専門家おすすめ! NYメトロポリタン美術館の回り方と20の必見作品
ニューヨークのメトロポリタン美術館は、言わずと知れた世界最大級の美術館。略奪文化財の返還問題も抱える同館だが、先史時代から現代まで150万点を超えるコレクションを網羅するには数週間かかるとも言われる。限られた時間で最大限に楽しむ方法を、必見の20作品とともに紹介する。
- 1. 大理石のクーロス像(紀元前590–580年頃)
- 2. 皇太后のマスク(Iyoba)(16世紀)
- 3. ハトシェプスト女王のスフィンクス(紀元前1479–1458年頃)
- 4. ハーモン・アトキンス・マクニール《The Sun Vow》(1899年)
- 5. プリンス・デマー《Portrait of William Duguid》(1773年)
- 6. ジョン・シンガー・サージェント《Mr. and Mrs. I. N. Phelps Stokes》(1897年)
- 7. アデライド・ラビーユ=ギアール《Self-Portrait With Two Pupils, Marie Gabrielle Capet and Marie Marguerite Carreaux de Rosemond》(1785年)
- 8. ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス《フアン・デ・パレーハの肖像》(1650年)
- 9. アスター・チャイニーズ・ガーデン・コート(明代)
- 10. 天上の踊り手(Devata)(11世紀中頃)
- 11. アラビア語が記された鉢(10世紀)
- 12. 『集史』より《ヨナとクジラ》(1400年頃)
- 13. フィンセント・ファン・ゴッホ《麦わら帽子をかぶった自画像》(1887年)、裏面は《ジャガイモの皮をむく農婦》(1885年)
- 14. マヤのチャーク像(9世紀)
- 15. イサム・ノグチ《クーロス》(1945年)
- 16. ケリー・ジェームズ・マーシャル《Untitled (Studio)》(2014年)
- 17. トーマス・ハート・ベントン《America Today》(1930-31年)
- 18. 陶芸家デーブ(デビッド・ドレイク)、貯蔵瓶(1858年)
- 19. ヨハネス・フェルメール《水差しを持つ女》(1662年頃)
- 20. レンブラント・ファン・レイン《自画像》(1660年)
これから紹介する見どころリストは、NYマンハッタンのフィフスアベニューに沿ったメトロポリタン美術館(以下、MET)の、81丁目にある入口から入場した場合を想定して構成されている。実はすでにMET攻略のコツがここにあるのだが、82丁目にある正面玄関から1ブロック南に向かうと道路と同じ高さのところに何の変哲もない黒いドアが見える。あまり目立たないが、こちらもれっきとした入口で、正面入口よりはるかに空いているので時間が節約できる。METのマネージングエデュケイター、キャシー・ガリッツも、「ここはMETでも有名な公然の秘密」だと言う。
リストアップされた中には、必見の人気作品に加え、METの専門家が厳選した見落とされがちな名作も含まれているので、ぜひ参考にしてほしい。もちろん、時間の許す限り見たい作品を見たい順に回るのもいいだろう。いずれにしても、鑑賞に夢中なあまり自分がどこにいるか分からなくなったら、METのオンラインマップで場所をチェックしてみよう。
各美術品の紹介に入る前に、METが所有する文化財には来歴に問題のあるものが少なくないこと、また、近年盛んになっている本国返還運動が、法的な面でもより一層加速している事実を認識しておきたい。この問題については、「問題だらけのメトロポリタン美術館による略奪文化財返還。来歴の怪しい古美術品も多数」に詳しくまとめられている。
では、見どころツアーを始めよう。81丁目の入口を入って階段を上がると、そこはギリシャ・ローマ美術セクションだ。
1. ギャラリー154:大理石のクーロス像(紀元前590–580年頃)
2500年以上前の作品でありながら、アテネの美青年、クーロスの2メートル近い大理石像は驚くほど状態がいい。像の乳首の部分にはいくらか彩色が残っており、この彫刻が、かつて鮮やかに彩られていたことを示している。なお、METで3月26日まで開催中の「Chroma: Ancient Sculpture in Color」展では、彩色された古代ギリシャ彫刻が多数展示されている(参考:古代ギリシャ彫刻はカラフルだった! メトロポリタン美術館の展覧会で覆される「白さの神話」)。
実は、クーロス像には驚くべき工学的秘密が隠されている。通常この時代に作られた彫像は、大理石の一枚板から彫られたり、大理石版で支えられたりしている。しかし、重量1トンものMETのクーロス像は、わずかに開いた2本の脚でうまくバランスを取っているのだ。このポーズは、エジプト美術からヒントを得たと考えられている。クーロス像は、後でまた登場するので覚えておいてほしい。
2. ギャラリー136:皇太后のマスク(Iyoba)(16世紀)
ギリシャ・ローマ美術セクションの近くには、サハラ以南のアフリカやオセアニア、アメリカ大陸の美術品を集めたギャラリーがある。もともとMETのロックフェラー・ウィングに展示されていたものだが、現在同ウィングが大規模改修工事中のため、こちらに移動されている(ロックフェラー・ウィングは2025年に再オープン予定)。
ここでの見どころは、16世紀初頭のベニン王、オバ・エシギのために作られた精巧な象牙のマスクだ。ほぼ同じ型のマスクがイギリスの大英博物館にも所蔵されており、儀式の際に着用したものとされる。MET所蔵のマスクは、オバ・エシギの母、イディアの死後にその表情を模して作られたと考えられている。
2つのマスクはイギリスによるベニン王国侵略の際に略奪された文化財で、その来歴はMETの目録にも記載されている。略奪品は「ベニンブロンズ」と呼ばれ、各国の文化財返還運動のきっかけとなった。METも2022年に、3点のベニンブロンズをナイジェリア当局に返還している。返還された文化財は、2025年にナイジェリアに完成する美術館、Edo Museum of West African Artに展示される予定だ。
3. ギャラリー131:ハトシェプスト女王のスフィンクス(紀元前1479–1458年頃)
次に、METの目玉展示の1つ「デンドゥール神殿」へ進もう。しかし、注目してほしいのは神殿そのものではなく、横にあるスフィンクスだ。ファラオの権力を示す頭巾と付け髭を付けたスフィンクスの胸に刻まれたヒエログリフによると、この像が描いているのは、実は男性ではなく、20年の治世中にエジプトを繁栄に導いたハトシェプスト女王だ。
このスフィンクスはMETが複数所蔵するハトシェプスト像の1つだが、ハトシェプストは女性の姿で描かれる場合も、男性の姿で描かれる場合もある。古代エジプト美術のセクションには、テーベ郊外にあるハトシェプストの霊廟側面に彫られた像のほか、祈りを捧げている彫像やスフィンクスなどが展示されている。
4. ギャラリー700:ハーモン・アトキンス・マクニール《The Sun Vow》(1899年)
デンドゥール神殿から奥に進むと、アメリカ美術のセクションにたどり着く。METを象徴するアメリカン・ウィングのアトリウムに展示されているのは、かつてマディソン・スクエア・ガーデンの屋上にあったオーガスタス・サン=ゴーデンスの彫刻《ディアナ》(1894)だ。そこを通り過ぎたカフェの近くに、ハーモン・アトキンス・マクニールの作品がある。
《The Sun Vow》は、ネイティブアメリカンの若い青年が太陽に向かって弓を放ち、やはりネイティブアメリカンの老人が、若者の肩ごしに矢の方向を見つめている彫像だ。彼らの「伝統」によれば、太陽に放たれた矢を老人が見失えば少年は成人したことになる。しかし、先住民のトリンギット族出身のアーティスト、ジャクソン・ポリスが作品の説明板に記しているように、実際にはそんな伝統は存在しない。
マクニールは、《The Sun Vow》のストーリーを創作したのかもしれない。あるいは、1893年のシカゴ・コロンブス万国博覧会で提示されていた、誤った先住民像を鵜呑みにしたのかもしれない。事実、マクニールの作ったこの像は、アメリカ先住民の現実ではなく、彼が奨学金でローマ留学して学んだ古典彫刻の技法に根差している。人物のポーズや、少年の性器を不自然に覆い隠すイチジクの葉(シカゴ美術館にある彼の初期作品には見られなかった)などから、その影響が見て取れる。
アトリウムを見終わり、必要ならカフェで少し休憩した後は2階へ向かおう。階段は、1893年に完成したアドラー&サリバン設計のシカゴ証券取引所ビルから引き取られたものだ。昇りきったところでは、ルイス・C・ティファニーによる美しいステンドグラスの3連画《秋の風景》が堪能できる
5. ギャラリー747:プリンス・デマー《Portrait of William Duguid》(1773年)
ロバート・ジョイスの18世紀の時計と同じ部屋にあるこの小ぶりな肖像画は、見逃しがちだがMETでも特筆すべき作品だ。作者のプリンス・デマーは、アメリカが欧州諸国の植民地だった時代を絵で記録した唯一の奴隷出身アーティストとして知られている。奴隷主ヘンリー・バーンズと同じ姓で、プリンス・デマー・バーンズと名前を記されることもあるが、イギリス支持者だったバーンズ家が独立戦争前にボストンからロンドンに逃れた後は、その姓を捨てたという。
この肖像画は、一種の広告のようなものと見られている。描かれているのは、繊維商人のWilliam Duguidで、おそらく自らの製品であろう豪華な刺繡のローブを身にまとい、皮表紙の蔵書の前に腰かけている。この作品は、アメリカ独立の機運を匂わせるものでもある。こうした肖像画は、アメリカに入植した人々の事業や富、博学さをイギリス帝国に誇示するためのものだったからだ。実際、この作品が作られた1773年には、独立戦争の発端となったボストン茶会事件が起きている。デマーはバーンズ一家がロンドンに去った後もアメリカに残り、マサチューセッツ州の民兵になったが、1778年に原因不明の病気で死亡した。
6. ギャラリー771:ジョン・シンガー・サージェント《Mr. and Mrs. I. N. Phelps Stokes》(1897年)
ジョン・シンガー・サージェントの《マダムXの肖像》(1983–1984)は、ピエール・ゴートロー夫人の官能的な姿が初公開時に騒動になった作品だが、ここで注目したいのは、その右側にある2人の人物の肖像画だ。
この肖像画はストークス夫妻の結婚式の記念品として制作を依頼されたものだが、当初は男女2人を描く予定ではなかった。サージェントは飼い犬のグレートデンを連れたストークス夫人を描こうと考えていたが、グレートデンがモデルにならなくなり、夫が代役を申し出たという。その結果、まだ婦人参政権がなかった時代のアメリカ女性が、どこかコミカルに、そして意図せずして進歩的な姿で描かれることになったのだ。
ストークス夫人がモデルになった作品は他にもある。ダニエル・チェスター・フレンチが1893年のシカゴ・コロンブス万国博覧会のために制作した、金色に輝く20メートル近い巨大立像《The Republic》がそうだ。ちなみに、この立像の3分の1サイズのレプリカが、同万博が開かれた現在のシカゴ・ジャクソン公園近くに設置されている。
7. ギャラリー616:アデライド・ラビーユ=ギアール《Self-Portrait With Two Pupils, Marie Gabrielle Capet and Marie Marguerite Carreaux de Rosemond》(1785年)
次は、ヨーロッパ美術のセクションへ行こう。新古典派を代表する画家、ジャック=ルイ・ダヴィッドの《ソクラテスの死》(1787)がこのセクションの目印だ。
そこから奥へ進むと、ラビーユ=ギアールが2人の女生徒を指導している様子を描いた作品がある。ラビーユ=ギアールは、当時フランスの王立絵画彫刻アカデミー会員になることを認められた数少ない女性作家の1人だ。現代のフェミニズムの観点では、この作品は、フランスの上流階級で芸術家になる女性を増やそうという主張を表現したものと解釈されている。
8. ギャラリー617:ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス《フアン・デ・パレーハの肖像》(1650年)
ギャラリー617に入ったとたん目を奪われるのが、METが所蔵する中でも最重要絵画の1つに数えられるベラスケスの作品だ。この絵のモデルとなったアフロ・ヒスパニック系の奴隷、フアン・デ・パレーハが、いつベラスケス工房の助手になったかは分かっていない。ベラスケスは1650年初めにローマでこの肖像画を制作し、たちまち高い評価を受けている。METは1970年に約550万ドルでこの作品を落札し、当時の最高落札額の記録を塗り替えた。
ベラスケスは1654年にスペインに帰国すると、パレーハを奴隷の身分から解放した。そのときの文書も残されている。なお、自身も画家として活動したパレーハの作品と、同時代の作家を集めた展覧会が、4月3日からMETで開催される。
9. ギャラリー217:アスター・チャイニーズ・ガーデン・コート(明代)
紀元前2世紀の漢代に作られた舞を舞う女性の陶俑から、イサム・ノグチがMETのコミッションで制作した《Water Stone》(1986)まで、アジア美術セクションには数々のすばらしい美術品がある。展示を見て回って疲れた足と頭を休ませたいなら、おだやかな空気が流れるこの場所で一息ついてはどうだろうか。
17世紀の明の様式を参照したアスター・チャイニーズ・ガーデン・コートは、円形と長方形のアーチ、ごつごつした太湖の岩となめらかな花崗岩の彫刻、ゆるやかな水の流れと乾いた石など、補完し合いながらも対照的な陰陽の精神を取り入れて作られている。精緻な瓦葺きの屋根もこの時代の特徴で、雨水が絶妙な間隔で流れ落ちるよう設計されている。美術館の屋根の下では、雨水が滴るところはそうそう見られそうにないが。
10. ギャラリー241:天上の踊り手(Devata)(11世紀中頃)
アジア美術セクションを進んでいくと、緻密に細工された砂岩の彫刻がある。これは、インド中央部にある現在のマディヤ・プラデーシュ州の寺院に飾られていたものとされ、体を捻ったその形は、舞踊について書かれたサンスクリット語の経典『ナーティヤ・シャーストラ』に記された踊りのポーズと一致する。ヒンドゥー教の神々の前で踊るこの等身大の彫刻は、手足がなくても生身のダンサーのようなエネルギーと動きを感じさせる。
11. ギャラリー450:アラビア語が記された鉢(10世紀)
グレートホールのバルコニーを通り抜けてイスラム美術セクションに入ると、2つの重要な展示物がある。1つ目は、サーマーン朝時代にイラン北東部で作られた陶器の鉢で、造形的な技巧だけではなく、内側の縁に沿って刻まれた装飾的なアラビア文字にも目を見張るものがある。この「新様式」のアラビア文字は、「計画を立ててから仕事をすると後悔しない。それは繁栄と平和をもたらす」という意味である。
12. ギャラリー455:『集史』より《ヨナとクジラ》(1400年頃)
イスラム美術セクションの2つ目の見どころは、モンゴル帝国の歴史書に関連したものだ。「最初の世界史」とも呼ばれる『集史』は、モンゴル帝国の時代にイル・ハン国(1256-1335)の宰相、ラシード・アッディーンを中心に編纂された。モンゴル帝国の視点から見た歴史を記録した3巻からなるこの書は、数百人もの書家と挿絵画家を動員して完成したという。
紙に描かれた《ヨナとクジラ》は、現存する『集史』からのものではない。無名の挿絵画家が、『集史』の中で最も人気のある物語の1つ、「ヨナとクジラ」を視覚的に表現したものだ。この絵が装飾品以外の目的で制作されたかどうかは明らかになっておらず、朗読や語りの際に使用されたのではないかという説もある。
この絵には、『集史』の挿画と同じく、ヨナがクジラの腹から出てきたところが描かれている。右上から飛んできた天使がヨナに服を与え、頭の上には霊的な保護を象徴する瓢箪の蔓が天蓋を作っている。ヨナの腕には、「太陽の円盤は闇に入り、ヨナは魚の口に入った」という意味の文字が刻まれている。
13. ギャラリー825:フィンセント・ファン・ゴッホ《麦わら帽子をかぶった自画像》(1887年)、裏面は《ジャガイモの皮をむく農婦》(1885年)
19世紀・20世紀初頭のヨーロッパ美術セクションには、オーギュスト・ロダンの彫刻(ギャラリー800)、クロード・モネの絵画(ギャラリー819)、その他の印象派(ギャラリー822)、パブロ・ピカソの1906年の作品《ガートルード・スタインの肖像》(ギャラリー830、近代・現代セクションへの途中にある)など、METが誇る著名な美術品の数々が展示されている。
ファン・ゴッホによるカンバスの両面に描かれた作品も見逃せない。印象派の作品に出会ってから彼の画風は一変したが、ここでは、その変化がいかに速かったかが見て取れる。ファン・ゴッホは、《ジャガイモの皮をむく農婦》のような陰鬱な日常の光景を描くのをやめ、裏面に描かれた自画像のように、色彩に溢れた夢のような情景を激しいストロークで表現するようになった。2つの作品がわずか2年の間に制作され、ほんの1ミリのカンバスを隔てて存在するのは驚くべきことだ。
14. ギャラリー999:マヤのチャーク像(9世紀)
この彫像は、METで最近開催された2つの展覧会、「Crossroads: Power and Piety」と「Lives of the Gods: Divinity in Maya Art」で展示されたもので、巨大な二枚刃の斧で天を打ち、雷と稲妻を起こす雨の神「チャーク」を表している(残念ながら、斧の部分は経年劣化で失われている)。高さは2メートルを超え、最初に見たギリシャのクーロス像よりさらに大きいが、大理石ではなく石灰石でできているため、さほど重くはない。1000年以上前に制作された当時、王宮の建物の壁に取り付けられていたとされるこの像は、険しい表情で中に入る者を威嚇していたに違いない。
15. ギャラリー919:イサム・ノグチ《クーロス》(1945年)
ジャクソン・ポロックの大作《秋のリズム:ナンバー30》と同じ展示室に、イサム・ノグチ作の抽象的な彫刻、《クーロス》がそびえ立っている。この作品は、最初に見た古代ギリシャのクーロス像から直接インスピレーションを受けたものだ。ジョージア産のピンク色の大理石を使って第2次世界大戦直後に制作され、2本のピンでバランスよく固定されているところには、古代のクーロス像と同様、卓越した技術が示されている。
アテネの経済や文化が栄え始めた頃に作られた古代のクーロスとは異なり、大量虐殺、核戦争、戦勝国による占領などを経た時代のノグチの作品は、来るべき世界に対する深い不安を体現している。彫刻の一部はギリシャのクーロス像の脚のように見えるが、いったいどこへ向かって踏み出そうとしているのだろうか。
16. ギャラリー915:ケリー・ジェームズ・マーシャル《Untitled (Studio)》(2014年)
ケリー・ジェームズ・マーシャルの《Untitled (Studio)》には、視覚的な引用や暗示が溢れている。たとえば、テーブルの上の頭蓋骨標本は、オランダ絵画における「メメント・モリ(死を想え)」の伝統に呼応する21世紀的な表現だと解釈してみてはどうだろうか。皿に乗ったピンク色のケーキの歪んだパースペクティブはセザンヌ的だし、イーゼルの後ろにいる男性ヌードモデルのリラックスしたポーズは、片足に重心をかけた古典的なコントラポスト(ギリシャ彫刻でよく見られる体の左右が非対称のポーズ)の立ち方だ。
《Untitled (Studio)》には、マーシャルが学生時代の見学旅行で、ロサンゼルスを拠点とするアフリカ系アメリカ人の画家、チャールズ・ホワイトのスタジオを訪れたときのことが反映されているという。後に彼は、カルチャー誌のThe Paris Reviewに、当時の体験を書いている。
「私の目の前に、巨匠たちの秘密とも言うべきものがあった。描きかけのドローイングの隣に完成した作品があり、まだスケッチ段階のものもあった。その瞬間、アーティストは決して魔法使いではないことが分かった。彼らの仕事は魔法のように見えるかもしれないが、実際はさまざまな知識を持ち、表現を規定する原理を深く理解し、思い描いたイメージを効果的に表現するのに必要な労力を惜しまない意思を貫くことで達成される」
《Untitled (Studio)》には、そのときのマーシャルの感情の記憶が呼び起こされている。1枚のカンバスの中に、影響を受けた美術史上の作家たちと、目的意識や技術、気品をもって黒人の生活を描いたチャールズ・ホワイトのような画家たちへの敬意が表現されているのだ。
17. ギャラリー909:トーマス・ハート・ベントン《America Today》(1930-31年)
トーマス・ハート・ベントンの《America Today》は、ニュースクール大学(ニューヨーク)の役員会議室のために制作された壁画だ。10枚のパネルには、彼のキャリアを特徴付ける地域主義や労働者賛美の精神が描かれている。たとえば、「Steel」というパネルにはゆったりした白いタンクトップ姿で働く労働者が描かれ、その顔は炉の光で明るく照らされている。このモデルが誰かというと、ニューヨークの美術学校、アート・スチューデンツ・リーグでベントンの生徒だった18歳のジャクソン・ポロックだ。
ベントン自身も「City Activities With Dancehall」のパネルの右下の隅にこっそり登場している。眼鏡をかけたニュースクール大学の共同創立者アルビン・ジョンソンと、袖をまくり上げてグラスを傾けているのがベントンだ。壁画の出来栄えがいいので、酒を酌み交わしたくなったのかもしれない。
18. ギャラリー955:陶芸家デーブ(デビッド・ドレイク)、貯蔵瓶(1858年)
デビッド・ドレイクが作った容量約94リットルの貯蔵瓶を含む器の数々が、現在、ギャラリー955で開催中の展覧会「Hear Me Now: The Black Potters of Old Edgefield, South Carolina」で展示されている(2月5日まで)。ちょうど、18世紀のバリャドリード大聖堂聖歌隊の仕切り格子の向こう側にあたる場所だ。
ドレイクは、1800年または1801年に、奴隷としてサウスカロライナ州エッジフィールドで生まれた。陶土が豊富なエッジフィールドでは、奴隷労働に依存した陶器製造が盛んだった。ドレイクの作品は、1800年代半ばに同地で数多く生産されていたアルカリ釉の陶器だが、自分の技術に誇りを持っていた彼は、よく作品にファーストネームを入れていた(奴隷にとっては危険な行為だが)。そのことから、彼はDave the Potter(陶芸家デーブ)と呼ばれるようになった。
ドレイクの作品は、瓶の外側に文字が刻まれているのが特徴だ。たとえば、この貯蔵瓶には「オレンジバーグでバーを経営しているセグラーさんへ/紳士的なエドワーズさんのために/トスさん、ベーコン、馬/1858年4月21日/この瓶に豚肉や牛肉を詰めると/スコットがやってくる、平和を得るために/デーブ」とある。
ドレイクは、短い期間ではあったが自由を手にすることができたようだ。1870年の国勢調査には「デビッド・ドレイク」と記録されていたが、10年後に行われた国勢調査に彼の名前はない。
19. ギャラリー964:ヨハネス・フェルメール《水差しを持つ女》(1662年頃)
METはオランダを代表する画家たちの作品を所蔵していることで有名だが、《水差しを持つ女》は、アメリカの美術館の所蔵品となった初のフェルメール作品だ。テーブルクロスや青い布のドレープが真鍮の水差しと水盤に映りこんでいる様子や、部屋の中に入り込む柔らかい光をフェルメールがどう表現したか、ここでぜひ堪能してほしい。
20. ギャラリー964:レンブラント・ファン・レイン《自画像》(1660年)
レンブラントがこの自画像を描いた頃、かつて一世を風靡した彼はどん底の状態にあった。最愛の妻で、ミューズでもあったサスキアが36歳で他界し、さらに破産した彼は、債権者の取り立てをしのぐために自宅や財産のほとんどを競売に出している。レンブラントは、その後も10年近く生き、さらに5点の自画像を描いたが、この自画像からは彼が転換期を迎えていたことが分かる。彼の最盛期はすでに終わっていたのだ。
この自画像のレンブラントは、苦悩しているというのは言い過ぎかもしれないが、生々しい描写なのは確かだ。皺が刻まれた顔、灰色の髪、頬は伸びかけの髭で青みがかり、無念そうな表情をしている。今の私たちには想像できない、後の世にレンブラントの作品が残るかどうか確かではなかった時代を垣間見ることができる。(翻訳:鈴木篤志、平林まき)
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