内在化されたスティグマからの脱却──黒人のリプリゼンテーションをめぐる展覧会が伝えること
現在、南アフリカ・ケープタウンのツァイツ・アフリカ現代美術館で、黒人を描いた作品を集めた大規模展が開かれている(9月23日まで)。この展覧会が問いかけ、そして図らずもあらわになった具象絵画の限界について、ヨハネスブルク在住のライターで写真家のンゴポレン・モロイがレビューする。
ツァイツ・アフリカ現代美術館で開催中の展覧会のタイトル「When We See Us: A Century of Black Figuration in Painting」は、エヴァ・デュヴァネイが監督・制作を手掛けたNetflix(ネットフリックス)のドラマシリーズ、「ボクらを見る目(原題:When They See Us)」をもじったものだ。
2019年に配信が始まったこのシリーズは、実際に起きた事件にもとづいている。ドラマに描かれているのは、1989年にジョギング中の白人女性が殺害されたときに容疑者とされ、13年後に無罪となった10代のアフリカ系およびヒスパニックの少年たち、つまり「セントラルパークの5人」の物語だ。
キュレーターのコヨ・コウオとタンダザニ・ドラカマは、このフレーズを「When We See Us(私たちが自分を見る目)」に変え、黒人に対する視線、そして黒人について書かれたり語られたりするときに付きまとう偏見の修正を試みている。アフリカの黒人アーティストやアフリカン・ディアスポラ(*1)のアーティストなど、156人の作家たちが20世紀初頭から2022年までの間に制作した約200点の絵画が並ぶこの展覧会は、美的、哲学的、政治的、そして社会的な意味を持つこんな問いを投げかけている。
「黒人らしさ、アフリカ人らしさは、これまでどのように描かれてきたのか?」
*1 アフリカ大陸からアメリカなど世界各地へ移住した・させられた人々の末裔。
展示作品には実に多種多様な顔ぶれが登場する。絵の中では恋人たちや霊能治療者、英雄、悪役、神秘的な生き物などが、祈りを捧げていたり、踊っていたり、走ったり、戦ったり、読書していたり、くつろいでいたり、寝ていたり、考え込んでいたりする。全体としてこの展覧会の構成からは、誇りと自己認識に裏打ちされたポジティブな姿勢が感じられる。中でも、かなりの部分を占めているのが「ブラック・ジョイ」(*2)に焦点を当てたものだ。その中には、薄暗いクラブで虹色のライトに照らされ踊る男女を描いたモケの《Kin oyé ou Coulier Madiokoko à Matonga》(1983)や、明るいオレンジ色の部屋で噂話に興じる3人の女性を描いたジョイ・ラビンジョの《Gisting in the Kitchen》(2018)などがある。
*2 直訳すると「黒人の喜び」。黒人が差別に対して怒りや悲しみを表明するだけでなく、独自の文化や日々の喜びを社会に発信することも抑圧への抵抗になるという考え方。
このほかに、人物の肌の色を過剰なまでに黒く、漆黒に近いトーンで描いた作品を集めたセクションもある。ここには、クウェシ・ボッチウェイの《Green Earflip Cap》(2020)、ザンディル・チャバララの《Conversation》(2020)、アモアコ・ボアフォの《Teju》(2019)、シンガ・サムソンの《Ibhungane 16》(2020)などが並ぶ。特に目を引くのは、スキンヘッドの女性2人がソファでくつろいでいる様子を描いたチャバララの《Two Reclining Women》で、真っ赤な口紅やヒョウ柄の肌着がカンバスから飛び出てくるような迫力が感じられる。
しかし、過剰なまでの楽観主義と肌の色の強調は、どちらにも問題がある。世界中でいまだ反黒人感情がなくならない中、この展覧会が掲げる楽観主義には限界を感じざるを得ないのだ。展覧会カタログのエッセイでキュレーターのドラカマは、作家のケビン・クアシーの文章を引用している。クアシーは「黒人らしさについて書かれてきた文章のほぼ全てが、抵抗の表現、つまり人種差別的抑圧への反応こそが黒人文化であると、または、そうあるべきだと決めつけている」と嘆いている。
これを踏まえながらもドラカマは、搾取と迫害という一般的な黒人のイメージを覆すことを念頭に展覧会を企画したと書いている。こうした気持ちは理解できるのだが、どうしても不自然に感じられる部分もある。まるで、黒人らしさ、もしくはアフリカ人らしさを証明してみせなければという力みが透けて見えるようだ。
黒い肌の強調は、ケリー・ジェームズ・マーシャルやリネッテ・イヤドム・ボアキエといった先行世代のアーティストに見られる表現だ。しかし、現代の若手画家たちがこれをどう進化させ、深めているのかがよく分からない。
こうした表現の新たな展開を探っていくことは重要だ。なぜなら、単に同種の作品が増えていくだけでは、西洋美術の歴史の中で見えない存在だった黒人の姿を可視化するための、お決まりのストーリーを繰り返すだけになるからだ。つまり、「黒人を見る目」を問い直すことには必ずしもつながらない。黒人の生活と黒い肌の間に緊密な関係を見出しすぎると、黒人の身体を単なる目を引く仕掛けとして位置付けてしまう危険性がある。
「黒人らしさ」というスティグマをどう乗り越えるか
今回の展示では、複数の人物を描いた絵画の方が、社会問題や政治問題をはっきり捉えているように感じられる。特にジェラルド・セコト、ジョージ・ペンバ、メレコ・モクゴシ、フレッド・オドゥヤ、ボーフォード・デラニー、ヘレン・セビディ、マリア・ダ・シルヴァといった故人や中堅以上の作家の絵にこの傾向が強く見られた。
モクゴシの《Pax Kaffraria:Graase-Mans》(2014)は、3点の絵画からなる幅9メートル以上の作品で、複数の場面を組み合わせることで、黒人の生活の豊かさと多元性を表している。ある絵の中では、小さな子どもの世話をする家政婦のそばで、バケツと布を使って自宅の階段を掃除する男性が描かれ、別の絵では教室のような場所で男性が椅子にもたれている。
こうした作品でモクゴシは、ボツワナや南アフリカ、ザンビア、ジンバブエの日常風景を参考に、国を超えた「アフリカ性」を探求している。植民地支配とその負の遺産という大きな物語の外にある、日々の暮らしの静かで何気ない瞬間を捉えているのだ。
「When We See Us」は規模が大きい展覧会なだけに、全てがうまくいっているとは言い難いが、はっきり成功だと言える点が1つある。それは、これまであまり知られてこなかったアーティストを紹介していることだ。その1人が、アメリカ・ルイジアナ州出身の独学の画家、クレメンタイン・ハンター。アフリカ大陸で初めて展示される彼の作品は、この展覧会の中でも、最も古い時代に制作されている。
この展覧会は喫緊かつタイムリーな課題と向き合い、黒人芸術の表現の幅を広げていくこと、そして、具象絵画の限界を検証し直すことの必要性を炙り出したと言える。アートフェアの会場や美術館、ギャラリーに並ぶ作品の中に黒人を見る機会が増えたからといって、アートの世界が変化し、多様性が増したと考えるのはあまりに安易だろう。ただ見るだけでは十分ではないのだ。黒人の身体を描いた印象的なイメージは、差し迫った社会的・政治的問題から人々の注意をそらしてしまいかねない。とはいえ、こうした失敗や葛藤、矛盾は、私たちが前進するのを助けてくれる創造的な問いへの扉を開くものでもある。(翻訳:野澤朋代)
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