捉えどころのない感情や欲求を喚起するような表現にたどり着きたい──石塚源太と漆との対話

いま日本では、伝統工芸と現代アートをつなぐ試みが各所で行われている。11月2日から5日に京都で開催される「日本の美術工芸を世界へ 特別展『工芸的美しさの行方―うつわ・包み・装飾』」もその一つ。本展の参加アーティストであり、京都・亀岡市を拠点に活躍の舞台を世界に広げる石塚源太に話を聞いた。

漆を用いた彫刻作品で知られる石塚源太が京都駅から電車で約30分、そこから車で約30分ほどの場所に自身のスタジオを構えたのは2022年のこと。霧の町としても知られる京都府亀岡市の自然に囲まれた大きな倉庫が、彼の基地だ。ガラガラとシャッターを開け、スタジオの中から外を眺めると、雄大な、とか、美しい、といった言葉ではこぼれ落ちるものがありすぎる野趣あふれる風景が目の前に広がっている。

「工芸って、その土地の風土に培われてきたもの。日本語のガサガサ、サラサラ、ちくちく、といった擬音語を介して共有し合うような感性に似た表現が、そこにはあると思うんです」

2019年に「ロエベ ファンデーション クラフト プライズ」大賞を受賞したことを機に、発表の舞台を世界に広げた石塚は、現在42歳。ドローイングや資料、書籍が積み重ねられたデスクに、漆を塗ったり研いだりするための作業台、造形するための一角に漆を乾かす手作りの漆風呂など、作業内容ごとにゆるやかに区分けされた使いやすそうなスタジオで、彼の創作の源泉に触れた。

スタジオの棚には、古い民間仏や漆器が並ぶ。

──スタジオの棚に並ぶ多数の素朴な仏像は、石塚さんが収集されているものですか?

ぼくは貴族や将軍など位の高い人たちが使っていたような雅な工芸品ではなく、その土地の大工たちが作ったであろう民間仏のような庶民が生活の中で使っていたものに共感するんです。これらの民間仏の造形は現在の私たちからすると、想像もできないユニークなものがあり、つくり手として刺激されます。ものをつくる根源的な部分が形になっているような気がして、少しずつ集めているうちに増えていきました。

──一方で、石塚さんの作品は、庶民の生活の中にあるものとは大きくかけ離れた存在です。どんなふうにつながっているのでしょう?

そもそもぼくが美大(京都市立芸術大学)に進学したのは、アーティストになりたかったからではなく、ものを作ることに興味があったからです。とくに家具や器を作ってみたいという動機から工芸科に入学し、その後選択した漆工科で出合った漆という素材に魅了されました。漆を扱ううちに、用途性のある道具や家具よりも、自分の表現を追求することへの関心が強くなっていったのですが、変わらずぼくのものづくりの根幹にあるのは、ものを介した人間同士のコミュニケーションなんです。だから、それが生活道具であろうとアート作品であろうと、人と繋がるためにものづくりをしているという点で、ぼくにとっては同じなのだと思います。

漆を塗っては乾かし、研ぎ石や研ぎ炭で研ぐという工程を何度も繰り返していく。
塗りを行う作業台。

──スタジオには古い漆器もたくさんありますね。こうした道具から具体的なインスピレーションも得たりするんですか?

これらの漆器が長い年月を経てどんなふうに変化してきたのか、漆の歴史的な側面や素材としてのあり方に思いを馳せることは、同じ漆を扱う者として参考になりますし、100年後の自分の作品のありようを想像する一助にもなっています。例えば古い漆器で「根来(ねごろ)」と呼ばれる表情があります。これは、下地の黒漆の上に朱漆が塗られたものが、経年変化で朱漆が次第に剥げていって下地が露出してきたものです。その状態を「傷」と捉えることもできるのですが、かつて茶人たちの中でそれが風合いとして高く評価されました。こうした古い漆器から着想を得て、長い時間をかけて表面に起こる漆特有の現象を塗りで表現する試みに挑戦したりしています。

──漆だからこそ起こり得る現象にどう近づいていくか、ということ?

漆は古くからある素材であり、その色味や質感が親しまれてきたと思います。そのような潜在的にある漆のイメージにアプローチできればと思っています。漆そのものの特性に矛盾のない技法、つまり塗り重ねたり研いだりという非常に基礎的なアプローチを用いることが、漆のリアリティや生々しさを表現できるんじゃないかと思うんです。その中で自分の視点を見つけて、驚きや新しい素材の表情を提案することが、自分には合っている気がします。

石塚作品はそのユーモラスなかたちゆえ、今にも動き出しそうな「陽気な」臓器のようにも見える。

──石塚さんの作品に近づくと、ぬるりとした質感と捉えどころのない色味が相まって、吸い込まれそうになります。こうした色の表現は、どこまでが意図でそうでないのか……。

もちろんどの作品にも構想があり、実験などを重ねて作り上げていくので、「ここに辿り着きたい」という意図やそのための計画はあります。でも、最終的には、塗っては研ぎ、加減を見てまた塗っては研ぎ……という身体性をともなう作業を繰り返す中で起きていく現象の結果として、意図を超えた作品が出来上がっていくことの方が多いかもしれません。

以前、液体の塊のような作品を作ったことがあるのですが、その作品をご覧になった方が、「唾が湧いてきます」とおっしゃったんです。人は作品を見るとき、それが「何であるのか」をロジカルに理解しようと努めることが多いと思うんですが、生理現象を誘発するような、本能的な欲求を触発するような作品って面白いなと感じました。工芸の素材は生活の中で培われてきたので、人々の中に素材に対する経験や接触が刻まれていて、それが無意識に働きかけるのかもしれません。

──それには漆の表情と造形とのバランスがとても重要な気がします。石塚さんの作品はアイコニックなかたちを持っていますが、一見するだけでは硬いのか柔らかいのか、あるいは動いているのか止まっているのかもわからない。まるで生きている肉塊のようにも見えて、想像力を掻き立てられます。 

作品の造形は、ネットに複数のみかんが入って売られている姿に着想を得て生まれたものです。中のみかんが他のみかんとぶつかり合ってボコボコと押し出されている状態、内と外のせめぎ合いのような関係性が面白いなと思いました。自分の作品ではみかんを発泡スチロールの球体に置き換え造形をしています。造形する際に気をつけているのは、360度ぐるりと見たときに、どこにも破綻がなくつながっているということと、具体的な「何か」に似ていないかということ。けれどもそれが「何か」を想起させるような「もの」を作ろうとしているんだと思います。

そういった得体の知れなさ、きれい/グロテスク、好き/嫌いなどの印象を超えた先にある、どこか定義できない感情をかき乱すような要素は大切にしています。

発泡スチロールなどで作った素地の上に糊漆で麻布を貼り固めて成形する。
「最近は作品のイメージ、記録する意味合いもあり、ドローイングするようになりました」と石塚。

──これほどまでに情報に溢れた時代を生きていると、自分がこれまでに出会った、あるいは知っている何ものにも見えない「かたち」を生み出すのは、なかなか骨が折れそうです。

石ころのような自然の造形には矛盾がなく、自立してバランスを取っている。そういう状態が、かたちとしての必然性なのかなと思うんです。だから、何かに似せたり、作業しやすいかたちにするのは作家のエゴなんじゃないか。できる限り、そのエゴを削ぎ落として、ただそれ自体の存在であってほしいという思いがあります。20代の頃は、即興的にそうしたものを生み出せるようになりたいと考えていましたが、造形をやり続けることで、少しずつできるようになってきたところです。時間をかけて向き合い続け、緻密な訓練を経てこそ手に入れられるものがあるのだと実感します。壁掛けの作品も実はもともとは他の作品同様に360度立体で、その一部をスライスした状態なんです。

今は比較的大きなサイズと向き合っている最中です。自分の許容範囲を超えるものを扱うことはなかなか身体的にもしんどいですが、人は自分の体を基準にものごとを捉えていると思うので、知覚をより良く理解するために必要なプロセスだと感じています。

──工芸の作法や決まりごとから逸脱せずに、それを超えていく試みのように感じました。クラシックの名作に立ち向かう音楽家のような。

そういう制限の読み解きが面白いんです。それには逸脱の可能性も含まれると思いますし、さあどうぞ、なんでも自由に作っていいですよ、という無条件下での制作では到底たどり着けないものがある気がします。今後の課題としては、「引き算の妙」をいかに手に入れていくか。60〜70代になって、大きな作品を制作することが肉体的にも難しくなったとき、自分は手のひらサイズで何がつくれるんだろうと想像します。小さな物体の中に大きな宇宙を表現するには、引き算の美学に到達しないとできませんから。

Photos: Hirotsugu Horii Text & Edit: Maya Nago

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