ARTnewsJAPAN

悲劇の英雄スパルタクスとローマ将軍の戦場跡を発見。ローマ時代の主流防御壁を採用した痕跡も

奴隷開放のために反乱を起こした、共和政ローマ期の剣闘士スパルタクスの軍勢とローマ軍の戦場跡と見られる遺跡がイタリア南部の森の中で見つかった。

イタリア・ドッソーネ・デッラ・メリアの森の中で発見された、スパルタクスの軍勢とローマ軍の戦場跡と見られる遺跡。Photo: Andrea Maria Gennaro, ET AL.

イタリア南部カラブリア地方にあるドッソーネ・デッラ・メリアの森の中で、地元の環境保護団体が調査中に石が積まれた壁のようなものを見つけた。この情報を受けたケンタッキー大学の考古学者パオロ・ヴィソナ率いるチームは、地中レーダーや、航空機からのレーザーマッピング、磁気測定、土壌コアサンプリングなどで石の壁の近辺を調査。その結果、全長およそ2.7キロに及んで石の壁が延びていることが判明した。そして、かつては石の壁と平行に深い溝が掘られていたことも分かった。

この構造は、フォッサ(溝)とアッガー(堤)からなる防御システムとしてローマ時代にはメジャーなもので、紀元前52年、ローマ帝国創設者として知られるユリウス・カエサルが現在のフランスにあるアウァリクムを包囲した有名な戦いにも採用された。

防御壁として使われていたという説について、発掘に携わったイタリア文化省の考古学監督官、アンドレア・マリア・ジェンナーロは、Live Science誌に次のように話した。

「石壁は広大な平地全体を2分していました。これらの溝や壁が配置された場所や、門がないことなどから、壁は防御壁の役割を果たしていたと考えられます」

この防御壁について考古学者たちは、共和政ローマ期の剣闘士奴隷スパルタクスと約70人の剣闘士奴隷がカプアの養成所を脱走し、自由を求めて紀元前73年から71年にかけて起こした第三次奴隷戦争の際、紀元前71年にローマの将軍マルクス・リキニウス・クラッススがスパルタクスの軍勢を封じ込めるために築いたものだと断定している。スパルタクスとその部下たちはこの戦争で何度も敵軍を打ち負かし、ローマ軍は手を焼いていた。

その状況は、ギリシャの哲学者プルタークによる『クラッススの生涯』など、何冊もの書物に記録されている。 ジェンナーロは、「この障壁は、スパルタクスとその軍勢を罠にかけ封じ込めるために、クラッススが建てたと特定できます。シチリア島へ進軍しようとしたスパルタクス軍は、ローマ軍がいたため海岸沿いの道を進むことができず、アスプロモンテ山を越えるしかなかった。その経路にクラッススは罠を仕掛けたのです」と当時の状況を語った。

さらに、アメリカ考古学協会によれば、石の壁付近からは剣の柄、曲がった大きな刃、槍の穂先など、壊れた鉄の武器がいくつか発見された。専門家は、スパルタクスの軍隊はクラッススの罠を突破するために壁を破壊しようとし、そこで戦闘が起こったと考えている。ジェンナーロは、「私たちは回収された武器を調査していますが、共和政後期のものに最も似ています。私たちは戦闘現場を特定したと考えています」と話した。

その後スパルタクスの軍は紀元前71年のカンテナの戦いで殲滅され、彼は戦死した。当時、ローマ人にとってスパルタクスはローマの秩序を脅かし、そして打ち滅ぼされた敵であり、彼を大義のために戦った英雄として扱うような古代の著作は存在しなかった。しかし近代以降、スパルタクスの名は解放を求める労働者階級の象徴となり、社会主義者・共産主義者の偶像的存在となっていった。(翻訳:編集部)

from ARTnews

あわせて読みたい