ブランクーシはラディカルである──「本質の可視化」に挑んだ彫刻家の革新性を代表作から読み解く
余分な要素をとことん削ぎ落とした抽象的なフォルムで知られる彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシ。現在、東京のアーティゾン美術館で「ブランクーシ 本質を象る」が、そしてパリのポンピドゥセンターでも大回顧展が開催中のこの作家の意欲的な試みを、主要作品を通して考察する。
ロダン以降の彫刻に革命をもたらしたブランクーシ
1907年にコンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)は、人体のフォルムをそれと分かる最小限の要素にまで単純化して、ほとんど抽象に近い《接吻》と《祈り》を制作した。同じ年にパブロ・ピカソが《アヴィニョンの娘たち》で絵画に大変革をもたらしたように、彼はそれまでの彫刻の概念を、この2点の作品で根本から変えてしまった。ブランクーシとピカソが起こした革命は、西洋美術史の中で最もラディカルなものと言っていいだろう。
ブランクーシはこれ以降、現代の代表的彫刻家であるリチャード・セラが「彫刻のさまざまな可能性が示された手引き書」と呼ぶ仕事を残している。彼が示した彫刻の可能性を改めて認識させることになったのが、2019年にニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館とニューヨーク近代美術館(MoMA)が開催した展覧会だ。両館の所蔵する主要なブランクーシ作品が一覧できたこの記念碑的な企画展を振り返り、彼がアートにもたらした変化、特にアメリカのアートをどう変えたのかを考えてみたい。
ブランクーシはアメリカのアーティストに多大な影響を与えてきた。しかしその物語は、今日に至るまで部分的にしか語られていない。ブランクーシはあまりに多くの革新を起こし、それらが互いに矛盾しているように見えることもあるため、その影響力に疑問が生じることもあるだろう。たった1人の芸術家が、彫刻という分野をここまで徹底的に活性化し得たのだろうか、と。
その答えはイエス。だが、彼の貢献はまだ全体として十分に研究され、記述されていない。また、彼1人が後進の彫刻家たちに影響を与えたわけでもない。しかし、主に木材を用いた抽象的な彫刻で知られるマーティン・ピューライヤーが言ったように、「それに気づいていない者でさえ、ブランクーシの影響を受けている」のだ。
その偉大さの核心にあるのは、男性と女性、有機的なものと機械的なもの、古代と現代、滑らかさと粗さ、重厚さと軽やかさなど、相反する性質の間でバランスを取り、一見相入れなさそうな複数の要素を平等に扱いながら組み合わせる力だ。こうして複数の要素を融合させることで、ブランクーシは既存のモチーフをまったく新しい形で再構成することができた。
たとえば、「接吻」というテーマは彼のオリジナルではない。しかし、2人の人物の相対を徹底的に本質的な要素へと還元した作品のどっしりとした佇まいからは、パートナー間の平等な関係性についての新しい(同時にとても古い)考え方が伝わってくる。また、何かを記念するための柱を発明したわけではないが、彼の有名な《無限柱》は、従来存在したものとは根本的に異なる新しさを持っていた。それは定型的なレトリックや物語から解放され、完全に抽象化された前例のないものだった。
ブランクーシとアメリカの関係
ルーマニアに生まれ、そこで芸術教育を受けたブランクーシは、パリに拠点を移して活動を続けた。だが、彼は晩年にこう明言している。
「アメリカ人たちがいなかったら、私はこれほど多くの作品を生み出すことができなかっただろうし、作家として名を成すこともなかっただろう」
彼が初めてアメリカ人アーティストと接点を持ったのは、パリ郊外のムードンにあるロダンの家で、写真家のエドワード・スタイケンと出会った1907年のことだった(ブランクーシはそれ以前にロダンのもとで助手として働いていたが、2カ月で辞めている)。その後スタイケンは、1911年のアンデパンダン展でブランクーシのブロンズ像《マイアストラ》を目にし、本人から購入した。ブランクーシは、パリ郊外のスタイケン宅の庭にそれを設置する際、背の高い台座の上に乗せている。これは、彼が偏愛した大胆な縦長のフォルムの初期の例と言える。
この頃ブランクーシは、エリー・ナーデルマンが手がけた滑らかな表面の人物像を目にした。ポーランド生まれのナーデルマンはその後渡米し、アメリカ人作家として名を知られるようになる。ブランクーシはさらに、マルセル・デュシャン(アメリカに長く暮らし、やがてアメリカ国籍を取得する)とも出会っている。2人はパリ郊外のピュトーにあるデュシャン兄弟の家で知り合い、親しい友人同士となった。
デュシャンはブランクーシのためにアメリカで2つの展覧会を企画し、彼を知人に紹介したり、仕事上の人脈を使って宣伝したりと尽力を惜しまなかった。一方、パリ在住のアメリカ人コレクターで画家のウォルター・パッチは、1913年にニューヨークで行われたアーモリー・ショーの主催者にブランクーシの作品を推薦。最先端の現代アートをアメリカに紹介したこの画期的な美術展には5点のブランクーシ作品が出品されたものの、メディアの酷評にさらされている。
翌年の3月には、スタイケンの推薦により、写真家のアルフレッド・スティーグリッツが運営するニューヨークの291ギャラリーでブランクーシの初個展が開かれた。このときは厳しく批判されることはなく、好意的な批評さえあり、進歩的なアメリカ人に気に入られたブランクーシの作品はよく売れた。1912年にアーモリー・ショーの主催者の1人だった画家のアーサー・B・デイヴィスが既に彼の作品を購入していたが、やがてジョン・クインや、ウォルター&ルイーズ・アレンスバーグ、キャサリン・ドライヤー、そして後にペギー・グッゲンハイムなどがこぞって彼の彫刻を収集するようになっていった。
意外なことに、ブランクーシは生前フランスで一度も個展を開いていない。モディリアーニやマン・レイのような先進的なアーティストたちからは広く親しまれてはいたものの、フランスの批評家たちは、彼を田舎者やよそ者、本物の芸術家というよりは職人だと捉える傾向があった。さらに、ギヨーム・アポリネールやアンドレ・サルモンなどの著名な美術批評家からも無視されていたため、ブランクーシを論じたテキストも長く存在しなかった。彼に関する最初の評論は、1921年にエズラ・パウンドによって書かれたもので、アメリカではこれを端緒にブランクーシ作品との批評的・芸術的対話が現在に至るまで長く続いている。
内なる光と形態の本質の追求
ブランクーシによる大きな形式的革新の1つが、発光するかのような彫刻表現だ。MoMAが所蔵する2つのバージョンの《空間の鳥》(1928および1941年頃)など、光の効果を取り入れた作品でそれが分かる。超自然的なその輝きは、硬い素材を徹底的に磨き上げて内なる光を求めること、つまり自らが創造した形の本質を引き出そうとしたことから生まれている。彼はまた、人間の肌のように透明感のある柔らかい表面も作っている。その効果は、フィラデルフィア美術館蔵の《少女のトルソ》(1923年頃)で見ることができる。
1927年から29年にかけてブランクーシのもとで学んだイサム・ノグチは、この艶出しの技法を発展させ続けた。また、ウィリアム・ゾラックやヒューゴ・ロバス、ポール・マンシップのような、より保守的なアメリカ人彫刻家の間でもこの技法が広まった。少し時代が下ってからは、デイヴィッド・スミスが鉄を溶接して作った彫刻にきらめくような反射を取り入れ、作品に活力を与えている。たとえば、中央がくびれた台座の上に建築的なフレームを据えた《The Hero》(1951-52)のような作品だ。後の作品《Cubi XXVII》(1965)でスミスは、《The Hero》で見られた建築的なフレームを、ステンレスを磨いて組み上げた門のような構造へと拡大した。それぞれ異なる要素を積み重ねたこの構造物は光を反射し、私たちの目の前で堅固な金属を非物質化させる。
強烈にきらめく光は、ドナルド・ジャッドの作品に命を吹き込んでいる要素でもある。特に1960年代に制作されたプレキシガラスとスチールの箱や、テキサス州マーファのチナティ財団に設置された100点のアルミの箱などにそれが見られる。日の出と日没時、ガラス張りの巨大な建物に並べられたアルミの箱は、アメリカ南西部の強い日差しに溶けていくように見える。ブランクーシとジャッドにとって、光は(正式には宗教的でないものの)深い精神性を喚起させるものだった。
ブランクーシは写真を撮るのも好きだったが、光や空、柱を撮ったその写真の多くは、スティーグリッツが1920年代に雲を撮影した「イクィヴァレント」シリーズを思わせる。地上とその上に広がる無限の空間の探求は、19世紀のルミニズム(*1)の画家たちからジョージア・オキーフ、アーサー・ダヴ、マイケル・ハイザー、ジェームズ・タレルに至るまで、アメリカ美術の歴史を貫いている。また、ブランクーシの光による形の非物質化は、カリフォルニアのライト&スペース・アート(*2)の先例と言えるかもしれない。その後、ウォルター・デ・マリアは、壮大なランドアート《ライトニング・フィールド》(1977)で大地に作品を展開し、天に向かって伸びるいくつものステンレスのポールで自然の力を捉えた。
*2 光と空間の相互作用を探求するアート。オプティカル・アート、ミニマリズム、幾何学的抽象などがゆるやかに連動する芸術運動として、1960年代に南カリフォルニアで始まった。
動きとそのダイナミズムの追求
ブランクーシの光は、絶え間ない動きを生み出す。私たちは磨き上げられたブロンズに映る自分の姿を見て、微妙な仕草や身体の動きを追うことができる。つまり、作品の一部分としてその中に取り込まれるのだ。ブランクーシにとって、流れるような視覚効果は、水のように絶えず流動する世界を呼び起こし、彫刻に新たな表現力を与えるものだった。
また、実際の動きを取り入れて作品のダイナミズムを飛躍的に高めたものもある。MoMAでの展覧会に出展された《レダ》(1926)がその1つだ。彼は同じタイトルの彫刻を複数手がけているが、これはその中でも小ぶりのブロンズ像で、電動で回転する鏡面仕上げの台座の上に置かれている。やはり回転する台座の上に置かれたブルーグレーの大理石の彫刻《魚》(1930)も同様で、ブランクーシは「(魚の)一瞬のきらめきを捉えたかった」と話している。
このように、実際の動きを取り入れたり、動きを示唆したりすることで、ブランクーシは作品の物質的な重さを克服し、台座から浮かび上がっているように見せたいという彫刻家たちの長年の夢を実現した。実際、ブランクーシは伝統的な台座を使わず、彫刻と切り離せない作品の一部として構成している。
同じくヨーロッパ出身で、ブランクーシをアメリカに紹介したデュシャンは、モダニズムに動きを取り入れたもう1人の立役者だ。キュビスムの芸術家たちの中でも、パリ郊外のピュトーに集い「セクション・ドール(黄金分割)」と呼ばれた一派(アルベール・グレーズ、ジャン・メッツァンジェ、ロベール・ドローネーなど)は、ピカソやジョルジュ・ブラックが好んだ静物、風景、肖像画などの伝統的なジャンルを超え、現代生活を反映する壮大なテーマを絵の中で表現しようとした。
さらに、未来派が好んで表現したスピードや変化、運動などのアメリカ的な要素を、デュシャンとブランクーシも積極的に取り入れている。デュシャンが1911年と1912年に発表した《階段を降りる裸体》の(No. 1)と(No. 2)がこれに先鞭をつけ、1913年に発表された初のレディメイド作品《自転車の車輪》、回転する円盤を写した実験映画『アネミック・シネマ』(1926)が続いた。
ブランクーシは当初、実際の動きを取り入れることよりも、高度に様式化された生物的な形態が暗示させる動きや、積み重ねたり研磨したりした形から生まれる知覚的なダイナミズムに重きを置いていた。たとえば、厚紙と金属を用いた《Portrait of James Joyce(ジェイムズ・ジョイスの肖像)》(1928年頃)で、彼は『ユリシーズ』の作者を螺旋で表し、終わりのない運動を暗示させている。
1916年の木炭画《No.8-Special (Drawing No. 8)》で螺旋を描き、スティーグリッツを通じてブランクーシのことを知っていたはずのオキーフも、1946年に制作した彫刻《Abstraction》で、無限を暗示させるこのフォルムを使っている。また、ロバート・スミッソンも、ユタ州にある巨大な螺旋状のランドアート作品《スパイラル・ジェティ》(1970)の重要な着想源として、ブランクーシの螺旋を挙げていた。
実際の動きではなく、動きを感じさせる表現を用いたブランクーシ作品には、鏡面仕上げのブロンズで鳥のような形を表した《マイアストラ》(1911)、傾いた人間の胴体を思わせる《トルソ》(1912)、そして特にMoMAに収蔵されている大理石の《マイアストラ》(1910-12)がある。最後の作品では、下から上へと誘導される鑑賞者の視線は、それぞれの部分をよく観察するために時折止まりながら、最終的には台座に乗った彫刻の頂点へと向かう。そこには、ルーマニアの民間伝承で恋人たちを導くとされる魔法の鳥を表した像がある。
エロティシズムと両性具有性の追求
機械の優位性を示す航空技術の急速な台頭に、多くの前衛芸術家たちは神秘的とも言える重力の解放を感じ取っていた。そんな中、1912年にブランクーシとデュシャンは、フェルナン・レジェとともにパリで開催された航空博覧会を訪れ、飛行機の美しさ、特にプロペラの美しさに衝撃を受けている。ブランクーシはデュシャンの助言もあり、この新しい乗り物の形態を彫刻の新たなスタンダードに据えた。それを機に彼の中で物理的な飛翔と精神の解放が結びつけられたが、精神の解放は──デュシャンにとってもそうであったように──必然的に性的なものと結びついていた。
ブランクーシの《王妃X》(1915-16)は、明らかに男根的でありながら、女性の肖像でもある。これは、相反するものを調和させる彼の手腕を示す一例と言える。一方、デュシャンの《泉》(1917)は、本来は男性用である小便器の向きを変えることで女性器を連想させ、シカゴ美術館が所蔵するブランクーシの美しい大理石像《レダ》(1920)も、男根と横たわる裸婦像の両方を暗示している。
ブランクーシのフォルムが持つ両性具有性は、いくつかのオキーフ作品にも見られる。たとえば、1916年に制作された悲嘆に暮れたような人物の像もそうだし、さまざまな形がより高い次元を目指すかのように空中に舞い上がっている1920年代の絵画もそうだ。《Grey Line with Lavender and Yellow》(1923年頃)でオキーフは、女性器と男根の形を組み合わせて描き、1950年の《In the Patio IX》では、大空に向け飛翔する鳥を連想させる黒いV字型の色面を描いている。
垂直性と神的なものの追求
ブランクーシの彫刻で最も顕著な特徴の1つが、そびえ立つような垂直性だ。グッゲンハイム美術館に収蔵されている2点の古代的な木の彫刻、《アダムとイブ》(1921)と《キング・オブ・キングス》(1938)はその特徴を体現した作品で、空間の中で形が長く引き伸ばされているように見える。
その生涯を通じてブランクーシは、より高次の秩序や現世的な心配事からの解放と自由を希求していた。彼の最高傑作とされ、ルーマニアのトゥルグ・ジウに立つ高さ30メートルの《無限柱》(1938)にもそれが現れている。こうした超越への衝動は、彼が手がけた全ての作品の底流となった。それを裏付けるかのように、ブランクーシは自分の仕事を「神的なものに向かって前進している」と表現している。
戦没者の記念碑として作られたトゥルグ・ジウの《無限柱》は、その使命を超え、数多くのアメリカ人アーティストに憧憬の念を抱かせ、刺激を与えた。バーネット・ニューマン、タル・ストリーター、リンダ・ベングリス、リチャード・セラ、デイル・チフーリ、マーティン・ピューライヤー、エルズワース・ケリーなど、それぞれ全く違う作風を持つ大勢のアーティストがこの作品に影響を受けている。
中でも特筆すべきはクレス・オルデンバーグによる2点のパブリックアート作品で、それぞれが設置された街にちなんだ形をしている。フィラデルフィアにある《Clothespin(洗濯バサミ)》(1976)は(オルデンバーグ自身が述べているように)フィラデルフィア美術館に収蔵されている《接吻》にインスパイアされたもので、シカゴにある《Batcolumn(バットの柱)》(1977)はこの街で盛んな野球の名場面を表している。かつてリチャード・セラは、「ブランクーシには全てがある」と言ったが、彼のモニュメント性をアメリカ的な視覚言語で表したのがオルデンバーグの作品だと言える。
ミニマルアートを代表する彫刻家のカール・アンドレが語っていたように、ブランクーシの柱が無限なのは、それを限定し、完結させる頭や足などの終点がないからだ。これは、「無限柱」シリーズの最初の作品からもはっきりと見て取れる。1918年に制作され、MoMAに収蔵されているこの作品は、オーク材でできた柱状の彫刻で高さが約203センチある。幾何学的な形を縦方向に反復させたその柱の一番上と下の部分では形が半分に切られ、それによって連続性が強く仄めかされている。まるで「世界軸(大地と天との接続点を表すシンボル)」のように、幾何学的なユニットの連なりを、上方へ、そして地下へと無限に伸ばしていけると思わせるのだ。
アンドレは、床にレンガを並べた約11.5メートルの作品《Lever》を1966年に発表しているが、これは言ってみればブランクーシの《無限柱》を水平にしたものだ。こうした無限なるものの可能性は、ドナルド・ジャッドやウォルター・デ・マリアも探求したように、モジュールで構成された彫刻に力強いダイナミズムを与えた。
異なる要素を組み合わせる統一性の追求
ブランクーシの《マイアストラ》のような、異質な要素同士を組み合わせた作品は、後進に強いインスピレーションを与えた。たとえば、ロバート・ラウシェンバーグは、MoMA所蔵の《マイアストラ》をもとに《Odalisk》(1955-58)を作っている。ラウシェンバーグの作品では、ブランクーシの神話的な鳥が普通の雄鶏に変換され、愛のモチーフはピンナップ写真によって表されている。しかし、何よりもラウシェンバーグは、この作品でまったく新しい形の構成主義とも言えるスタイルを生み出した。この作品のそれぞれのパーツにはそれぞれの役割があり、それぞれの物語がある。
1953年にニューヨークのステーブル・ギャラリーで開催されたラウシェンバーグの個展は、ブランクーシのアトリエの様子によく似ていた。会場には1台のベンチと卵の形が1つ、そして柱が1本立っており、壁には、周囲を反射するブランクーシの作品と同じように光と影によって見え方が変化する真っ白な絵が掛けられていた。インスタレーションアートを先取りしていたこの展示のアンサンブル効果は、デイヴィッド・スミスがニューヨーク州のアディロンダック山地に作った彫刻公園で、そしてジャッドがテキサス州マーファのアート拠点、チナティ財団で取り入れている。
作品から無駄な要素を削ぎ落とすことにこだわりのあったジャッドは、そのようなフォルムの源流としてジャン・アルプやブランクーシを挙げていた。ある要素を垂直に反復するジャッドの作品は、幾何学な物体を積み重ねたブランクーシの柱に通じるものがあるが、その特徴は概ね同形のユニットを連ねるというものだ。ジャッドはそれに加え、ブランクーシが自身のアトリエで試行錯誤していたように、複数の要素を組み合わせて統一的な鑑賞体験を生み出そうともしている。両者とも、集められた要素を単一のまとまりとして、統一体として、空間内に注意深く配置された1つの連なりとして、人々に鑑賞してもらいたいと考えていた。
《Architectural Project》(1918)や《The Gate of the Kiss》(1938)といった彼のほかの作品と同じく、ブランクーシの柱には建築的な性質がある。建築を人が住む彫刻として捉えていた彼は、1926年にニューヨークに到着したばかりの船から初めて摩天楼を見たとき、こう叫んだという。「まるで私のアトリエだ!(中略)動かしたり組み替えたりできるブロックやピースがたくさん並んでいて、いろいろ実験したくなる」。
彼は亡くなる前年の1956年に、約457メートルの《無限柱》をシカゴに建設する構想を発表している。それはまさに、集合住宅を組み込んだある種の生きた彫刻と言えるものだった。世界的な建築家であるフランク・ゲーリーは、どんな建築家よりもブランクーシから多くを学んだと語っているが、その言葉はブランクーシのアトリエを参考にしたビルバオ・グッゲンハイム美術館の弧を描くフォルムに明確に反映されている。
ベルクソン的な時間と持続の追求
20世紀初頭の多くの芸術家と同じように、ブランクーシは時間の概念に対しても深い関心を抱いていた。MoMAで展示された《マイアストラ》(1910-12)にもこれが表れている。ブランクーシ作品の中ではさほど有名ではないが、彼の革新的な表現が数多く含まれた彫刻だ。時間の要素は、垂直方向に視線が誘導されるその造形に明確に表れている。上部にある鳥の表面が滑らかなのに対して、下に並んでいるゴツゴツとした荒削りの人物像は今にも崩れそうで、長く打ち捨てられていた遺跡から発掘してきたかのようだ。この古代と現代が融合した彫刻によって、私たちは何世紀もの時間旅行ができる。
前述したピュトーの芸術家たちの間では、アンリ・ベルクソンの哲学が知的な支柱となっていた。『創造的進化』(1907)をはじめとする著作で、ベルクソンは私たちの知覚がどのように展開するのかを、一瞬一瞬が過去の瞬間のエッセンスを含み、同時に未来の段階の一部を含むと解説している。彼が「持続(la durée)」と呼ぶこのような進行は、一瞬一瞬を分節して考えるという、印象主義的な既存の時間の捉え方への反発だった。
私たちは古いものから新しいものへと、それを同時に経験しながら漸次的な変化を経て、1つ流れの中で進んでいく──1919年から1941年にかけてブランクーシが展開した「空間の鳥」シリーズの背後にはこうした考え方がある。ブランクーシは、ある原型から始め、微細だが明確な違いをつけながらゆっくりとそれを変形させていった。これは、彼の楕円形の頭のシリーズでも見られるプロセスだ。
時間の要素はMoMAが所蔵する《無限柱》(1918)でも明らかで、ブランクーシはその表面に荒く削り出した手作業の痕跡を残している。この作品は幾何学的な形で構成されているものの、その幾何学には非常に人間的な感触がある。
そして、ここにも相反する要素同士の融合がある。ある部分には古代の記念碑に残された落書きを思わせるイニシャルらしきものが見えるが、この作品は想像しうる限り最も現代的な作品でもあり、繰り返されるフォルムは新しい構造と安定性を感じさせる。ここでユニットの連なりが表しているのは、ジャン・コクトーが言うところの、第1次世界大戦(1914〜1918)後の「秩序への回帰」と見るべきだろう。
1916年、アポリネールなどの詩人や批評家たちは、パリで発行されていた前衛芸術雑誌SICに芸術における調和と安定を呼びかける文章を載せている。この時期は世界戦争による大量破壊への反動で、大戦前の自由奔放な抽象表現の代わりに、より良い世界をその周りに築くことができる古典的な秩序が支持されるようになっていた。
作品の明晰さと精神性の追求
溶接による直線的な彫刻が主流だった1940年代に対し、1950年代には量感への回帰が顕著になる。こうした時代の変遷の中で、イサム・ノグチだけが一貫してブランクーシのアプローチに忠実であり続けた。すなわち、ラディカルに単純化された形態、滑らかに仕上げた表面、そして動きを示唆し精神的な浮揚を志向しながらも、物質性を蔑ろにせず、重量と密度の芸術としての彫刻の特性の間でバランスを取るアプローチだ。
しかし1950年代のアーティストは、ブランクーシを避けて通ることはできなかった。ニューヨークやフィラデルフィアの美術館に作品が収蔵されるようになり、1955年にはグッゲンハイム美術館でジェームズ・ジョンソン・スウィーニー館長が企画した初回顧展が開催された。
この頃、アメリカで活動する多くの若手アーティストが、ブランクーシの美学と名声に惹かれ、パリにある彼のアトリエを訪れている。その中には、巨大な蜘蛛の彫刻で知られるルイーズ・ブルジョワもいる。キャリアの初期、垂直に要素を積み重ねるブランクーシの手法に影響を受けていたブルジョワは、彼のギザギザな形を模倣した特異な作品を作っていた。同じ時期に彼女は、「空間の鳥」シリーズを彷彿とさせる軽い単体のオブジェも数多く制作している。
しかし、おそらく最も大きな影響を受けたのは、1950年にブランクーシのアトリエを訪れたエルズワース・ケリーだろう。当時ブランクーシは新作の制作をやめ、それまでに作った彫刻を磨いたり、最高の光や順序、組み合わせで見られるように、延々と並べ替えたりすることに時間を費やしていた。アトリエを訪れた者は作品の間を移動しながら、それらが空間にどのような影響を与えているかを観察することができたという。
その時の訪問でケリーはブランクーシの造形が持つ明晰さに触発され、以降は彼のように精神性を追求するようになる。そして、鑑賞者の周りにある空間の活性化といったブランクーシの方法を指針に、絵画やレリーフ、彫刻作品を作っていった。その信念は、ブランクーシとアンリ・マティスへのオマージュとして構想され、彼の死後、2018年にテキサス州オースティンに完成したチャペルにも存分に表れている。ケリーはその背後にある意図をこう語っていた。
「形が地から解き放たれて周りの空間と確かな関係を持つようなり、形が明確さを持って部分(角度、曲線、エッジ、質量)の尺度を内包するように、そして色彩と階調によって形が空間の中に独自の居場所を見出し、常に自由と独立性を獲得できるように」
彼のこの言葉は、先進的なアメリカ彫刻の源流であるブランクーシの考えを代弁しているのではないだろうか。(翻訳:野澤朋代)
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