今、最もパワフルな画家、オスカー・ムリーリョ。最新展覧会レビュー
オスカー・ムリーリョは、1986年コロンビアのラ・パイラ生まれ。ロンドンで美術を学び、主に大型の絵画を制作している。2015年に第56回ヴェネチア・ビエンナーレに参加、19年には他の3人のアーティストとともにターナー賞を受賞、世界各地の美術館で個展が開催されるという勢いのある若手作家だ。日本でも21年に、森美術館とタカ・イシイ・ギャラリーで個展が行われた。そのムリーリョの最新展覧会を、評論家で美術史家のデル・オブライエンがレビューする。
ミズーリ州のセントルイス美術館で開催されている「Currents 121: Oscar Murillo(潮流 121:オスカー・ムリーリョ)」(8月28日まで)では、2つの展示室の壁を埋め尽くすように7枚の巨大な絵が掛けられている。何層にも塗り重ねられた絵の具は、まるで堆積物のようだ。画面のほとんどの部分に顔料が厚く塗られ、落書きのような黒や鮮やかな色彩が、鈍く平坦な色面の上にたたきつけられている。また、絵の具の量感を強調するかのように、厚塗りされた顔料の塊から、くしゃくしゃとした素材の断片が飛び出しているところもある。
展示されているシリーズのタイトルは「manifestation(マニフェステイション)」。この言葉には、「政治的示威運動」と「内側に隠されていた、あるいは、不明瞭だったものの顕在化」という2つの意味がある。本展のコンセプトや、このシリーズに関するプレスリリースによると、ムリーリョの作品は両方の意味を表現しようとしているようだ。絵の表面を覆う攻撃的な筆跡は、作家の個人的な心の揺れ動きの印であり、政治的に不安定な今という時代の視覚的なメタファーであろうとしている。しかし、ここに展示されているほとんどの作品では、筆跡が放つ圧倒的な存在感と意図されたメタファーを結びつけるための、統一的な焦点や構成の妙が欠けている。
自分はフォルムを造り出すことはしないと語るムリーリョは、自分自身を情動の記録者だとみなしている。「絵画の中に形を作り出す」ことは「ブルジョワ的」だと言い、その代わりに「自分の身体的エネルギーと感情を、カンバスの上に猛烈な勢いでダウンロードする」ことを試みる。
こうしたアプローチは、一見、抽象表現主義の影響を思わせる。だが、ムリーリョ自身によれば、イリュージョンを作り出すための道具として絵の具を用いるのではなく、素材として用いるのは、ヤニス・クネリス(*1)の影響だという。ムリーリョは1つ、また1つと筆跡を重ねる。そして、それぞれの筆跡で身体の動きを暗示し、それを「事実」として存在させようとする。つまり、筆跡は彼の精神状態や肉体的運動を表現するものではなく、記録するためのものなのだ。
*1 1936年ギリシャ生まれの画家・彫刻家。1960年代のイタリアの前衛芸術運動、アルテ・ポーヴェラの主要作家の1人。「貧しい芸術」を意味するアルテ・ポーヴェラでは、新聞紙、木材、石、鉄などが多用された。
ムリーリョの作品が成功しているのは、クネリスのように事実性や反フォルムを達成しているからではない。むしろ、フォルムを廃そうとした結果、偶然に表出したフォルムがそれを否定しようとする動きと興味深い形で相互作用を生んだ時だ。それが分かりやすいのは、言葉を書き込んだ初期の絵画だろう。2011年の《Untitled (Drawing Off the Wall)(無題〈突飛な絵〉)》では、スペイン語の「pollo(ニワトリ)」という言葉の隣に2つの黒い絵の具の塊を並べている。何の記号性もない絵の具の塊が、明確な意味を持つpolloと唐突に隣り合っていることから、この絵の具はニワトリと何か関係があるのだろうか? というような思いを抱かせる。と同時に、polloという言葉は、単なる線に過ぎないようにも思えてくる。
セントルイス美術館に展示された3枚1組の「manifestation(マニフェステイション)」シリーズ(2020-22)。カンバス、リネン、油彩、オイルスティック、グラファイト、スプレー塗料。約213×1189cm Courtesy Oscar Murillo
今回展示されている「manifestation」シリーズの絵がいまひとつ弱いのは、こうした緊張感を手放してしまっているからだ。ムリーリョの動きに勢いがあることは間違いない。だが、それが作品全体を通して伝わってくることはほとんどない。どの作品でも、勢いよく塗り付けられた太い線や重量感のある塊からなる大きな黒い混沌が、カンバスのどこかに溜まっていたり、画面を覆っていたりする。そして、そこに重なるようにして、あるいは、取り囲むようにして、同じように描き殴られ拡散された色彩の筋がある。また、このシリーズのために再利用されたカンバスに元々描かれていた、落書きのような細い線がのぞく部分もある。
各作品で存在感を放っている黒い部分は、その大きさ、密度、強烈なエネルギーで、他のフォルムの性質や配置を調整する構成上の核となり得る強さがある。にもかかわらず、黒はそうした役割を担う代わりに、ほかのフォルムには無頓着な様子で作品全体をジグザグに動き回ったり覆いかぶさったりする。同様に、ほかのフォルムも互いに関係なくバラバラに形を変えていく。まるで、別々の放送局にダイアルを合わせた何台ものラジオが同時に鳴っているようだ。そのため、筆跡の集まりは密集しながらも、それぞれが孤立しているように見える。結果として、筆遣いの紛れもない身体的な直接性とは相反する、様式的なよそよそしさが感じられるのだ。
ある作品では、画面の右上からカンバスの縁に沿って、黒い筆跡が降りてくる。くすんだ赤い色の上から始まって、ほとんど何も塗られていない部分、グチャグチャの走り書き、スクリーンプリントされた花の形、色とりどりの面が隣り合わせに並んだ部分の上を通っていく黒い筆跡は、さまざまな要素に反応して形や勢いを変えることなく、単にそれらの上に重ねられている。シンプルな重ね塗りは、言葉を使ったシリーズではムリーリョの作品に生気を吹き込む重要な要素だった。だが、「manifestation」シリーズの作品からは、絵の具の持つ圧倒的な存在感を、「政治的示威行動」という、より大きな彼の芸術的意図につなげるための感性、要素同士が反発し呼応する感覚が伝わってこない。
別の作品では、ブロック体でpowerという言葉が大きく書かれているが、上から黒で厚く塗り込められ、ほとんど見えなくなっている。その結果、隠喩としてではなく、文字通り意味を指し示す力(パワー)が、画面内の配置によって奪われてしまった。このシリーズでは、フォルムを退けようとする試みが失敗した結果、逆説的にフォルムが極端に強調されている。そしてそのフォルムは、単に平面上に並置された、重なり合う形と線でしかない。
こうした問題に陥らずに済んでいる作品が1つだけある。その絵では、筆跡同士が対立し、それぞれが画面の前面に出るために競い合っているようだ。中心的な存在として鮮やかなオレンジの球があり、それに圧倒されたかのような赤い斑点が濃くて暗い領域へと後退していく。ところどころに透けて見える何も塗られていないカンバス地は、消耗したように見え、まるで画面上で起きていることを支える足場そのものがあっさりと崩れ落ちてしまうのではないかと思わせる。ムリーリョが絵の中に記す筆跡は、このような相互作用の中でこそ、初めて本物の衝突を繰り広げることが出来るのだ。(翻訳:野澤朋代)
※本記事は、Art in Americaに2022年8月15日に掲載されました。元記事はこちら。