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ヴァシュロン・コンスタンタン
ヴァシュロン・コンスタンタンには創業者の精神と伝統技法を受け継ぐビスポークのタイムピース専門の「レ・キャビノティエ」部門がある。エナメル職人、エングレービング職人など熟練職人たちの手によって、機構は芸術作品となる。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

創立270年を迎えるヴァシュロン・コンスタンタンはいかにしてより良い創作のための途方もない探求を支える守護神となったのか

ヴァシュロン・コンスタンタン創業者のジャン=マルク・ヴァシュロンが自身の時計製造工房を本格的に設立してから、2025年で270周年を迎える。この世界最古の時計マニュファクチュールはその歴史において一度も歩みを止めることなく、技術・美術の両面からより良い創作のための途方もない「探求」を自らに課し続けてきた。その背景には、どんな思想があるのか。同メゾンが「文化芸術の守護神」と呼ばれる理由を、多岐にわたる活動と3つの象徴的タイムピースから紐解いていく。

「できる限り最善を尽くす、そう試みる事は少なくとも可能である」

ヴァシュロン・コンスタンタンのユニークピース。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

1755年9月17日にジャン=マルク・ヴァシュロンが立ち上げたヴァシュロン・コンスタンタンは、今年で創業270周年を迎える。これまで一度も途切れることなく時計づくりを続けてきた名門の軌跡は、しかしけっして平坦ではなかった。それでも前進し続けることを支えたのは、その歴史において変わることなく貫かれた「探求」の精神だ。それは「Do better if possible, and that is always possible(できる限り最善を尽くす、そう試みる事は少なくとも可能である)」という、1819年に共同経営者であるフランソワ・コンスタンタンが創業3代目にあたるジャック=バルテルミー・ヴァシュロンに宛てた書簡の中で記した言葉に由来するものだ。

当時、新たな経営パートナーになったフランソワは、ヨーロッパ各地を旅し、市場調査を続けるなか、本国のジャック=バルテルミーに顧客のニーズを子細に伝えるとともに、先の言葉を綴った。それは厳しくも示唆に溢れ、折りしも複雑時計に挑んでいたジャック=バルテルミーを激励し、勇気づけた。はたして二人の友情と絆はより深まるとともに、それは現在に至るまで受け継がれ、メゾンの精神になったのである。

世界有数の芸術機関との多岐にわたるパートナーシップ

探求への情熱は、先進的な時計技術の追求ばかりでなく、感性豊かな装飾美術にも注がれてきた。それは、メゾンが創業した18世紀に編集された啓蒙の書「百科全書」に記された「時計職人とは時計づくりに携わる芸術家に与えられる名称である」という定義に基づく。つまり時計こそ技術と芸術を融合した美術工芸であり、その信念は現在取り組む世界最高峰の芸術機関とのパートナーシップにも実践されている。

パリのルーヴル美術館とは、同館が保管する1754年にフランス王ルイ15世に献呈されたクロック『天地創造』を2016年に修復支援したことをきっかけに、2019年にパートナーシップを結んだ。その活動内容は、数世紀にも渡り継承されてきた公式記録、技術、文化、芸術の保存と維持、修復といった包括的な分野に及ぶ。

ルーヴル美術館が保管する、1754年にフランス王ルイ15世に献呈されたクロック『天地創造』。2016年にヴァシュロン・コンスタンタンが修復を手がけた。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

翌年には、クリスティーズ主催のオークション「Bid for the Louvre」に「レ・キャビノティエ」を出品。落札者はルーヴル美術館の所蔵作品を選び、それを時計の文字盤にエナメルで再現するという大胆かつ斬新な企画だ。売り上げはルーヴル美術館内にある教育的なワークショップのプロジェクトを支援する「Le Studio(ル・ストゥ ディオ)」に全額寄付された。続く2021年は、所蔵する古代コレクションから着想した「メティエ・ダール・偉大な文明へ敬意を表して」という4本の時計を発表した。

2022年と2024年には、ヴェネツィアで開催された工芸展「ホモ・ファーベル」にルーヴル美術館と共同出展し、ルーヴル美術館からは学芸員、ヴァシュロン・コンスタンタンからは時計師が参加して作業風景を来場者に紹介した。また、「人間国宝」をテーマにした2022年はコラボレーションモデルとして俵屋宗達の「風神雷神」屏風をモチーフにしたユニークピースを、2024年は「修復」に焦点を当て、ヴァシュロン・コンスタンタンが1921年に発表した「AMERICAN 1921」のオリジナルと、2021年に同モデル100周年を記念して製作した復元モデルを展示した。

さらにニューヨークのメトロポリタン美術館とも2023年にパートナーシップを結び、知識と専門技術の保護と継承を目的に様々な教育イニシアティブの活動に取り組んでいる。年間を通して2万9000以上の教育イベントやプログラムを開催する同館とのパートナーシップは、体験ワークショップや館内のガイドツアー始め、進学と研究の奨学金やインターンシップ、障がいのある来館者のアクセシビリティ向上、持続的な芸術の学習プログラムや教育者向けの専門研修など多岐に渡って導入される予定だ。

19世紀から続く中国との歴史的な繋がりから、2024年には北京故宮博物館内にある教育機関「故宮学院」と長期的パートナーシップを締結した。文化遺産保護の推進と文化交流、専門知識および職人技の継承というビジョンを共有し、複数の教育プログラムを今後展開していく。この締結を記念して「メティエ・ダール・伝統的シンボルに敬意を表して」というシリーズも誕生した。

こうした芸術文化の支援活動を通し、その知見と技巧の継承に取り組む一方、次世代の人材育成にも力を注いでいる。2022年の「One of Not Many Mentorship Program」は、革新と創造性を表現する才能豊かなアーティストたちの支援を目的に、数々の名作を生んだレコーディングスタジオ、ロンドンのアビーロード スタジオとのパートナーシップから始まった。そして“One of Not Many(少数先鋭の一員)”のモットーは、若き音楽家やプリンシプルダンサーのサポートや、探険写真家やアーティスト、デザイナーとのコラボレーションによって具現化されている。

先人が残した偉大なヘリテージへの深い敬意とその価値を次世代へとつなげる活動は、270年の歴史あるマニュファクチュールの責務である。同時に、探求への執着こそが、伝統と革新に溢れた独自のウォッチメイキングの原動力となってきたのだ。

約3cmの文字盤に描かれたルーブルの名作

オークションから長い時間を経て完成された唯一無二のタイムピース「レ・キャビノティエ・ピーテル・パウル・ルーベンス『アンギアーリの戦い』(La lutte pour l'étendard de la Bataille d'Anghiari )へのオマージュ」。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
ルーヴル美術館所蔵のピーテル・パウル・ルーベンス《アンギアーリの戦い》(1603)Photo: ©RMN Grand Palais Musee du Louvre, Michel Urtado
「レ・キャビノティエ・ピーテル・パウル・ルーベンス『アンギアーリの戦い』へのオマージュ」制作風景。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

では、正解や前例のない創造行為において常に「最善を尽くす」という態度に裏打ちされた探求の精神から、どんなマスターピースが誕生してきたのか。

その一つの象徴と考えられるのが、2023年に完成した「レ・キャビノティエ・ピーテル・パウル・ルーベンス『アンギアーリの戦い』へのオマージュ」だ。これは、前述したルーヴル美術館のために2020年に開催されたオークション 「Bid for the Louvre」から生まれた。落札者は美術館所蔵のルーベンスの名作を選び、その創作には、実に2年以上の歳月が費やされた。

《アンギアーリの戦い》は、レオナルド・ダ・ヴィンチによる大壁画の下絵を模写した素描に17世紀初頭ルーベンスが加筆したとされる。人物や馬の力強い姿が同系色の淡い塗り重ねやセピアのソフトなタッチのコントラストによって生み出された抑揚のある立体感を、直径3.3cmという小さな時計文字盤に再現するため選んだ技法が、ミニアチュール・エナメルとグリザイユ・エナメルだ。

グリザイユとは、ホワイトの地に濃淡の階調を重ねて絵柄を描く16世紀のフランス・リモージュで生まれたエナメル技法で、これに精細に描写するミニアチュール・エナメルを組み合わせた。まずモチーフの細部を硬い毛筆や尖った道具、サボテンの棘などで文字盤に描く。そして微妙なタッチや陰影を再現するため、ブラウン、グレーブラウン、セピアブラウン、クリームブラウンなど20種以上の色調のエナメルを用い、その都度摂氏900度の窯で焼成を繰り返した。

こうしたエナメルはじめ、彫金やギヨシェ彫り、ジェムセッティングといった伝統的な装飾技法はいまも自社の専門工房で研鑽と熟練が重ねられている。世代を超えた職人による技巧の継承は、まさに美術作品の保存修復にも通じる。

100年前の器具で完全復元された「アメリカン 1921」

ヴァシュロン・コンスタンタン「アメリカン 1921」のオリジナル(左)と、2021年に発表された復刻版(右)。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
ムーブメントは115のパーツで構成。職人たちは当時の器具の使い方を習熟するところから始めたという。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

マニュファクチュールとは、ムーブメントやケースの製造から組み立てまで社内で一貫製造する体制を意味する。それだけの技術と環境があるからこそ、独創的な時計づくりを極めることができるのだ。しかし真価はそれだけではない。時代を超えて生み出した時計が動き続ける責任を全うすることこそ肝要であり、それに対する顧客の信頼を維持し続けるためにも、歳月を重ねるほどに修理や修復の重要性は高まる。「アメリカン 1921」に象徴されるのは、そんなマニュファクチュールの名門としての矜持だ。

狂騒の20年代を象徴するオリジナルは、1921年にアメリカ向けに24本のみ作られた。その斬新なスタイルはモータリゼーションの始まりを背景に、運転時の視認性を配慮して文字盤を傾けたといわれる。この希少なタイムピースの誕生100周年を祝し、ヴァシュロン・コンスタンタンは2021年、オリジナルに忠実に復元するという挑戦に出た。

保存する当時の地板や受けを使う一方、パーツの多くは新たに製作しなければならなかった。しかし、オリジナルに忠実に復元するためには、19世紀の旋盤や治具を使う必要がある。そこで職人たちは、当時と同じ作業ができるよう、これら器具の使い方を習熟することから始めた。エナメル文字盤や外装の仕上げもかつてと同様の手作業が施されたのはいうまでもない。レストレーションとヘリテージ、それぞれの部門の専門知識を結集し、完成までには1年を要したのだった。

復元された1本の時計には、100年の時を超えて職人の手が習熟したノウハウが込められている。それはさらに100年先の信頼を見据えているのである。

11年を費やした世界で最もクレイジーな複雑時計

「レ・キャビノティエ・ザ・バークレー・グランドコンプリケーション」の
12時位置のカウンターには、月齢と月相を表示し、1027年間、調整を必要としないムーンフェイズを搭載。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
複雑機能の動作を支えるのが、毎時1万8000振動で作動する3軸アーミラリ・トゥールビヨン調速装置。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin
63の複雑機能を搭載し、2877個の部品で構成。まさにメゾンの意地をかけた偉業と言える。Photo: Courtesy of Vacheron Constantin

ヴァシュロン・コンスタンタンには、「レ・キャビノティエ」と呼ばれる専門部署がある。そこでは特別な顧客のオーダーメイドに応え、デザインや素材、仕様はもちろん、時計の内部機構であるムーブメントまでフルオーダーに対応する。アトリエでは革新的な技術開発と伝統的な装飾技法が融合し、こうした体制を現在も社内に備えるのはスイス高級ブランドでも極めて珍しい。2024年に発表された「レ・キャビノティエ・ザ・バークレー・グランドコンプリケーション」はここから生まれた。

懐中時計の表裏に文字盤を備え、世界初の中国暦のパーペチュアルカレンダー含む、63種類の複雑機能を搭載している。研究開発には11年を費やし、複雑機構の数は世界新記録を樹立した。制作には3人の時計師が携わり、うち2人は実の兄弟で、弟が中国暦の不規則性の解析と構造設計を担当し、兄が複雑機能を組み立てた。中国の異文化や生活習慣を理解し、天文学のデータを分析し、動作の検証を続けるというプロセスは、通常の時計機構の開発とは異なり、それこそジャック=バルテルミーとフランソワのような信頼関係がなければできなかっただろう。

じつはこの3人の時計師は、前作ではユダヤ教のパーペチュアルカレンダーを搭載した「リファレンス 57260」を8年間かけて完成させた。この連作にかけた歳月は合わせて約20年。まさに人間の叡知と探求の結晶であるマスターピースだ。そうして職人たちの「探究心」に寄り添い、ただ伝統や歴史を守るだけでなくより良い創作と革新のための環境と資源を用意し、そのために必要な時間を与えることを、芸術家を支えるパトロンのようにヴァシュロン・コンスタンタンは自らの使命として背負い、実現してきたのだ。

ヴァシュロン・コンスタンタンが歩んできた270年が意味することとは、すべてには過去があり、それが現在になり、未来へと連綿に繋がっていくという時の必然だ。だからこそ自らの文化的ルーツを重視し、伝統的な技術や職人の技巧を研鑽し、新たな発見へと進化させる。そこにヘリテージの真価はある。そしてその視座は、芸術や文化のジャンルを超え、世界の美術館と連携し、次世代のアーティストやクリエイターの支援、育成にも向けられるのである。

育まれてきた「探求」の精神は時空の制約さえも超えていく。それはまさに時を刻み続けるメゾンにふさわしい。

Text: Mitsuru Shibata Edit: Maya Nago