あなたにとって「健康の絵」とは? 科学とアートを行き来する企画展から考える【医療とアートの最前線 Vol.2】

人の心を動かすアートを医療現場に採り入れることで、患者や医療従事者のウェルビーイングを向上させようという動きが世界で広まっている。その取り組みをロンドン在住のジャーナリスト、清水玲奈がレポートする連載「医療とアートの最前線」。第2回は、ロンドン市長から医療関係者、パン職人まで、さまざまな人が寄せた「健康の絵」をまとめたプロジェクトについて。

台湾生まれの医学生、ジェリー・イー・チャンが寄せたドローイング。©Jerry Yi Chang

そもそも、誰かについて「the picture of health」と言えば「健康そのものの人」という慣用表現だ。その表現を文字通りに捉え、「あなたにとってのpicture of health(健康の絵)とはどんなものですか」と尋ねた企画が「A Picture of Health」だ。プロジェクトにはアーティストや詩人のほか、医療スタッフや研究者、介護者、政治家、銀行員、ダンサー、シェフ、スポーツのコーチなどさまざまな職業の105人が参加し、顕微鏡写真からポートレート、抽象画まで多彩な作品を寄せた。

例えば、ロンドン市長のサディク・カーンが選んだのは、ロンドンのトラファルガー広場にたたずむ自分の写真だ。「過去2年間は厳しい時代で、友人や家族に会うこともままならず、ロンドンというすばらしい都市に暮らしていながら好きな場所に出かけたり、好きなことをしたりする自由がなかった。だから今、ロンドンという都市の価値を改めて考えさせてくれるような写真を選んだ」と書いている。

また、医師のアスナ・アフガンは、かつてプロのやり投げ選手であった65歳の父親が、地元の森林公園で大きな枝をやり投げのように投げている写真を撮影した。コロナ禍で最も厳しい状況にあった頃、毎日散歩に出かけていた公園で撮影し、糖尿病を患って痩せた父親が、思わぬ力強さを見せている様子をとらえたという。

医師のアスナ・アフガンが寄せた作品。モデルはアフガンの父親だ。©Asna Afghan

「A Picture of Health」の作品集は、2022年12月に本とオンライン展示のかたちで完成。2023年1月には、作品の一部を集めた展覧会が、プロジェクトを主催したロンドン医科学研究所(London Institute of Medical Sciences:LMS)で開催された。オンライン版は現在も公開されており、ショートフィルムや音楽、朗読の映像も含めた全作品を楽しめる。

 「想像を超えるような作品が集まり、『健康の絵』というフレーズの解釈の幅広さに驚きました。美しく平和な風景もあれば、健康の尊さを逆説的に思い出させてくれる挑戦的なイメージもあります」と、LMSでプロジェクトキュレーターを務めるリンゼイ・ゴフは語る。なお、同展のキュレーションにはゴフのほか、作家で映画監督のキキ・フォン・グラソー、映画プロデューサーのアンドリー・モリニューが加わっている。

アートを通じて健康をとらえなおす

「作品からは参加者たちが私たちの依頼を真摯に受け止め、時間をかけてプロジェクトに取り組んでくれたことが伺えます」と、ゴフは振り返る。

その背景にあるのは、企画の発案当時にはほとんどの人が予測していなかった新型コロナウイルスのパンデミックだ。誰もが健康の大切さを実感したのはもちろん、ロックダウン中に時間ができたことで、自然とアートに親しんだり自ら制作をしたりする人が増えた。

「アートは自分の考えや思いを表現したり、コミュニケーションをとったりするのに最適な方法であり、これらは人間の健康にとって重要な行為でもあります」と、この企画の発案者で、オックスフォード大学トリニティ・カレッジの生化学研究者でもあるアマンダ・フィッシャー教授は語る。「パンデミックをきっかけに『健康の価値とは何か』『健康とは何か』『健康のためには何が必要か』といった問題意識が高まりました。このプロジェクトで集まった回答には個人の健康に加え、健全なコミュニティや地球環境についての考察や願望も表れています」

企画の監修にあたった医学・科学ジャーナリストのスーザン・ワッツもこう語る。「コロナ禍を経て、誰もが自分のウェルビーイングや周囲との関わりにもっと気を配るようになり、より健康的な生き方をするようになったように思います。それでも、私たちが健康に対してもつイメージは人それぞれ異なります」

彫刻や写真が表現するそれぞれの「健康」

キュレーションについて、ゴフはこう振り返る。「ページをめくったときのコントラストを意識して、どの作品をどの順番で並べるかを決めるのも楽しい作業でした。バラエティに富んだ内容でありながら、『これは私にとっての健康のイメージ。あなたは?』というささやきによって、すべての作品がつながっているのです」

今回集まった作品のなかには彫刻作品もある。ケンブリッジ大学の生化学者ジェーン・グダールと作家クレア・グダール姉妹、そして『遺伝子学者が教える ケンブリッジ式絶対真実のダイエット』〈扶桑社〉の著者である遺伝子学者のジャイルズ・イオが共同制作した《Making Connection》だ。同作は食欲、食物摂取、報酬に重要な脳とその部位を繊細な彫刻に表現した作品で、3人はその制作過程を収めたショートフィルムも発表している。

ケンブリッジ大学の生化学者ジェーン・グダールと作家クレア・グダール姉妹、遺伝子学者のジャイルズ・イオが共同制作した《Making Connection》。©Jane Goodall, Giles Yeo and Clare Goodall

また、台湾生まれの医学生であるジェリー・イー・チャンは、色鉛筆によるドローイングを寄せた。人間を「年齢やジェンダー、民族、感情など身体的、文化的、感情的に多様なスペクトラムでありながら、互いにつながり合っている存在」として描き、未来の医療でホリスティックなアプローチを実現したいという医師の卵としての願望を表現したという。同作は「A Picture of Health」プロジェクトのテーマ画像として採用された(冒頭画像)。

イラストレーターのウィリアム・ランキンは、ザクロの裂けた皮から無数の実が弾けるようにのぞいている様子を描いた水彩画を寄せた。解説文では、古代ギリシャからキリスト教の図像学、そして鬼子母神伝説まで、古今東西でザクロが多産の象徴とされてきた事実を辿っている。

アートと医学との関係に常に興味を持ってきたとランキンは話す。「レオナルド・ダヴィンチによる解剖図は、高い芸術性と科学性が同時に備わっています。崇高なデッサンと画期的な医学研究が融合しているのです。自分の絵も、自然を観察し、研究するという制作のプロセスに重点があります。これは突き詰めれば医学と同じ視点です。絵画やデッサンは、瞑想や分析のツールであり、研究対象を探求し理解するための方法なのです」と語る。

イラストレーターのウィリアム・ランキンによる作品。©William Rankin

パン職人ロバート・ハニンガーが寄せたのは、写真家アンドレア・ジョージが撮影したパンをこねる職人の手の写真だ。ハニンガーは東ロンドンで有名なベーカリーを営むかたわら、コロナ禍では貧しい人たちのための無料レストランを設立し、30万食を提供した。彼は作品解説でこう語っている。「パンは健康の象徴。健康な穀物が粉になり、健康な酵母によってパン生地になり、オーブンで焼かれる。家族や友人どうしで囲む食卓で、パンは何世紀にもわたってなくてはならない存在だった」

「パンをこねる職人の手の写真が、『健康の絵』の最も普遍的な含意である人間の日常生活を簡潔に伝えている」と、ゴフは解説する。©Andrea George

絵や写真が続く中で言葉による異色の参加作品となったのが、詩人のマイケル・ローゼンによる詩「I am being made better(ぼくは健康を取り戻させてもらう)」だ。2020年春に自分がコロナウイルスに感染し、集中治療室で昏睡状態から回復した体験を綴っている。

医療スタッフへの感謝と、自らの健康についての思いを込めた作品についてフィッシャーは「とりわけ強いインパクトがあります。医療関係者をはじめすべての人にとって啓発となる作品です」と語る。

科学とアートの共通点

同企画の制作にあたり「コミュニティを構成し、そこでさまざまな貢献をしている有名無名のありとあらゆる立場の人たち」に協力を求めたと語るワッツは、参加者の顔ぶれと作品の多様性について作品集の序文でこう述べている。

「コレクションには論理的な構成はない。(略)科学ジャーナリズムのバックグラウンドを持つ私にとって、コレクションを構築したプロセスは、やや迷走しているように感じられる。目次のない本は、いつも秩序を求めている私のポリシーに反するのだ」

その上で、ワッツは「人生というものは雑多で、予測不可能で、分類されることに抵抗する。時に構造を押し付けることを控えた方がいいこともある。ここに現れたのは静かな美しさだ」と結論づける。

2007年から21年までLMSのディレクターも務めていたフィッシャーは、分野を超えたコラボレーションについてこう語る。「科学とアートには多くの共通点があります。例えば、創造性への渇望や、他者と関わり合いたいという欲求です。かつて、偉大な科学者の中には偉大な芸術家もいましたし、その逆もまた然りです。この企画には、今日、職業がより専門的になるにつれて失われがちな学際的な交流やより広い視野での思考を促したいという狙いがありました」

集まった多彩な「健康の絵」からは、個人の身体的な健康を超えて、健全で公平な社会の中で多様な人たちが関わりあって全体像の中でウェルビーイングを実現することが大切だというメッセージが感じられる。

コロナ禍は、どんな人にとっても健康の大切さを改めて考えるきっかけとなった。医療やアートのプロでなくても、自分にとっての「健康の絵」とはどんなものかを考えてみてはどうだろうか。

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