鉛筆を使って手を加え、奇想天外な場面を構築していった。
『非現実の王国で』には、我々の惑星とパラレルで存在する架空の世界が描かれている。そこにはカトリックの国々と、邪悪なグランデリニアという国がある。グランデリニアは、自国の子どもたちだけでなく、征服した国の子どもも奴隷にして迫害している。この野蛮な行為をやめさせようとするアビアニアなどの国々との間で戦争が長く続いたが、その間に超自然的な嵐や、この世のものとも思えない大地震が起きている。この王国には男性、少女、そして「ブレンギン」と呼ばれる翼を持つ生き物が住んでおり、女性や少年を描いた部分はほとんどない。物語のヒロインは、勇敢で美しいビビアン7姉妹で、子ども奴隷の反乱を起こし、戦局を有利に導く。ところが、現実の世界で起きたある大事件が(物語の中では「アロンバーグの謎」とされている)、この戦争を何年も長引かせることになるのだ。
ダーガーは、ある少女殺し事件の新聞記事を読み、その写真をスクラップしていたようで、その少女を「アニー・アロンバーグ(Annie Aronburg)」と呼んでいた。実際には、1911年5月9日にシカゴ・デイリー・ニュースの一面に写真が掲載された、エルシー・パローベック(Elsie Paroubek)という気の毒な5歳の少女だった可能性が高い(ParoubekのPを取り除き、uをnに置き換えると、aronbekとなる。ダーガーはそれをAronburgに変換したのかもしれない)。彼はその少女の写真を、登場人物のモデルにしていた他の子どもたちの写真と一緒に、カトリックの殉教者や聖人の絵が並ぶ壁に飾っていた。
だが、ある時彼はその写真をなくしてしまう。このことがダーガーをいら立たせ、激怒させた。写真が戻るように神に祈りを捧げ、それがかなわないと今度は神を脅しにかかった。物語の中の敬虔なキリスト教徒の国々が戦いに負けてしまってもいいのですか? このまま写真が戻らなければ自分もグランデリニア軍に加わってやる、と。彼は物語の中に自分を書き込んでもいる。実際の身長は160センチメートルほどだったが、颯爽(さっそう)としたヘンリー・ダーガー隊長は長身で、頭に黒いターバンを巻いている。そして、おとぎの国の幸せな子どもたちの描写は、次第に殺りくやはりつけなどの恐ろしい場面に変わっていった。結局、写真は見つからずじまいで、ダーガーはしかたなく諦めたようだ。最終的にキリスト教徒が勝利したものの、ダーガーにとって分かち難く結びついていた二つの世界を、アロンバーグの謎はいつまでも深く貫いたままだった。
ダーガーは、1929年頃に書かれた苦悩に満ちた手紙の中で、なぜ自分には子どもを養子にする許可が下りないのかと書いている。毎日教会に通い、ロザリオを手に祈りを捧げたにもかかわらず、その祈りは報いられなかった。彼は「児童保護協会」まで設立している。ただし、会員は彼と彼の唯一の友人、ウィリアム・シュローダーだけだったが。ダーガーはまた、神への冒涜や神の聖なる意志を疑った罪の意識にさいなまれ、「王国」の中でキリスト教徒が勝利するのを遅らせた自分を責めた。
彼にとって、アニー・アロンバーグの写真を失くしたことは、子どもに否定された象徴になったのかもしれない。引きこもりがちな独身男性で、精神的にも不安定だったダーガーは、病院の清掃員としてなんとか生計を立てていた。そんな人物が養親として認められる可能性は低い。彼は孤独な生活の寂しさをいやすために、代理の子どもたちがいる世界を自ら作り出した。自分たちを存在させ、救ってくれるダーガーを頼りにする子どもたちの世界を。
シカゴで最もよく知られたアウトサイダー・アーティスト、ジョセフ・ヨークムが自分の人生とアートをかけ合わせた方法は、ダーガーほど劇的でなく、ゴディほど派手でもなかった。とはいえ、ヨークムの主張によると、彼が描いた大きくうねるような風景画はどれも、バッファロー・ビルの興行やリングリング・ブラザーズなどのサーカス団に所属していた頃に巡業の途中で見た光景がもとになっているという。世界中を旅した彼は、南極大陸を除くすべての大陸と国に行ったことがあるそうだ。だが、そこに行ったことがないのを忘れていたのか、南極旅行の絵も描いている。
美術史家でシカゴ美術館附属美術大学の教授も務めたホイットニー・ハルステッドは、シカゴのサウスサイドに住むヨークムのところによく客を連れていった。彼の未発表の原稿(シカゴ美術館所蔵)には、ヨークムについての記述がある。それによると、彼は絵を買いそうな人に、それぞれの絵に関するホラ話をでっち上げては語って聞かせていたそうで、同じ話をしばしば繰り返していたという。
ヨークムはまた、空飛ぶ円盤の絵を何枚も描いている。皮肉なことに、1969年の月面着陸は政府の捏造(ねつぞう)だと考えつつ(打ち上げられたロケットは太陽の熱で燃え尽きてしまうと思っていた)、UFOの存在はかたくなに信じていた。ロサンゼルスからシカゴに向かう飛行機に乗っていたら、空飛ぶ円盤に遭遇したというエピソードもある。パイロットは着陸を余儀なくされ、自分はそこから目的地まで列車で移動する羽目になったそうで、その体験のせいでもう二度と飛行機には乗りたくないと語っている。
ヨークムは実際に、さまざまな場所を旅した経験があったと考えるのが妥当だろう。しかし、ヨークムが旅の記憶を膨らませたのは、彼が言うところの「精神的な展開」、つまり想像力によるものだったことは間違いない。それを手持ちの旅行本や、(ハルステッドの説明では)絵葉書が補っていた。ある時、ハルステッドがヨークムに、アイオワでは絵にあるような山は見たことがないと言ったところ、ヨークムはハルステッドをこうたしなめたそうだ。「それは、あなたがちゃんと見てないからですよ」
ダーガーと違い、ヨークムは自分の王国を見つけるために地球を離れる必要はなかった。ただ懸命に「見る」だけで、世界は彼にその叙情的で起伏のある光景を見せてくれたのだ。ハルステッドは、風景の中に顔を描いて自然を擬人化していることについてヨークムに質問したこともある(ダーガーの絵にもこのような「人相化」の特徴が見られる)。ハルステッドが鳥の頭のようなものを指して「鳥か?」と聞くと、ヨークムは「あなたがそう言うなら」と曖昧に答えたという。
1972年に亡くなる前、ヨークムは意図せずして、シカゴ・イマジストにとってのアンリ・ルソー的存在になっていた。イマジストたちは彼の作品を収集し、展覧会も何度か企画している。また、1984年にはCarl Hammer Gallery(カール・ハマー・ギャラリー)で「Joseph Yoakum: His Influence on Contemporary Art and Artists(ジョセフ・ヨークム:現代アートと現代アーティストたちへの影響)」と題された回顧展が開かれている。
悲しいかな、ダーガーやゴディはヨークムほどの認知を得ていない。長年、次から次へと作品を作り続けてきたゴディは、かつてのような質の高い作品を作れなくなっているものの、その創造的な個性は衰えていない。彼女はまだ生きていて、絵を描いたり、シカゴのミシガンアベニューを歩き回ったりしている。一方、ダーガーの作品に関しては、早急に脱酸などの保存措置を取る必要がある。さもなければ、今後10年から20年の間に取り返しがつかないほど痛んでしまうだろう。こうした考え方に反対する純粋主義者たちは、それこそがアウトサイダー・アーティストにとってふさわしい宿命だと言うかもしれないが。
多くの美術史家の見解では、学術的に認められていないアウトサイダー・アートは、本当の意味でのアートではないから消えても惜しくないという。一方で、アール・ブリュットの擁護者を自認する人々は、それらの作品を無害化して美術館に収容し、もとあった場所から移すことは冒涜だと考える。そんなふうに汚されるくらいなら、塵(ちり)になってしまうことを彼らは望むだろう。
しかし、賢明な中道的考え方も存在する。ニューヨーク近代美術館が開催した「Primitivism(プリミティビスム)」展が良い例だ。やや表面的ではあったものの、美術界の本流である高尚なモダニズム趣味の牙城とも言えるこの場所で、20世紀のアート界を代表する作家たちと、人目を気にせずに独学で創作を実践し、まったく異なる文脈から作品を生み出してきた作家たちとの関係を捉え直そうという機運が生まれているのが感じられた。
アウトサイダー・アートの多様な表現は、人々の目に触れ、保存され、後世に伝えられるべきものだ。それは、人間の創意工夫と想像力には限界や境界がなく、様式や特別な訓練は必ずしも重要ではないことを教えてくれるからだ。放浪者ヨークム、戦士ダーガー、フランス印象派のゴディ。アウトサイダー・アートであれ、他のどんな呼び方であれ、彼らの作るものが芸術であることに変わりはない。(翻訳:野澤朋代)
※本記事は、米国版ARTnewsに2022年2月8日に掲載されました。元記事はこちら。