NYの金融街はかつて気鋭アーティストたちの実験場だった──土地の固有性がアメリカ美術に与えた影響

20世紀半ば、マンハッタンのはずれにある小さな通りに気鋭のアーティストたちが集まった。この場所が、なぜ当時の一大潮流だった抽象表現主義を超えるアートを目指した若者たちを惹きつけたのか。

コエンティーズ・スリップのスタジオで制作を行うエルズワース・ケリー(1961年撮影)。

マンハッタン南端のロフト街に集まった芸術家たち

アートにおいて、場所の固有性はどのような役割を果たすのだろうか? ある場所が、単なる土地ではなく一種の象徴となり、単なる特徴ではなく1つの文脈となるのはどういう場合なのか──これが美術史家のプルーデンス・パイファーが最近出版した『The Slip: The New York City Street That Changed American Art Forever』(ザ・スリップ:アメリカ芸術を永遠に変えたニューヨークのストリート/以下、『The Slip』)の大きなテーマだ。

1950年代から60年代にかけて、マンハッタンの南端、現在はウォール街を含む金融街として知られる地区にあるコエンティーズ・スリップという通りを中心とした3ブロックほどのエリアに、芸術家たちが間を置きながらも次々と移り住んだ。『The Slip』が描いているのは、この時代にここに住み着いたアーティストたちの生き生きとした群像劇だ。

コエンティーズ・スリップという通りは、かつてニューヨークのダウンタウンの沿岸部にいくつも存在した「スリップ」(船の停泊や修理のために造られた人工の入江)に由来する。港から内陸へと切り込んでいた入江は、漁船や貨物船の荷下ろしや、船員の移動をしやすくするためのものだった。しかし、多くの船が出入りし、海運の要衝として栄えた時代の活気は、20世紀半ばにはすっかり失われていた。コエンティーズ・スリップは抜け殻になりつつあったが、そこに引き寄せられたのが芸術家たちだった。彼らの目当ては、空室となっていた広大な産業用ロフト。こうした物件は家賃も安く、住居兼仕事場として使うのにぴったりだからだ。ただし実際には、ゾーニング法(*1)により、産業用ロフトに居住することは禁止されていた。


*1 地区ごとに土地や建物の用途や高さなどを規制する都市計画法。

1974年、このエリアに光を当てた初の試みが行われた。それは、近隣のウォーター・ストリートにあったホイットニー美術館のダウンタウン別館で開催された展覧会「Nine Artists/Coenties Slip(9人のアーティスト/コエンティーズ・スリップ)」で、この地区に住み着いた最初のアーティストであるフレッド・ミッチェルや、アン・ウィルソン、チャールズ・ヒンマンなど、さほど知名度が高くない作家のほか、ロバート・インディアナ、エルズワース・ケリー、アグネス・マーティン、ジェームス・ローゼンクイスト、レノア・トーニー、ジャック・ヤンガーマンなど、戦後のアメリカ美術を代表するアーティストたちの作品も展示された。

この展覧会は、コエンティーズ・スリップのロフトを守ろうという当時のアート界の動きを受けて企画されたものだったが、彼らがそこに住み始めてから間もなく、再開発のために古い街並みの取り壊しが始まり、70年代初頭にはほとんどのロフトが解体されていった。

展覧会の開催から数十年の間に個々のアーティストについての研究が進み、コエンティーズ・スリップにいた時期に各々の活動がどう発展していったのかが明らかになっている。しかし、それはあくまでも断片的な記録であり、アーティストたちがこのエリアに集住していた事実が、目立たない形ではあるものの大きなインパクトを及ぼしたことについて、包括的に理解しようとする試みはこれまでほとんどなされてこなかった。

その理由についてパイファーは著書の冒頭で、「(スリップの)アーティストたちは、芸術運動や流派を形成することもなく、神話的なグループとして信奉されることもなかった」と説明している。また、別の章では、「彼らの作品を、1つのムーブメントとしてまとめることは難しく、それぞれの作家が持つ影響力は必ずしも同じではなかった」と書いている。

コエンティーズ・スリップ25番地のビルの外に立つロバート・インディアナ(1965年撮影)。Photo: Courtesy RI Catalogue Raisonné LLC and Star of Hope Foundation, Maine/©2023 Morgan Art Foundation Ltd.

場所性を基準にした斬新なアプローチ

パイファーが指摘している通り、従来の美術史や美術批評では「次々に生まれる芸術運動の連鎖という形でしかアートは発展してこなかった」と考えてしまいがちだ。そして、スリップのアーティストたちは、美術史の系統図において1つのネットワーク、あるいはコミュニティとして捉えられてこなかった。ペイファーは、こうした既存の見方を覆し、新鮮な歴史学的アプローチで新たな物語を見出したのだ。著書で彼女はこう問いかけている。

「美術史においてアーティストを分類する際に、場所を基準に考えるとしたら? 技法やスタイルではなく、特定の場所にある固有の精神が決定的な意味を持つとしたら?」

インディアナ、ケリー、マーティン、ローゼンクイスト、トーニー、ヤンガーマン、そして女優のデルフィーヌ・セイリグ(アラン・レネ監督の映画『去年マリエンバードで』で知られるセイリグはヤンガーマンと結婚していた)の軌跡をたどるこの本を、パイファーは「集団的伝記」と呼んでいる。しかしそれ以上に、ある時代における、ある場所の伝記とも言える。パイファーはその中で、一群のアーティストたちが「ほとんど忘れ去られ、さびれた」環境の中で何を発見したのかを解き明かしている。

『The Slip』の主要な登場人物であるアーティストたちは、ギャラリーとの契約や、新天地での新たなスタートなど、さまざまな目的を持ってニューヨークにやってきた。そして、家賃の安さ(月45ドル程度)と広い作業スペースに惹かれてスリップに集まった。彼らはそれぞれまったく別のものに刺激を受け、異なる媒体で制作活動を行っていたが、わずか数軒の空きビルに住み、近くのジャネット公園の同じスズカケノキやイチョウの木の下でくつろいでいた。

パイファーは、それぞれのアーティストの人物像や来歴からスタートし、非常に読み応えのある核心部分へと進んでいく。そこで展開されるのは、アーティスト同士の交友関係(友情や恋愛)、束の間の接触、互いへの影響などについての描写だ。また、それぞれが極めて個人的な方法を取りながらも、スリップの独特な雰囲気や、その歴史の痕跡を互いに触発し合う形で作品に取り入れていたことにも触れている。特に強調されているのが、このエリアが外界から隔絶されたような環境だったということだ。

かつてコエンティーズ・スリップの一帯には、港町の賑わいがあった。18世紀から19世紀にかけてのスリップは、「この街で最も騒がしく活気のある場所」の1つだったという。荷車が行き交う中、荒くれ者が集う酒場や大勢の人でごった返す市場が並び、それを見下ろすように船のマストが林立していた。しかし、アーティストたちが移ってきた頃には、そうした喧騒は遠い過去のものとなっていた。

パイファーが歴史資料を丹念に当たりながら解説しているように、通りの名前の由来となった水路が埋め立てられてから既に久しく、立ち並ぶ倉庫は空っぽで、(今でも午前中は賑わう)サウス・ストリートのフルトン魚市場を除けば、活気があるのは近くのウォール街だけになった。夜になると閑散とし、静寂に包まれるこの界隈は、アーティストたちが集中して制作に打ち込むのにはうってつけの場所だった。

コエンティーズ・スリップのスタジオで制作中のアグネス・マーティン(1960年撮影)。 Photo Alexander Liberman/(c) J. Paul Getty Trust, Getty Research Institute, Los Angeles

抽象表現主義からの脱却と周囲の環境がもたらした影響

比較的狭いこのエリアは、住人同士の親密な交流や、コミュニティ的なものを形成するのにちょうどいい規模でもあった。そこでは、自分と向き合う孤独な時間を確保しながらも、近くに住む仲間と落ち合って昼食を取ったり、川沿いの散歩をしたり、ロフトの屋上で集ったり、他者とのつながりを感じられるささやかだが重要な時間を持つことができた。この環境をパイファーは、「集合的な孤独」と形容している。スリップにいた同性愛者(ケリー、インディアナ、マーティン)にとって、隔絶されているのと同時に開放的でもあるこの場所は、ニューヨークの多くの地区では認められていない生き方や愛のあり方を追求するのにも適していた。

中心部から外れた場所にいることで、スリップのアーティストたちは、当時ギャラリーや一般の人々の間で根強い人気を博していた抽象表現主義の影響下から逃れることができた、とペイファーは指摘する。スリップのアーティストたちの多くは、自己を確立し、独自の視覚言語を育みながら、抽象表現主義特有の実存主義的な苦悩を退け、創作活動とは極めて個人的な営みで、心に巣食う闇を昇華する行為でもあるという考えを意識的に打破しようとしていた。

ケリーとヤンガーマンは、スリップに来る前にパリに住んでいた時代から交流があり、「アメリカで起こっていること」には関心が持てないという点で意気投合していた(このエピソードは前半部分の「French prelude」という素晴らしい章で紹介されている)。

2人の抽象絵画へのアプローチは、絵の具を滴らせるジャクソン・ポロックのものとは全く違っていた。パリ時代、そしてニューヨークに移ってからも、ケリーは「アンチ・コンポジション」のアプローチを洗練させていった。そして、水面に拡散する光や、弧を描くオレンジの皮、橋の曲線など、身の回りにある「既存の」イメージを発想源とした作品を生み出した。

マーティンは、ケリーほど抽象表現主義の有名画家たちに強く反発していなかったものの、彼らより禁欲的かつ静謐で、自意識を抑制した絵画へのアプローチに磨きをかけていった。一方、インディアナとローゼンクイストは、神話や時代を超越した普遍性を目指す抽象表現主義の姿勢を退け、商業的なイメージや幹線道路沿いにあるシンボル的図像、テレビ画面上に次々と現れては消える最新トピックなど、「今ここ」の目まぐるしい流動性をテーマにするようになった。

このように、スリップに住んでいたアーティストたちのスタイルや哲学はそれぞれ異なっていた。しかし彼らは、そこで制作した作品の中に周囲の環境の特徴を取り込んでいたとパイファーは指摘する。たとえば、ケリーが手掛けた《Yellow with Red》(1958)という抽象画を構成する鮮やかな色彩は、(インディアナがスタジオを構えていた)コエンティーズ・スリップ25番地の外にあったニッカーボッカー・ビールの看板と関連があるとしている。

また、亜麻糸と木でできたオブジェが天井から吊り下げられたトーニーの出世作《Dark River》(1962)は、まるで水が降り注いでいるような高さ4メートル以上の大作だが、この作品が作られたサウス・ストリート25番地のスタジオの窓の外には、イースト・リバーが流れていた。さらにインディアナは、スリップに移り住んだ最初の数年間、産業廃棄物が積まれたゴミ溜めや取り壊されたビルの跡地から、帆柱などの木材や自転車の車輪といった廃材を拾ってきては初期の彫刻作品に使っていた。

そのほかにもインディアナは、彼とトーニーそれぞれのロフトに放置されていたステンシルの型に着想を得て、絵画に文字や数字を取り込むようになった。そして、その数年後には、L-O-V-Eの文字を印象的な形で積み重ねた彫刻を生み出している。パイファーがいみじくも観察しているように、トーニー以外のスリップのアーティストたちは、そこに住み着く前は彫刻を作っていなかったが、このエリアのあちこちに転がっていたモノや廃材に触発され、こぞってアッサンブラージュ(*2)を作るようになった。ペインティングに集中していたマーティンでさえ、釘やボタン、板、針金などで、無骨な立体作品を作っている。


*2 雑多な物体(日用品、工業製品、廃品など)を寄せ集めて作られた芸術作品やその手法。
デルフィーヌ・セイリグ、ダンカン・ヤンガーマン、レノア・トーニー、ジェリー・マシューズ、エルズワース・ケリー、ロバート・インディアナ、ドロレス・マシューズ、アグネス・マーティン(コエンティーズ・スリップのジネット公園にて1958年撮影)。Photo: Jack Youngerman

見過ごされてきたアメリカ美術史上の重要な側面

パイファーの記述が説得力を持つのは、その緻密な分析によるところが大きい。彼女は、スリップ沿いやウォーターフロントに点在する住居兼スタジオでのアーティストたちの様子、そしてアップタウンのニューヨーク近代美術館(MoMA)やベティ・パーソンズ・ギャラリー(*3)の展覧会で彼らが徐々に注目されていく様子を鮮やかに伝えている。それに加え、(マーティンが焼いた)ブルーベリーマフィンの朝食、スコッチウィスキーが皆を饒舌にしたロフトパーティー、屋上での物思いなど、日常の何気ない瞬間も細やかに捉えている。


*3 かつて多くの抽象表現主義のアーティストを支え、スリップのアーティストの初期の発表の場でもあった。

従来の美術史を構成する物語の網目をすり抜けてしまっていたこれらの瞬間が、実はとても重要な意味を持っていたと、パイファーは私たちに確信させてくれる。『The Slip』を読んでいて最も心動かされるのは、親愛の情やある種の状況で結ばれた2組のアーティストたちの交流を描いた部分だ。

ある章では、トーニーとマーティンが互いに助け合っていた様子が(2人が恋愛関係にあった可能性も示唆しながら)記されている。彼女たちはアビラの聖テレサ(16世紀のスペインで活動した神秘家)の著作や禅の哲学など、それぞれが影響を受けた思想について意見交換をしながら互いに刺激し合い、アーティストとしてブレイクスルーを起こしていった。そして、マーティンは独自のグリッド絵画で、トーニーは織り糸の均等な配置をわざと乱し、テキスタイル作品の常識を破る「織られたフォルム(woven forms)」と呼ばれる立体作品で注目されるようになっていく。

その後の章では、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の前後に、インディアナとローゼンクイストがそれぞれ違う形で「アメリカン・ドリーム」の概念と格闘をしていた様子が描かれる。

一方、スリップが喧騒から離れた静かな場所だったことを強調しようとするあまり、外部との重要な交流に十分に触れていないと感じられる部分もある。たとえば、ジョン・ケージの影響もその1つだ。偶然を利用して楽譜を作る「チャンス・オペレーション」という手法を打ち出し、抽象表現主義の自意識を拒絶していたケージは、1960年前後のニューヨークで大きな影響力を持っていた。特にマーティンとケリーに与えた影響は少なくなかったはずだが、それについてはあまり論じられていない。とはいえ、これほど綿密でまとまった記録であれば、その程度の不足には目をつぶってもいいだろう。

特定の場所をローカルなスケールで観察した美術史のモデルとして、『The Slip』に匹敵するものは最近出版された書籍の中には見当たらない。テーマや質において似た本を挙げるとしたら、1993年に出版されたサリー・ベインズの『Greenwich Village 1963: Avant-Garde Performance and the Effervescent Body』が思い浮かぶ。この本の舞台は60年代初頭のグリニッジ・ヴィレッジで、フルクサスやアラン・カプローのハプニング、ジャドソン・ダンス・シアターの活動を取り上げながら、理想的な住居兼仕事場としてアーティストがロフトに住み着き、隣人同士で密接に交流しながら共に作品を作っていた時代を記録している。

この本の中でベインズは、活動家でノンフィクション作家のジェイン・ジェイコブズの著作を取り上げている。1961年に出版された『アメリカ大都市の死と生』で、ジェイコブズは古い建築物の保存と再利用を訴えていた。ペイファーもまた『The Slip』の最後でジェイコブズの著作と、ニューヨーク市のゾーニング法が1964年に改正されたことに触れている。

この法改正によって、アーティストは合法的にロフトに住むことが可能になった。だがパイファーが説明しているように、土地利用に関する当局の方針転換と法律の改正は、スリップ沿いに立ち並ぶロフトを救うには遅すぎた。そもそもアーティストたちがそこに住み始めたのがあまりに先見的だったのかもしれない。1960年代、実業家のデビッド・ロックフェラーと都市設計家のロバート・モーゼスの野心的な再開発計画による取り壊しが始まる前に、スリップのアーティストたちは次々とこの地を去っていった。

しかし彼らは、そこにやって来た時とは同じではなかった。まだ無名に近く、若者らしい試行錯誤を繰り返していた彼らは共に変化していき、知名度と自信を獲得してそこを出ていったのだ。この本は、彼らの成長の物語に光を当てながら、戦後アメリカの抽象芸術やファイバー・アート、ポップ・アート、ミニマリズムにスリップがいかに影響を与えたかを示している。つまり、この小さな通りに吹きつける波しぶきを浴びずに発展したアメリカのアートは、ほとんどないのだ。(翻訳:野澤朋代)

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