追悼:アメリカ現代美術の巨匠フランク・ステラ、ミニマルアートを牽引した孤高のパイオニア
戦後アメリカの抽象美術をリードし、ミニマルアートの第一人者として知られるアーティスト、フランク・ステラが5月4日、ニューヨークの自宅で死去した。87歳だった。
アメリカ現代美術のあくなき革新者
ニューヨーク・タイムズ紙の報道によると、フランク・ステラはリンパ腫の闘病中で、マンハッタンのウェスト・ヴィレッジにある自宅で死去したという。ステラが所属するニューヨークのギャラリー、マリアンヌ・ボエスキー・ギャラリーは彼の逝去を発表し、「戦後抽象芸術の巨人であるステラは、幾何学と色彩の形式的且つナラティブな可能性や、絵画とオブジェの境界を探求し、常に進化を続けていました」と功績を称えた。
ステラは、戦後のアメリカ美術界を席巻した人物であり、あくなき革新者だった。最初は多くのアーティストがそうであったように、戦後の抽象表現主義の高まりに呼応した。しかし彼はその運動から脱却し、「ブラック・ペインティング」でミニマリズムの時代への道を示した。一方で、彼は自分の作品を解釈しようとする他者の試みを全て拒否した。自身の作品について、同じくミニマリストの彫刻家、ドナルド・ジャッドに、「What you see is what you see(あなたは、そこに見えるものを見ているのだ)」と語ったことはよく知られている。
彼は1950年代から60年代にかけて、何度も絵画を再定義した。それらの破壊的なプロセスの中で、彼の作品の抽象度はゼロに近づいていたが、代わりに、目を見張るような色彩が目もくらむようなパターンで配置されるようになった。
彼はまた、絵画をキャンバスの従来の形から解き放ち、彫刻の領域へと移行させるような形の作品も制作した。以来数十年、スチール、グラスファイバー、その他の素材が無邪気に組み合わされたステラの作品は巨大化していった。
批評家たちは、1960年代以降のステラの芸術を必ずしも肯定的に受け止めてはいないものの、彼の作品が20世紀アメリカ美術史に欠かせない存在であることは誰もが認めるところだ。
2015年にはニューヨークのホイットニー美術館で回顧展が開催された。その展覧会のキュレーターを務めたアダム・ワインバーグは、同展のカタログの中で、「(ステラは)衝動性、リスクを冒す勇気、グループから離れ、自分のやり方で制作したいという願望、手近な道具を使うことへのこだわり、粘り強く問題解決する力」の点で際立っていたと書いている。
ステラは自身の代名詞的作品となる「ブラック・ペインティング」を23歳だった1959年に開始している。黒く空虚に広がる画面が、幾何学的な白い線で区切られている。その数学的論理、正確な筆致、そして主張のなさによって、「ブラック・ペインティング」は無作為性、芸術的独創性、そして人間の本質についての壮大なステートメントを有する抽象表現主義との強い決別の意を示したのだ。
「ブラック・ペインティング」は、意図的に何も語っていないように見える。しかし、同シリーズは従来のアートとは全く異なっており、それが挑発的だった。それだけではない。同シリーズの有名な作品のひとつのタイトル《Die Fahne hoch!(旗をかかげよ!)》(1959)は、ナチス党の党歌と同名だ。この不穏な共通点と、表現されているものとが明確な関係を持たないことが、作品の無感覚さを高めている。
1959-60年に開催された、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の展覧会「16人のアメリカ人」にも、ステラの《Die Fahne hoch!》と同様のものが展示された。この展覧会はロバート・ラウシェンバーグ、エルズワース・ケリーなども展示しており、ステラが注目に値する重要なアーティストであることが広く知れ渡った。
「相手に対する真の理解と尊敬がなければ、良い競争相手にはなれない」
その数年前、ステラはまだプリンストン大学の学生であり、注目されることのない、抽象表現主義の作品を描いていた。次第に彼は、抽象表現主義に関連するもの全てに疲れを感じ、絵画に対しても心が冷めはじめていた。しかし、ある種の忠誠を感じていた美術の世界から完全に離れようとはしなかった。
ステラは、エドゥアール・マネやフランシスコ・デ・スルバランの作品を参照し、そこに活路を見出した。彼はこう言っている。
「相手に対する真の理解と尊敬がなければ……良い競争相手にはなれない」
1936年、マサチューセッツ州モルデンに生まれたフランク・ステラは、デザイン学校に通っていた母親と婦人科医の父親のもと、早くから芸術への憧れを育み、暇さえあれば絵を描いていたという。ステラは同州アンドーヴァーにある名門ボーディングスクール、フィリップス・アカデミーに通い、当時はとくに仲が良かったわけではないがのちに親友となるホリス・フランプトンやカール・アンドレたちとともに美術の授業を受けた。
当時のステラは、美術を職業として考えていなかったため、フィリップス・アカデミーを卒業後はプリンストン大学歴史学科へ進学し、中世を専攻した。しかし同時に美術史の授業を取ることができたため、ヨーロッパの絵画とニューヨークの現代美術の発展についても学び、1958年に卒業した。
同じ年、ステラはニューヨークのレオ・カステリ・ギャラリーでジャスパー・ジョーンズのフラッグ・ペインティングを目撃する。これに度肝を抜かれた彼は、まもなく「ブラック・ペインティング」を始め、カステリの勧めで前述のMoMAの「16人のアメリカ人」展に出品することになる。
さまざまな素材や技法に挑戦し続ける「恐れ知らずな芸術家」
「ブラック・ペインティング」は非常にリスキーな作品だったが、その後もステラが攻めの姿勢を崩すことはなかった。彼が次に挑戦したのは、アルミニウム塗料。油絵の具とは異なりそれまで美術の材料とは考えられていなかったが、ステラは「安く手に入る」という理由で採用したと語っている。
恐れ知らずな芸術家であったステラは、60年代には、四角形のキャンバスではなく弧やジグザグとしたラインに変形されたキャンバスを用いた「シェイプト・キャンバス」シリーズに着手し、「ブラック・ペインティング」で実践したストライプの構図を踏襲しながらも、ダークな色調をドラマチックな色彩に置き換えている。このシリーズの中でも頂点と言えるのが、60年代後半の「分度器シリーズ」だろう。半円形のキャンバスを組み合わせ、オレンジ、黒、青などのときに交差し合う大胆なラインで埋めたシリーズだ。
当然、ステラがこれに固着し続けることはなく、再び全く異なる方向へと舵を切ることになる。バロック絵画と彫刻のハイブリッドを目指した彼は、「シェイプト・キャンバス」の奇妙な輪郭を補完するかのように様々な要素を立体的に加えた。80年代に制作したハーマン・メルヴィルの小説『モビー・ディック』に着想を得たシリーズでは、抽象的な要素で構成された波のような形体を描くこともあったが、大半は具象的ではなかった。
しかし、こうした作品をまじめに評価する人は多くなかった。例えば美術史家のダグラス・クリンプは、これらの作品に対し「純粋なバカバカしさ」というレッテルを貼り、「どの作品も、癇癪を起こし、叫び声を上げ、絵画はまだ終わっていないのだと喧伝しているように見える」と書いている。
こうした評価がステラの自尊心を傷つけたかというと、そうではなかったようだ。彼は2015年のUS版ARTnewsの取材に対し、「私は、批評家と美術史とともに生きてきたし、その世界しか知らなかった」と語り、こう続けている。
「良いときもあれば悪いときもある。そんなものだ。それが彼らの仕事であり、私には私の仕事がある。だから全く気にしていないよ」
ステラは最後まで巨大な作品を制作し、中にはデジタル技術を駆使したものもあった。彼の興味を捉えたオブジェクトをスキャンして、徐々に巨大化させていったのだ。
かつて多くに「絵画を殺そうとしている」と批判された画家がこうした作品を制作するのは、奇妙なジェスチャーのようにも見えなくもない。しかし、これらの作品はすべて、私たちの現実に触れてみたいという願望によって結びつけられている。例えば、彼がスキャンしたものの中には、ニューヨーク植物園で偶然見つけた種子のように、自然の中で出合ったものも多い。彼の「ブラック・ペインティング」もまた、そのメディウムを地上に引き戻すことを意図していた。アルミニウムの絵の具を使い始めた理由について彼は、「人生の事実」に興味があったからだとも語っている。
from ARTnews