自然を通じて自分とつながり、絵を描くことで自らと対話する──ラファエル・バーダの「心の風景」

現在、アートコレクターである前澤友作率いる現代芸術振興財団のギャラリーで、ドイツ・ライプツィヒを拠点に活動しているアーティスト、ラファエル・バーダの個展「Raffael Bader: Walk in Sizzling Air」が開催されている。これに合わせて初来日したバーダに、前澤との出会いから風景を描く理由などを聞いた。

1987年に南ドイツ・バイエルン州に生まれたラファエル・バーダは、2019年にドイツのライプツィヒ視覚芸術アカデミーを卒業。それから3年後のある日、インスタグラムのダイレクトメッセージを通じて、自分がまだ訪れたこともない日本のアートコレクター、前澤友作が作品購入に関心を持っていると知った。前澤は、新型コロナウイルスのパンデミック中にソーシャルメディアを通じて卒業まもないバーダの作品に出合い、すぐにコレクションしたいと思ったのだという。当時、前澤の存在すら知らなかったバーダは「無名の僕に日本のアートコレクターが連絡してくるわけがない、と懐疑的だった」と笑う。今回の個展では、こうして前澤のコレクションに収められた12点から7点が選ばれ展示されている。

バーダの作品では、水と混ぜて使用できる水可溶性油絵具やオイルスティックを用いた様々な技法で、多様な自然の姿が描かれる。ピンクや黄色などポップな色が用いられていることも手伝って、一見「可愛らしい」印象の作品ではあるが、実際に作品に対峙すると、半分抽象化された風景画からはどこか一筋縄ではいかない複雑さや不協和音のような違和感も内包しているように感じられる。バーダが描き出した自然を通じて、私たちは何を見るのだろう? そんな思いを胸に、バーダに話を聞いた。

──ラファエルさんは自然をモチーフに作品制作をされていますが、そこに描かれる自然は、必ずしも「美しい」とか「雄大」といったきれいな言葉で表現できるものではないと感じます。そもそも、なぜ自然をご自身の表現のモチーフに選んだのですか?

僕の作品のモチーフとなっている自然は、実在するある特定の自然の姿ではなく、あくまで僕の想像の産物です。ライプツィヒ視覚芸術アカデミーで学んでいたときに、風景画、あるいは自然の要素を作品に取り入れて制作するようになったのですが、僕自身、なぜ自然なのか、自覚していませんでした。でも、さまざまな表現を試す中で、なぜかいつも自然に戻ってきてしまうんです。

自然の中に身を置いたり旅したりすると、とても気分がいいし、自分の内面とつながることができたと感じることがありますよね。やがて僕は、そこにある自然を通じて自分を再発見しようとしているんだということに気づいたんです。自然は確かに美しいけれど、それだけじゃない。畏怖の念を抱くこともあります。そうしたあらゆる自然の姿を通じて、自分の内面で起こっている葛藤や不安といった感情や醜い部分にも向き合おうとしているのだと思います。

──あなたが描く自然は、「自然の再現」ではありませんね。

僕にとって絵を描くという行為は、目の前にある世界を再現するためではなく、自分自身を表現するためにあるものです。そのために僕は長い間、物事をどのように見るかを訓練してきました。「見る」ということは、僕にとってとても重要な行為なんです。

作品に登場する色やかたちは、過去に僕自身が実際に訪れたり写真で見たりした様々な自然の姿と、その時の自分の感情が多層的に重なり合って生まれたものと言えると思います。

中でも色には、感情とのとても強い結びつきがある。木々や空など自然を長い時間をかけてよく観察してみると、表面を見ているだけでは捉えきれない様々な色が見えてきます。青々とした葉っぱ一枚をとってみても、赤やオレンジ、青など、たくさんの色が入っていて、思いもよらない色を見つけることができる。そうした僕の目に映った様々な色に、自分の過去の経験や感情を重ね合わせながら作品制作を行っています。

──つまり作品では、自然というよりむしろあなたの心象風景であり、あなたと自然との親密な対話が描かれている、とも言えますか?

そうだと思います。田舎で育った僕にとって、森や野原で遊ぶことはとても自然なことでした。また、過去に何カ月もにわたって社会と距離を置き、自然の中で過ごしたことがあるのですが、そうした経験の影響もあり、自然の姿というのは、鑑賞者の国籍や文化的な背景といった違いを超えてつながることのできる普遍的な記号でもあると思います。

──なるほど。では、フォルムについてはどうでしょう。一見するだけでは、作品の中の自然はあくまで抽象化されていて平面的ですが、近くで見ると、そうした多層性や複雑性を感じます。どのようにシルエットを決めていくのでしょうか? 多数のドローイングを経て最終的なかたちが決まっていくのですか?

そうですね。多くの場合、まず、非常にラフなアウトライン・ドローイングから始めます。チャコールを使うこともあれば、筆やマーカーで描くこともある。ドローイングは、僕にとってはメモのようなもの。自然の中に身を置いて、何時間も自然のエネルギーを吸収し、それをスタジオでドローイングとしてアウトプットするんです。アウトライン・ドローイングは骨格のようなものであり、自分が経験した自然や感情をイメージとしてキャンバスに写しとるために必要な、ある種の言語のようなものなんです。

──見たものをドローイングという記述を通じて記憶し、それらの集積をあなた自身の中で消化して、様々な色やテクスチャー、レイヤーを試しながら、イメージとしてアウトプットさせていくんですね。

そうです。ただ、全ての作品がドローイングを経て完成されるわけでもないんです。20枚描くこともあれば2〜3枚で終わることもあるし、直接キャンバスに向かうこともあります。

例えば黄色やピンクや緑など、ある単色で塗りつぶしたキャンバスの上に直接描きはじめることもあります。そこに別の色を置いていくと、背景の色とぶつかり合うことがあります。そこに生まれるある種の緊張が、僕にとってはとても大事なんです。人間や自然にしても、そうした緊張の上に成り立っているんだと思います。

──自然の中で育ったあなたにとって、社会とのつながりに難しさを感じたことはありますか?

どうでしょう。もちろん、これほどまでに巨大化した社会の中で、人と本当のつながりを持つのは簡単ではないし、社会の中で様々な葛藤を抱えることはあります。だから、しばらく社会から離れることはとても重要なことだと思いますし、自分自身とつながり直すためにも、日々の葛藤から抜け出す方法を見つけることは大切です。でも、僕が自然を描くのは、そうした葛藤から逃れるためではありません。自分とつながっていれば、また社会に戻ることができるし、そうすれば、他の人たちとももっとつながることができると思います。

──タイトルについても質問させてください。あなたの作品タイトルは、例えば《suddenly surrounded》(2022)や《Off to the Canyon IV》(2022)のように、何らかのアクションや体験に紐づいた表現が多いですね。

ほとんどの場合、絵を描いた後でタイトルをつけるのですが、個人的な憧れや経験、思い出と結びついていることが多いと思います。例えば、《Off to the Canyon》のシリーズは、パンデミック中に描き始めたものです。ライプツィヒの冬は灰色で、雨も多い。パンデミック中だったのでどこにも行けず、友だちにも会えず、とても孤独でした。そんな中、リビングルームのテーブルでひとり、パソコンを開いてアメリカの国立公園の渓谷についてのドキュメンタリーを見るようになったんです。そのうち、パソコンのスクリーン上に映る渓谷と自分の間には何かがあることに気づきました。実際には行けなくても、ある意味、渓谷を旅することができる。リビングルームにいながら、そこを離れて渓谷に行くということは、僕にとってどういうことなのか。そんなふうにして描きはじめたシリーズです。

──リビングルームに座ったまま渓谷に行くというバーチャルな旅から、何を得たのでしょう?

渓谷という存在自体、非常に強烈だと思います。渓谷とは地表の亀裂のようなもので、その間を歩くことができます。左右を岩に囲まれ、その間を歩くという体験に思いを馳せながら、実はライプツィヒの街を歩くという行為もそれに似ているのではないかと思いました。右も左も家ばかりで、ある種、峡谷のよう。ある意味、私たちはみんな峡谷に住んでいるとも言えます。そんなふうに、自分の日常と渓谷の間にあるものを見つめることに、何か面白さや美しさがあることに気づいたんです。

──ちょうど新型コロナウイルスによるパンデミック中の経験について話題に上がったので、これについても質問したいと思います。あなたのように美術学校を卒業したばかりの若いアーティストにとって、どんな経験でしたか?

学校を卒業後、美術館の係員として働いていたのですが、これが本当に退屈で苦痛な経験でした。でも、パンデミックによって美術館が休館になったため、しばらく美術館で働かなくてよくなったんです。アーティストは、そもそも一人で仕事をすることの多い職業ですし、アーティストとしての仕事に没頭できる時間が突然増えたのは、僕にとって、とても良いことでした。

まだ若いアーティストとして、幸運にもインターネットやデジタルの世界が一助になりました。パンデミック以前は、僕はソーシャルメディアにもあまり興味がなかったのですが、インスタグラムに作品を投稿するようになり、他のアーティストやクリエイター、ギャラリーともつながることができた。最終的に、自分にとって大きなプラスになりました。

もちろん実際に旅に出られないのは辛かったですが、自分の中に蓄積された内なる風景を旅することができました。自分の中に、すでに多くのものがあることに気づいたんです。それを絵に表現することで、架空の旅が現実になり、物理的な絵になるプロセスは面白いと思います。

──美術館スタッフとして働いていたとき、勤務中に描いていたスケッチを『Traveling Museum Attendant』というタイトルの本のかたちにまとめています。以後、合計3冊の作品集をご自身で出版されていますが、このアイデアはどのようにして生まれたのですか?

ライプツィヒ視覚芸術アカデミーは書籍デザインでも有名で、僕も入学当初はグラフィックデザインを専攻していたんです。だから本というのは、僕にとって重要な表現の一形態であり、絵画とは異なるストーリーテリングの手法なんです。

美術館の係員として働きながら描いたドローイングだけを集めたTraveling Museum Attendant』は、当時の嫌な思い出に別れを告げるためのプロジェクトでもありました。あそこで働くのは本当に好きじゃなかったから(笑)。とにかく、どうにかしてそこから逃れる必要があったし、デッサンをする必要があったんです。もちろん、勤務中に絵を描くことなど許されていなかったので、空間の隅に隠れて、美術館のカードにこっそりドローイングしていました。でもその後、これらのドローイングが、ある意味で自分にとってとても重要であることに気づきました。だからそれを一冊の本にして、ひとつのオブジェに転換しようと考えたんです。

──ドローイングはあなたの表現活動において重要であるという先ほどの話にも繋がりますね。

そうですね。ドローイングは制作活動の骨格のようなものであり、自分が経験した自然や感情をイメージとしてキャンバス上に発展させていくために必要な、ある種の言語のようなものなんです。そして絵を描くということは、僕にとって自分自身との対話の時間を得るための方法でもあります。キャンバス上で展開される様々なことは、自分でも気づいていない、けれど自分の中で確実に起こっていることを知ることでもある。作品制作を通じて自分の想像を超えたいし、もっと先に進みたい。新しいものを見つけることで、常に自分自身を驚かせていたいんです。

Raffael Bader: Walk in Sizzling Air 
会期:開催中〜9月22日
会場:
現代芸術振興財団(東京都港区六本木6-6-9 ピラミデビル4階)
時間:
11:00-18:00(日〜水曜日は休廊)

Photos: Tohru Yuasa

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