ルーブル美術館、24の至宝。効率よく回るための必見作品リスト

世界最高峰の美術館といえば、第一にパリルーブル美術館を思い起こす人は多いだろう。しかし、その広大な空間に散りばめられた50万点近い所蔵品を限られた時間の中で制覇するのは不可能だ。というわけで、ここではルーブルの所蔵品の中でも特に必見の24作品を厳選して紹介する。

パリのルーブル美術館。Photo: Getty Images

INDEX

パリのセーヌ川沿いに建つルーブル美術館は、それ自体が芸術品だ。ロビーエリアの地下には、12世紀の建設当初の名残りがわずかに見られるが、何世紀にもわたる増改築や改修の末、ルネサンスとフランス古典様式が中心の現在の姿になった。その建築は、ワシントンD.C.の米連邦議会議事堂やニューヨークのメトロポリタン美術館に影響を与えたとされる。

外敵の侵略に備える城塞としてルーブルが建設されたのは1190年。1546年にフランソワ1世が大改修を行ったのち、1682年にルイ14世がヴェルサイユ宮殿に移るまでフランス国王の居城として用いられた。歴代の王によって拡張が続けられたが、特に熱心な美術品コレクターだったルイ13世とルイ14世が大がかりな増築を施している。

フランス革命期の1793年に、建物全体を美術館とし、フランス美術の名作を収蔵・展示することを決定したのは国民議会だ。近年では、1980年代の改修工事でI・M・ペイによるガラス製のピラミッドが広々とした中庭に設置され、正面玄関として使われている。

古代オリエント美術、古代エジプト美術、古代ギリシャ・エトルリア・ローマ美術、イスラム美術、彫刻、装飾美術、絵画、版画・素描の8部門で構成されるルーブルは、常時3万8000点もの作品を展示している。有名な美術品を一目見ようと、毎年、何百万人もの観光客がここを訪れるが、いざ膨大な傑作の数々を前にすると、いったいどこを見ればいいのか途方に暮れるかもしれない。そこで、ルーブルで必見の美術品を24点ピックアップした。

1. ハンムラビ法典(古代オリエント美術部門)

ハンムラビ法典、メソポタミア(紀元前1792-1750年頃) Photo: Wikipedia Commons/Mbzt

ハンムラビ法典はバビロン第1王朝の第6代君主、ハンムラビ王が紀元前1755年から1750年頃に制定したとされるもので、古代オリエント美術部門に展示されている。法典が刻まれた高さ2.4メートルの玄武岩の石碑は、1901年にイランのスーサ遺跡で発見された。古代オリエントにおける最も長大で、最も体系的で、最も保存状態のよい法律文書として歴史的に重要な意味を持つ所蔵品だ。

石碑上部には、左にハンムラビ王、右に太陽神シャマシュのレリーフが刻まれている。その下には楔形文字で記された4130行の文章があり、「目には目を、歯には歯を」で有名な刑法、家族法、財産法、商法など幅広い法律が記されている。

なお、この石碑のレプリカは、ニューヨークの国連本部やベルリンのペルガモン博物館など、多くの場所に設置されている。

2. コルサバードの有翼人面牡牛像(古代オリエント美術部門)

コルサバードの有翼人面牡牛像、アッシリア(紀元前713-705年頃) Photo: Copyright ©Musée du Louvre, RMN / Thierry Ollivier

紀元前8世紀にアッシリア帝国の王サルゴン2世は、世界最大の都市建設を目指し、新たな首都ドゥル・シャルキン(「サルゴンの要塞」の意)を現在のイラク北部に築いた。その宮殿の門は、全能の象徴とされる一対の有翼人面牡牛像──アラドランムー(守護霊)あるいはラマッス(牛人間)と呼ばれる──で飾られていた。28トンもの巨大な像の胴体と耳は牡牛で、鷲の翼と人間の顔を持ち、白色の鉱石アラバスターの一枚岩に牡牛の正面と側面が彫られている。

紀元前705年にサルゴン2世が戦死すると、この像の守護神としての力に疑いの目が向けられた。さらに、死体が見つからず、呪われたのではないかと考えられたことから、神罰を恐れた息子のセンナケリブ王はニネベへの遷都を決めた。未完に終わった都市コルサバード(ドゥル・シャルキンはコルサバードの古代名)は、イラクのモスルに駐留していたフランス副領事ポール・エミール・ボッタによって、1843年に発掘されている。

ボッタの指揮による発掘調査は、聖書や古代文書でしか知るすべのなかった失われた文明の再発見につながった。有翼人面牡牛像を含むボッタの発掘品はルーブル美術館に運ばれ、1847年5月1日に世界で初めてアッシリアの美術品を置く展示室が公開された。

3. 射手の壁面装飾(古代オリエント美術部門)

射手の壁面装飾、ペルシャ(紀元前522-486年頃) Photo: Copyright ©2015 Musée du Louvre / Thierry Ollivier

世界最古の都市の1つであるスーサは、イラン南西部のザグロス山脈のふもとにある。エラム王国の首都として栄華を誇り、紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシャの首都となって繁栄を続けた。ダレイオス1世(紀元前550年〜486年頃)が、この地に建てた宮殿の壁には、両手に槍を持ち、背中に弓を背負って行進する髭面の射手の横顔を描いた多色レンガの装飾が施されていた。これは、ヘロドトスが「不死隊」と名付けたアケメネス朝の1万人の精鋭部隊だとする説もある。

射手の装飾は、褐色、白色、黄色の釉薬をかけた珪質のレンガでできており、それぞれの色が混ざらないように細いクロワゾン(ワイヤー)で区切られている。1884年にフランス人考古学者のジェーン&マルセル・デュラフォイ夫妻によって発掘され、その後ローラン・ド・メケネムが発掘調査の終盤で発見した20体の兵士像とともにシュリー翼に展示されている。

4. エビフ・イルの像(古代オリエント美術部門)

エビフ・イルの像、シュメール(紀元前2500–2340年頃) Photo: Copyright ©2011 Musée du Louvre / Raphael Chipault

紀元前25世紀のものとされる青い目をした男性像は、祈るような姿勢で座っている。像の背面に原始楔形文字で記された碑文によると、現在のシリア東部にあった古代都市国家マリの代官、エビフ・イルを描いたものだ。

石膏で作られた高さ約50センチメートルの像には、片岩、貝殻、ラピスラズリがはめ込まれている。フランスの考古学者アンドレ・パロが1933年に実施した発掘調査で見つかり、発見当時は頭と胴体が分かれていた。その後、頭部はイシュタル神殿外庭の敷石の上で、胴体はそこから数メートル離れた場所で見つかっている。

5. カロママの像、アメンの神聖なアドラトリス(古代エジプト美術部門)

カロママの像、アメンの神聖なアドラトリス、エジプト(紀元前865-809年頃) Photo: Copyright ©Musée du Louvre / Christian Décamps

エジプトで見つけた最も美しいブロンズ像をルーブルに持っていこう」

これは、フランスの古代エジプト学研究者、ジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790-1832)が、1829年にルクソールのカルナック神殿でこの傑作を発見した直後に記した文章の一節だ。

金、銀、琥珀金を象嵌した高さ約60cmの優美な人物像は、紀元前870年頃に作られたとされる。シャンポリオンは、この女性のモデルはエジプト第23王朝のタケロト2世の妃、カロママ2世だと推測した。しかし今では、タケロト1世の娘で、エジプト第22王朝のオソルコン2世の妃となったカロママ1世を描いたものとされている。

6. タニスの大スフィンクス(古代エジプト美術部門)

タニスの大スフィンクス、エジプト、エジプト第4王朝時代(紀元前2620-2500年頃)またはエジプト第12王朝時代(紀元前1991-1778年頃)と推定される。Photo: Copyright ©Musée du Louvre, RMN / Christian Décamps

紀元前26世紀にまでさかのぼる可能性があるタニスの大スフィンクスは、花崗岩でできた4.5メートルを超える像で、エジプト以外の国で保存されているスフィンクスとしては最大のものだ。古代エジプト第21王朝と第23王朝の首都、タニスのアメン・ラー神殿跡で発見されたが、作られたのはそれよりかなり前の第4王朝(紀元前2620-2500年頃)だとする説もある。

人の顔とライオンの体、ハヤブサの翼を持つ神話上の生き物であるスフィンクスの碑文には、アメンエムハト2世(第12王朝)、メルエンプタハ(第19王朝)、ショシェンク1世(第22王朝)の名が残っている。ルーブル美術館は、1826年にイギリス人エジプト学者、ヘンリー・ソルトの収集品からこのスフィンクスを入手した。

タニスの大スフィンクスは、1828年から1848年まで美術館の中庭(現在の「スフィンクスの中庭」)に展示されていた。その後、1930年代半ばに、建築家アルベール・フェランが方形中庭南側にある2つの部門をつなぐよう設計した地下階に移された。

7. 書記座像(古代エジプト美術部門)

書記座像、エジプト、エジプト第4王朝時代(紀元前2620-2500年頃) Photo: Copyright ©2015 Musée du Louvre / Christian Décamps

白い腰布を巻き、半分丸めたパピルスを膝の上に置いて座る鋭い眼差しの男性像は、ルーブル美術館を代表する美術品の1つだ。エジプトのファラオの多くは、使用人を芸術作品にして永遠の存在に変えようとした。そうすることで、自らの死後も身の回りの世話をしてもらおうと考えていたのだ。

石灰岩でできたこの男性像は、古王国時代の第5王朝(紀元前2450-2325年頃)または第4王朝(紀元前2620-2500年頃)の頃に作られたと考えられている。1850年、フランスの考古学者オーギュスト・マリエットによって、古代エジプトの埋葬地だったサッカラで発見された。

眼光鋭い目には、ロッククリスタル、マグネサイト、銅砒素合金などがはめ込まれている。この像は最近、ルーブル美術館のランス別館から戻ってきた。パリでまた、生き生きとした瞳を覗き込めるようになったというわけだ。

8. サモトラケのニケ(古代ギリシャ・エトルリア・ローマ美術部門)

サモトラケのニケ、古代ギリシャ(紀元前200-190年頃) Photo: Copyright ©2014 Musée du Louvre / Philippe Fuzeau

ダリュの階段踊り場に立つ大理石の優雅な女性像は、翼を持つギリシャ神話の勝利の女神「ニケ」を表したものだ。フランスの外交官で考古学者のシャルル・シャンポワゾが、1863年にエーゲ海北東部のサモトラキ島で発見したもので、島の名前にちなんで命名された。

この像は、紀元前190年頃に海軍の勝利を記念して制作されたと考えられている。当初見つかった110ほどの破片で復元されたが、そのときは頭と手が欠けていた。シャンポワゾは1879年にギリシャを再訪し、見つかっていない部分を探したものの発見には至らなかった。しかし、1875年には薬指の半分が、1950年には手のひらと残り半分の薬指が発見されている。まさに執念の「勝利」と言えるだろう。

9. ミロのヴィーナス(古代ギリシャ・エトルリア・ローマ美術部門)

ミロのヴィーナス、古代ギリシャ(紀元前150-125年頃) Photo: Copyright ©Musée du Louvre, RMN / Anne Chauvet

「ルーブルの三大美女」といえば、ミロのヴィーナスサモトラケのニケ、そしてモナリザだ。サモトラケのニケと同じく腕のないこの大理石の女性像は、1820年にエーゲ海のメロス島で発見され、島の名前にちなんで命名された。発見後すぐに駐トルコフランス大使のリビエール侯爵が購入し、1821年にルーブル美術館に寄贈された。

ギリシャの神々は、通常手に何を持っているかでどの神を表しているかが分かる。しかしミロのヴィーナスは両腕がないため、その識別を困難にしている。当初は海の女神アンフィトリテとされていたが、今は美の女神アフロディーテを象徴するリンゴを持っていたと考えられている。しかし、本当は何者なのかは謎のままだ。

10. 夫婦の棺(古代ギリシャ・エトルリア・ローマ美術部門)

夫婦の棺、エトルリア(紀元前520–510年頃) Photo: Wikimedia Commons / Jérémy-Günther-Heinz Jähnick

一組の夫婦がソファのようなものに横向きに寝そべり、夫が妻の肩に腕を回している。妻は片方の手で夫の掌に香水を注ぎ、もう一方の手には果物を持っているように見える(おそらく永遠を象徴するザクロだろう)。紀元前6世紀のもので、死者の遺灰を入れる棺に施された彫刻だ。

1845年、イタリア中部の古都チェルヴェーテリでの発掘調査でカンパーナ侯爵が発見し、1861年にナポレオン3世がルーブル美術館のために購入した。テラコッタを用いたエトルリア美術の最高傑作と言える。

11. ガビイのディアナ(古代ギリシャ・エトルリア・ローマ美術部門)

ガビイのディアナ、ギリシャ(紀元前4世紀)。彫刻家プラクシテレスによるものとされる。Photo: Wikipedia Commons/Marie-Lan Nguyen

マントの肩の部分をピンで留めようとする女性の何気ないしぐさを捉えた大理石の像が、ローマ近郊のガビイにあるボルゲーゼ公の所有地で1792年に発掘された。発見者は、画家で考古学者のゲーヴィン・ハミルトンだ。ルーブル美術館には、1820年から展示されている。

この女性の着衣は神々しさを示している。大きな袖がついた短い丈のチュニックは、狩猟の神であるギリシャ神話のアルテミス(ローマ神話のディアナ)に見られる典型的な描写だ。紀元前4世紀のギリシャで最も名高い彫刻家、プラクシテレスの作とされているが、それはプラクシテレスの代表作クニドスのアプロディーテや、アポロ・サウロクトノスの特徴と共通点が多いからだ。

ただし、プラクシテレス自身の手によるものかどうか、複数の根拠をもって疑問視する説もある。とはいえ、ガビイのディアナは非常に質の高いプラクシテレス様式の彫像であり、本人または息子の1人が制作したことに疑いの余地はない。

12. アル・ムギーラの小箱(イスラム美術部門)

アル・ムギーラ王子の名が記された小箱、スペイン(968年) Photo: Wikimedia Commons/Marie-Lan Nguyen

「カリフの息子アル・ムギーラに神の祝福とご加護、幸福と繁栄を。神のご慈悲があらんことを。357年作」

この銘文は、ピクシス(*1)と呼ばれる象牙の容器の制作年と贈呈された人物を示している。現在のスペイン、コルドバの近郊にあるマディナート・アル・ザハラの工房で彫られたものと考えられているが、贈り主が誰なのかは分かっていない。成人を迎えた息子への父からのプレゼントだという説もあれば、後を継ぐことのない王子を揶揄したものという説もある。


*1 薬や香水、宝石などを保管するために使用されたもの。

1つだけ確かなのは、この小箱の装飾が非常に洗練されたものであることから、依頼主は大きな権力と富を持つ者だったということだ。鷹の巣から卵を拾う2人の男、木からナツメヤシの房を摘み取る2人の騎手、使用人と思われる人物を挟む2人の座像、ライオンと戦う雄牛などの細工には、高い技量がうかがえる。

13. モンソンのライオン(イスラム美術部門)

モンソンのライオン、スペイン(975-1100年頃) Photo: Wikimedia Commons/G. Garitan

このライオンが純粋な装飾品だったのか、あるいは噴水の美を重要視したムスリム統治時代のスペインで水の噴出口として使われていたのかは分からない。10~11世紀に作られたブロンズのライオン像は、スペイン北部モンソン・デ・カンポスで、画家で服飾デザイナーでもあったマリアノ・フォルトゥーニによって19世紀に発見された。

この動物の背中には、コーランや幸運を願う言葉を記すのに用いられるクーフィー体(アラビア文字の最古の書法)で「完璧な祝福/完全な幸福」という銘文が刻まれている。これ以上、何かを望む者はいるだろうか。

14. レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》(絵画部門)

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》(1503-1519) Photo: Wikimedia Commons/C2RMF

モナリザ》に説明は必要いらないかもしれない。世界で最も多く写真に撮られたに違いない謎めいた微笑を見るために、毎年何百万人もの人々がルーブルにやって来る。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の手によるこの傑作のモデルは、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であるイタリアの貴婦人、リザ・ゲラルディーニだと考えられている。そのため、フランス語ではラ・ジョコンドと言う。

レオナルドがこの作品の制作に着手したのは、1503年または1506年とされる。完成は死の2年前で、1518年にフランス王フランソワ1世が買い入れた。ルーブル美術館の地下にある研究修復センター(C2RMF)で、毎年綿密な検査を受けるのは《モナリザ》だけであることが、その貴重さを物語っている。

15. ヨハネス・フェルメール《レースを編む女》(絵画部門)

ヨハネス・フェルメール《レースを編む女》(1669-1670) Photo: Wikimedia Commons

黄色いボディス(*2)を着けた若い女性が、片手にボビン、片手にピンを持ち、仕事に没頭している。貴族の女性なのか、それともプロのレース職人なのか、この絵の構図には手がかりがない。脇にある本は聖書かもしれないが、背景には何も描かれていない壁があるだけだ。


*2 体にぴったりしたウエストまでの長さの女性用衣服。15世紀にヨーロッパで用いられるようになった。

この肖像画は、オランダの巨匠ヨハネス・フェルメール(1632-1675)が1669年頃に制作したもので、同じオランダの画家、カスパル・ネッチェルの同タイトルの絵とよく比較される。フェルメールの《レースを編む女》は、1696年にアムステルダムのオークションで初めて公開され、1870年にルーブルに収蔵された。

16. ジャック=ルイ・ダヴィッド《皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式》(絵画部門)

ジャック=ルイ・ダヴィッド《皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式》(1806-1807) Photo: Wikimedia Commons

ナポレオンが皇帝になった儀式の様子は、きっとこの通りだったろうと思わせる光景がこの絵には描かれている。ナポレオンは1804年に幅約10メートル、高さ約6メートルの巨大な絵画を依頼し、その制作過程を細かく監督した。当時、首席宮廷画家に任命されたばかりのジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)は、この絵を2年かけて完成させたが、途中でいくつか変更が加えられている。

たとえば、当初ナポレオンは両手を下げていたが、完成した作品ではジョゼフィーヌの頭に載せようと王冠を高く掲げている。また、彼の母親は実際には式典に出席できなかったが、絵では中央に立っている。ナポレオンが自らの威光を示そうとしたこの作品は、1819年に王室コレクションに加わった。1889年にルーブル美術館に移されたのち、ヴェルサイユ宮殿には新古典主義の巨匠ダヴィッド自身による複製が飾られた。

17. ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》(絵画部門)

ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》(1830) Photo: Wikimedia Commons

ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)によるこの象徴的な絵画は、1789年のフランス革命の場面だと誤解されることが多い。しかし実際は、ナポレオン失脚後の王政復古で復活していたブルボン朝のシャルル10世を倒した、1830年のフランス7月革命を称えて描かれたものだ。

黄色い着衣の腰の辺りを紐でしばった女性が、死体の山を超え人々を先導している。左手のマスケット銃からは、彼女の情熱と決意が伝わってくる。右手に三色旗を持ち、フリジア帽(*3)をかぶった姿は、フランスを象徴する女性像、マリアンヌそのものだ。この名画は、現在部分的な修復が行われている。


*3 赤い三角帽。古代ローマに起源があり、解放された奴隷がかぶるものだった。そのため、フランス革命では都市の労働者・下層市民層の自由の象徴として着用された。

18. ミケランジェロ《抵抗する奴隷》《瀕死の奴隷》(彫刻部門)

ミケランジェロ《抵抗する奴隷》(写真左)《瀕死の奴隷》(1513-1515) Photo: Wikimedia Commons/Shonagon

1505年に教皇ユリウス2世がローマのサンピエトロ大聖堂に建てる自分の墓のために依頼した《抵抗する奴隷》と《瀕死の奴隷》は、ミケランジェロ(1475-1564)が1513年から1515年にかけて制作したものだ。ユリウス2世が完成を見ることなく死去したため、ミケランジェロは1546年に友人のロベルト・ストロッツィにこの作品を贈り、その後ストロッツィがフランス国王のフランソワ1世に献上した。

2体の彫刻は、2世紀にわたってエクアン城、リシュリュー城、オテル・ダンタンなどを転々とし、1794年にルーブル美術館に収蔵された。近年行われていた全面的な修復作業が完了し、今はミケランジェロ・ギャラリーに戻って再び来場者を感嘆させている。

19. グレゴール・エアハルト《マグダラのマリア》(彫刻部門)

グレゴール・エアハルト《マグダラのマリア》(1515-1520年頃) Photo: Wikimedia Commons/Leyo

片足に重心をかけて立っているのは、罪深い女性とされるマグダラのマリアだ。マリアは悔い改めた後にイエスの弟子に加わり、言い伝えによると、自分自身の髪以外は何も身にまとわずに残りの生涯を送ったとされる。グレゴール・エアハルト(1470-1540)の手によるこの菩提樹の木彫は、ドイツのアウグスブルグにあるドミニコ修道会で、聖人に捧げる教会のために制作されたと考えられている。

後にドイツの美術商、ジークフリート・レムレのコレクションに収められ、1902年にルーブル美術館に収蔵された。ナチス占領下ではドイツに没収されたが、第2次世界大戦後、返却された。台座と足の前の部分は19世紀に修復されている。

20. ギヨーム・クストー《マルリー宮殿の馬》(彫刻部門)

ギヨーム・クストー《マルリー宮殿の馬》のうち1点(1739-1745) Photo: Wikimedia Commons/Jastrow

彫刻家のギヨーム・クストー(1677–1746)が、カッラーラの白大理石を彫り始めたのは1739年。後ろ脚で立ち上がった馬と、それを押さえようとする馬丁の躍動感を表す彫刻を作るためだ。これは、ルイ15世がマルリー宮殿入口の水飼い場のために注文したもので、後に印象派の画家アルフレッド・シスレー(1839-1899)がその場所を描いている。

1784年にパリのコンコルド広場に移されたこの彫刻は、革命記念日の軍事パレードで損傷を受け、その10年後にミシェル・ブルボンによる複製に取り替えられた。オリジナルはルーブルに収蔵され、現在この彫刻が設置されている「マルリーの中庭」の名前の由来となった。

ロマン派の画家で、数多くの馬を描いたことで知られるテオドール・ジェリコーは、《マルリーの馬》から多くのインスピレーションを受けている。1985年に、この彫刻がもとあったマルリー宮殿の入口にも、ブルボンが手がけた複製が設置された。

21. アントニオ・カノーヴァ《プシュケとクピド》(彫刻部門)

アントニオ・カノーヴァ《プシュケとクピド》(1787-1793) Photo: Wikimedia Commons/Jean-Pol Grandemont

プシュケとクピドの神話は、恋人同士が別れ、厳しい試練を経てついに結ばれるという古典的な物語で、そのクライマックスは、プシュケがクピドのキスで目を覚ます場面だ。イタリア彫刻の巨匠アントニオ・カノーヴァ(1757-1822)は、1787年にウェールズの政治家で美術蒐集家のジョン・キャンベル大佐から、この歓喜の瞬間を描くよう依頼された。のちにナポレオンの義弟でフランス軍の指揮官だったジョアシャン・ミュラの手に渡り、最終的にはルーブル美術館に収蔵されている。

この彫刻のもう1つのバージョンは、1796年にロシアのニコライ・ユスポフ皇太子のために制作され、現在はサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館にある。また、その石膏モデルはメトロポリタン美術館の所蔵品になっている。新古典主義の傑作とされている《プシュケとクピド》だが、恋人たちが再び結ばれる場面の感情表現はロマン派の登場を予感させるものだ。

22. フランス王冠の宝石(装飾美術部門)

ルイ15世(1710-1774)の王冠 Photo: Wikimedia Commons/Cristian Bortes

この王冠は、まさに芸術品に囲まれた芸術品と言えるだろう。というのは、絢爛豪華な展示室自体が、王冠を飾る宝石に勝るとも劣らない芸術的なものだからだ。ここにある宝物類は、ルイ14世の800点に及ぶコレクションの一部で、それを展示するために当時最高の画家、金細工師、彫刻家に命じてルーブル宮殿に「アポロンの間(*4)」と呼ばれる部屋を作らせた。建築家フェリックス・デュバンの指揮の下、1850年に完成した部屋の天井には、ウジェーヌ・ドラクロワが40メートル近い《大蛇の神ピュトンに打ち勝つアポロン》を描いている。


*4 太陽神アポロンにちなむ名前。ルイ14世は太陽王と呼ばれた。

ここで最も古い宝石は、おそらく「コート・ド・ブルターニュ(ブルターニュの海岸)」と呼ばれるスピネル(尖晶石)だろう。1488年にブルターニュ公爵夫人になったアンヌ・ド・ブルターニュが所有していたものだ。また、王室の衣装の装飾に使われていたダイヤモンド「リージェント」、「サンシー」、「オルテンシア」や、ナポレオンの2人目の妻、皇后マリー=ルイーズが所有していたエメラルド類、メノウ、アメジスト、ラピスラズリ、ヒスイなどの彫刻も展示されている。

23. マリー・アントワネットのシリンダーデスク(装飾美術部門)

ジャン=アンリ・リーゼナー作のシリンダーデスク(1784) Photo: Wikimedia Commons/Tangopaso

シリンダーデスク(あるいはセクレタリーデスク)は、1760年頃にルイ15世の家具職人ジャン・フランソワ・オーベン(1721-1763)によって考案された。この画期的なライティングデスクは、円筒の4分の1の天蓋を開け閉めできるもので、天蓋を閉めると内部の仕切りや引き出しを隠すことができる。

1784年、ルイ16世の妃マリー・アントワネットは、ジャン=アンリ・リーゼナー(1734-1806)に命じて、チュイルリー宮殿の新しい居室用にライティングデスクを作らせた。花冠、月桂樹の枝、リボン状の飾り、音楽・絵画・彫刻のアレゴリーなど、さまざまなモチーフがちりばめられたこの見事なデスクは、アマランサス、スズカケ、シタンが材料に用いられ、不運の王妃の洗練された好みを反映している。1901年にルーブル美術館に収蔵された。

24. ナポレオン3世の居室(装飾美術部門)

ナポレオン3世の居室の大客間 Photo: Wikimedia Commons/Daniel Perez Sutil

ナポレオン3世の居室を訪れると、タイムスリップしたような気分になる。金とベルベットで装飾され、品のいい絵画が飾られた豪華な部屋は、1861年に財務大臣だったアシーユ・フールの居室として、真新しいリシュリュー翼に作られた。部屋の落成式では仮面舞踏会が開かれたという。その後も多くの祝宴が催され、皇帝夫妻が出席することも多かった。大きな客間は250人を収容できる劇場にもなる。

パリ・コミューン(パリ市民の自治政府)が樹立した1871年の火災の後、財務省はルーブルにあるフールの居室への移転を余儀なくされ、1989年までここにあった。長い間、この部屋の見学はできなかったが、1993年から一般公開されている。

(翻訳:鈴木篤史、平林まき)

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