謎の古代遺跡かSFか、はたまたディストピアか。代表作家から紐解くランドアートの歴史
ランドアートを実際に見たり、体験したりしたことのある人は少ないかもしれない。アースアートやアースワークスとも呼ばれるこのジャンルは、1960年代の終わり頃からアメリカを中心に発展してきた。その主要作家と作品を通してランドアートの世界を見ていこう。
ランドアートと野外彫刻の違い
ネバダ州の砂漠地帯にあるアメリカ空軍の施設「エリア51」からほど近い場所に、現実とは思えない巨大建造物が忽然と姿を現す。低木の茂みに覆われた谷間に位置し、全長約2.4キロ、幅約800メートルにも及ぶこの場所に連なっているのは、想像を絶する量の土や砂利、コンクリートを固めたり平らにならしたりして作られた小高い丘、土手、窪地や道路などだ。両端にそびえ立つブルータリズム的な構造物は、まるでどこか別の惑星のインターチェンジのようで、ヒストリーチャンネルのドキュメンタリー番組「古代の宇宙人」のワンシーンを思わせる。
ランドアーティストのマイケル・ハイザーによるこの作品は、《City(シティ)》と名づけられている。50年の歳月と4000万ドル(直近の為替レートで約60億円、以下同)の資金をかけて建設された壮大なもので、ハイザーがパイオニアの1人として開拓してきたランドアートの大きな転換点とも言える画期的な業績だ。
そもそもランドアートとはなんだろう? 野外彫刻が場所の移動が可能な作品を指す一方、ランドアートは特定の場所に存在するサイトスペシフィックなもので、他の場所には存在し得ない。この分野は1960年代後半から70年代初頭に登場したが、同じ時代のアート界には初期の環境保護運動や、制作から販売にいたるシステム全体を否定するカウンターカルチャーが生まれている。中でも、土や砂といった自然の物質を用いるランドアートは、都市環境から最も遠いところにあるという点で、この頃の時代精神における最も先鋭的な表現だったと言えるだろう。
ランドアートの成立に影響を与えた古代遺跡
ランドアーティストたちの着想源になったのは、ペルーにあるナスカの地上絵、グレート・サーペント・マウンドと呼ばれる蛇の形をしたオハイオ州の形象墳、イギリスのストーンヘンジなど古代の巨大プロジェクトだった。つまり、ランドアートの成立を支えたのは、前衛主義だけでなく過去の遺産でもある。マイケル・ハイザーやロバート・スミッソン、そしてその妻のナンシー・ホルトなど数多くの作家は、制作にあたってこうした先史時代の巨石、地上絵、古墳を手本にした。
彼らの作品には、遠い過去から時間を飛び越えて来たように見えるものが少なくない。そこにあるのは、一種の考古学的フューチャリズムとも言える。また、ハイザーの父親がカリフォルニア大学バークレー校で先史時代の巨石文化を研究する教授であったことや、スミッソンとホルトがともに古代遺跡マニアだったことも影響しているだろう。
ハーヴェイ・ファイトとヘルベルト・バイヤー
20世紀中盤に生まれたランドアートの先駆者と言えるのが、ハーヴェイ・ファイト(1903-1976)とヘルベルト・バイヤー(1900-1985)だ。
1938年、ニューヨーク州北部のバード大学で教鞭をとっていたファイトは、近くの町に5ヘクタール近くある土地を購入。そこには、放棄された青石(*1)の採石場を囲む森林地帯があった。彼の当初の目的は、《Flame(炎)》などの彫刻作品を設置する階段状の庭園を、採石場跡に造成することだった。しかし、スロープや台座、テラス状の構造など作るうちに、ファイトはその場所自体が独自の芸術作品へと進化していることに気づく。
*1 青灰色の硬い砂岩。舗装や建築に使われる。
造成途中の粗削りな外観のまま、彼は彫刻作品の代わりに加工していない岩でできた抽象的な石柱を設置。1960年代には、面積2.6ヘクタールのこの作品に《Opus 40(作品40)》というタイトルをつけた。その数字は、完成までにかかる年数を表している。しかし1976年、目標の年まであと3年を残し、ファイトは制作途中で死去した。
オーストリア生まれでバウハウス出身のグラフィックデザイナー、画家、写真家、彫刻家であるヘルベルト・バイヤーは、1954年にコロラド州アスペンで《Earth Mound(土塁)》を制作。円形の土手で囲われたこの作品の直径は約12メートルあり、内側はクレーターのように窪んでいる。そこには巨石と作品名の由来となった盛り土が配置され、全体を草が覆っている。この作品の写真は、ギャラリストのヴァージニア・ドゥワンが1968年に開催した展覧会、「Earth Works」で展示された。
ランドアートに見られるアメリカ的な特徴
ランドアートが初期から持つアメリカ的特徴に、自然の景観美を絵画的な視点で捉えるという歴史的側面がある。ランドアートはアメリカでのみ発展したわけではないが、最も盛んに制作が行われたのは、アリゾナ州、ネバダ州、ニューメキシコ州、ユタ州の砂漠地帯だ。この地域は特に、アメリカの西部開拓の歴史と結びついている。
ハイザー、スミッソン、ホルト、そしてウォルター・デ・マリアやジェームズ・タレルといったアーティストたちは、アルバート・ビアスタットのような19世紀アメリカの画家たちと同様に、西部開拓時代の辺境をロマンたっぷりに表現する伝統を、それぞれのやり方で発展させていった。
マイケル・ハイザーとロバート・スミッソン
ランドアートの発展に大きく貢献したのがマイケル・ハイザー(1944-)とロバート・スミッソン(1938-1973)だ。ハイザーの初期作品には、カリフォルニア州のシエラネバダ山脈で幾何学的な形の穴を掘った《North, East, South, West(北、東、南、西)》(1967)がある。また、1969年にネバダ州オーバートンの北西で《Double Negative(2本の溝)》を制作。これは、メサ(卓状台地)と呼ばれる急峻な崖と平坦な頂部からなる地形に、500メートル近くもある真っ直ぐな2本の溝を掘ったもので、幅約9メートル、深さ約15メートルの溝は、2つの断崖に挟まれた「何もない空間」を作り出した。
一方、ランドアートの中で最も象徴的な表現とされるのが、スミッソンの《スパイラル・ジェティ(Spiral Jetty:螺旋状の突堤)》(1970)だ。ユタ州グレートソルト湖の北東岸から突き出たこの作品には、6650トンもの泥、塩の結晶、玄武岩が使われ、岸から湖の中へと伸びる盛り土が次第に反時計回りの渦巻きを形成する。幅約4.6メートル、全長約457メートルもの巨大作品で一躍スターになったスミッソンだが、ハイザーは自分のアイデアを盗んだものだと主張した。
しかし、大地に壮大なスケールで図形を展開することがハイザーの主な関心だったのに対し、スミッソンの主眼は時間軸にあった。彼は自分の作品をエントロピー増大の概念、つまり物事は放っておくと無秩序な方向に向かうという考え方と結びつけていた。《スパイラル・ジェティ》の場合、1972年以降湖の水位が上昇し、2002年に水位が下がるまでの30年間にわたり水没していた。
スミッソンの美学は、コンセプチュアル・アートの《The Monuments of Passaic(パセーイクのモニュメント)》で示されているようにディストピア的だ。この作品は、スミッソンが自分の生まれ故郷であるニュージャージー州パセーイクの工業地帯や郊外を巡り、さまざまな風景をインスタマチックカメラで撮影したフォトエッセイで、アートフォーラム誌の1967年12月号に記事として掲載された。撮影された景観は儚いポストモダンの荒野とも言うべきものだが、通常は恒久的なものとされる「モニュメント」というタイトルとの皮肉な対照を感じさせる。
また、「Site/Non-Site(サイト/ノンサイト)」と「Mirror Displacements(鏡による変位)」という2つのシリーズでは、場所の特異性に影響を与える力がテーマになっている。前者はニュージャージー州の各所で集められた岩や砂、壊れたコンクリートなどを箱に詰めたもので、収集した場所の写真と地図が添えられている。この作品でスミッソンは、ギャラリーという「時間を超越した」空間を現実の場所と結びつけることで、拾ってきた物とそれがあった場所との距離を埋めようとした。後者のシリーズは、イギリスやユカタン半島で屋外に設置した鏡を撮影したもの。鏡は周囲の環境を映し出し、屈折させ、本来は堅固なものである風景を変容させている。
ウォルター・デ・マリア
ウォルター・デ・マリア(1935-2013)とジェームズ・タレル(1943-)の2人も、ランドアートの進化を語るうえで欠かせない存在だ。
デ・マリアは、ミニマリズムの厳格な幾何学的構造に基づく作品を制作した。初のランドアート作品《Mile Long Drawing(1マイルのドローイング)》(1968)では、カリフォルニアのモハベ砂漠に約3.6メートル間隔の平行線を1.6キロ(1マイル)にわたってチョークで描いている。1977年には、代表作となる3作品を発表。1つ目の《The Vertical Earth Kilometer(垂直な地中の1キロ)》は、長さ1キロ、直径5センチメートルの金属の棒をドイツ・カッセルにある公園に埋め込んだもので、棒の先端だけが地表に見える。2つ目は、ニューヨークのソーホーにあるビルの約330平方メートルのロフトに、7立方メートルの土を55センチの深さまで敷き詰めた《The New York Earth Room(ニューヨークの土の部屋)》。そして3つ目は、デ・マリアの最も有名な作品、《ライトニング・フィールド(The Lightning Field:稲妻の平原)》だ。
ニューメキシコの砂漠で制作されたこの作品は、東西約1.6キロメートル、南北1キロメートルの範囲に埋め込まれた400本のステンレススチール製のポールで構成される野外インスタレーション。各ポールの直径は約5センチだが、高さは約4.5から8メートルまでさまざまで、地形に起伏があっても各ポールの先端が完全な水平面になるよう設置されている。ただし作品タイトルとは裏腹に、これらのポールに雷が落ちることはほとんどない。
ジェームズ・タレル
デ・マリアと並ぶランドアートの巨匠、ジェームズ・タレルは、カリフォルニアで興ったライト&スペース(*2)ムーブメントのキーパーソンだった。ミニマリズムはオブジェそのものに重点を置いていたが、見ることだけでなくその場の光や空間を体験するインスタレーションへと変化させたのがライト&スペース運動だ。タレルは、光とそれを投影する紗幕を使い、何もない空間からインスタレーションを魔法のように生み出す。また、風雨にさらされる天井に開口部を作り、そこから切り取られた空が見える部屋のシリーズもよく知られている。この「スカイスペース」シリーズの頂点が、超大作《ローデン・クレーター(Roden Crater)》だ。
*2 光と空間の相互作用を探求するアート。オプティカル・アート、ミニマリズム、幾何学的抽象などがゆるやかに連動する芸術運動として、1960年代に南カリフォルニアで始まった。
《ローデン・クレーター》は、アリゾナのペインテッド砂漠にある40万年前の死火山の火口を利用した巨大な作品で、全長4.8キロ、高さは1.6キロに及ぶ。タレルが1977年にこの土地を購入して以来、制作が続いているこのプロジェクトでは、クレーターの地中に古代の天文台のような空間がいくつか設置されている。これらの部屋は東西の軸に沿ってトンネルで結ばれ、空に開かれた礼拝堂のような部屋からは、太陽、月、星の動きを肉眼で観察することができる。たとえば、中央に位置する「クレーターズ・アイ」はローマのパンテオンのような円形の構造で、頂部には円形の天窓があり、太陽の光が1日中その周囲を動いていく。また、「太陽と月の部屋」は巨大なカメラ・オブスキュラ(*3)になっており、天空を通過する太陽と月の像が大理石の板に投影されるようになっている。
*3 ラテン語で「暗い(オブスキュラ)部屋(カメラ)」の意。光を遮断した真っ暗な部屋の壁に開けた小さな穴から光を取り込み、外の景色を部屋の内壁にさかさまに映し出す装置。
天文現象と大地の関係を探求する作品群
《ライトニング・フィールド》も、《ローデン・クレーター》も、人類が何千年もの間、天空やそこで起きる現象に強く心を惹かれてきたことを物語っている。それと同じ好奇心を表している作品の1つが、ナンシー・ホルト(1938-2014)の《Sun Tunnels(太陽のトンネル)》だ。
ユタ州のグレートベースン砂漠で1973年から1976年にかけて制作されたこの作品は、コンクリート製の4つの円筒で構成されており、各円筒の重量は22トン、長さ約5.5メートル、直径は2.7メートルある。開口部から夏至と冬至の間の日の入りが覗けるよう、X字型に並べられた円筒には小さな穴が開いており、太陽や月の光が差し込むと、それぞれペルセウス座、りゅう座、はと座、やぎ座の形が内部に投影される。
チャールズ・ロス(1937-)の《Star Axis(星の地軸)》にも、《ローデン・クレーター》に近い規模感と意図がある。1976年にニューメキシコ州の約160ヘクタールの敷地で建設が開始されたこの作品は、土、花崗岩、砂岩、ブロンズ、ステンレス鋼で作られた11階建ての建造物で、《ローデン・クレーター》と同じく、さまざまな天文現象と物理的に一致する要素が散りばめられている。たとえば、地球の地軸とぴったり平行になるように設置された9階分147段の階段や、日時計のような影を作る高さ15メートルの「ソーラーピラミッド」などだ。
アナ・メンディエタと風景の身体性
ランドアートと同時期に生まれたのがボディアートで、この2つの潮流を融合させたアーティストにキューバ生まれのアナ・メンディエタ(1948-1985)がいる。彼女は、フィデル・カストロの革命後、1961年にキューバを脱出した。裕福な家庭で、革命で倒されたバティスタ政権と繋がりがあったからだ。こうした背景から、その作品には亡命の痛みや喪失感を反映したものが多い。メンディエタはまた、裸体でサイトスペシフィックな野外パフォーマンスを行った先駆的なフェミニズムアーティストでもある。彼女が見出したのは、再生を繰り返す自然の景観と、生命をこの世にもたらす女性との類似性だった。
メンディエタの作品で最も有名な「シルエッタ(シルエット)」シリーズは、1973年から1978年にかけて(彼女が通った大学がある)アイオワシティやメキシコ各地で上演・撮影が行われた200のイベントで構成されている。そのイベントで彼女は、小川に体を沈めたり、草や野花の下に隠れたり、地面に自分の体の輪郭を刻み込んだり、身体をかたどった穴を作って儀式のような行為を行ったりしている。そのために、人型の穴にシーツを詰め込んで燃やすこともあれば、砂浜に輪郭を描いて波に洗わせることもあった。
「シルエッタ」シリーズは、石器時代の豊穣の女神を思わせる。その一方で、男性が特権を握る社会では、女性が見えない存在にされることを比喩的に表してもいる。
イギリスのランドアート
イギリスにも重要なランドアート作品があるが、この国は地理的にも、歴史的にも、さらに文化や習慣も、大西洋を挟んだアメリカとは大きく異なっている。アメリカでは白人がネイティブアメリカンを追いやって西部の荒野を開拓したが、イギリスには過去の歴史が深く刻まれた緑豊かな景観がある。そして、ローマ人、サクソン人、バイキング、ノルマン人によって占領された痕跡が、地理的な要素と一体化した記憶として残されている。
イギリスの風景を特徴づけているのが網の目のように走る公共の散歩道(フットパス)で、田園地帯や森林、古い街並みなどの景観を楽しみながら歩く習慣が古くから根付いていることを物語っている。これを作品に取り入れ、歩くことを制作の中心テーマとしたのが、リチャード・ロング、ハミッシュ・フルトン、アンディー・ゴールズワージーの3人のイギリス人アーティストだ。
3人の中で最も有名なリチャード・ロング(1945-)は、1960年代半ばからサハラ砂漠、オーストラリア、アイスランド、イギリスを徒歩で回り、写真を撮影。ロンドンのセント・マーチンズ美術学校在籍時には、ストーンヘンジのあるウィルトシャー州の草地を何度も往復することでできた道筋を、《歩行による線(A Line Made by Walking)》(1967)という作品として残している。また、ウェールズの採石場に落ちていたスレート(粘板岩)を用いた《Slate Circle(スレート・サークル)》(1979)など、拾ってきた自然石などの素材による屋内彫刻作品でも知られている。
一方、歩くこと自体がアートだとするハミッシュ・フルトン(1946-)は、イギリス・ケント州の自宅周辺からヒマラヤ山脈まで、世界各地を徒歩で旅した。ロングとは異なり、フルトンは歩いた場所に痕跡を残さず、展示のために何かを持ち帰ることもしない。彼が制作するのは、旅の記憶やそこで得た感覚・経験を伝える写真、テキスト、ドローイング作品だ。
ロングやフルトンより10歳若いアンディ・ゴールズワージー(1956-)は、ロングと同様、サイトスペシフィックな作品とギャラリーに展示する作品の両方を制作している。彼の作品への取り組みはフルトンほどストイックではないが、小枝や葉、雪、氷のような、時とともに失われてしまう素材を使い、繊細で一時的なインスタレーション作品を数多く制作した。また、石の壁や石積みの塚のような、恒久的な立体作品もある。
彫刻からランドアートへ
先述のように、従来の野外彫刻作品はランドアートとは異なるものだった。しかし次第に、前者は後者のようなサイトスペシフィックな要素を戦略として取り入れるようになる。
彫刻家のリチャード・セラ(1938-)は、特にサイトスペシフィックな要素へのこだわりが強いアーティストで、設置した作品の移動を認めず、破壊するよう求めたことすらある。その典型的なアプローチが見られるのが、《Spin Out, for Robert Smithson(ロバート・スミッソンのためのスピンアウト)》(1972-1973)だ。これは、スミッソンの《スパイラル・ジェティ》を上空から撮影していたときに、乗っていた小型機が墜落して亡くなった親友に捧げられている。
3つの巨大な鉄板で構成されたこの作品が設置されているのは、オランダのクレラー・ミュラー美術館の庭園で、各鉄板の半分は林の中にある窪地の側面に埋まっている。長辺を水平に配置した鉄板は、3枚が交差する場所へ近づこうとするような位置に置かれているが、それぞれの角度がわずかにずれているため、3枚は1点に収束することはない。そうすることでセラは、断ち切られた人生を暗示しているのだろう。この作品はまた、スミッソンの初期作品《Partially Buried Woodshed(部分的に埋まった薪小屋)》(1970)を思い起こさせる。
サイトスペシフィックな屋外彫刻のパイオニアには、メアリー・ミス(1944-)やアリス・エイコック(1946-)もいる。メアリー・ミスの《Perimeters/Pavilions/Decoys(境界/パビリオン/おとり)》(1977-78)は、5つのインスタレーションで構成される作品で、ニューヨーク州ロングアイランドのナッソー郡立美術館の敷地内にある。美術館の建物は、金ぴか時代と呼ばれる19世紀後半のアメリカの好景気を謳歌した実業家、ヘンリー・クレイ・フリックの邸宅だった。3本の塔、盛り土、地中につくられた庭などのインスタレーションには、見る者の空間認識に挑戦するという意図があるが、同時にフリック邸に元からある古い火の見櫓、クマを囲うのに使われた穴、鳥小屋などの特徴的な要素を反映したものでもある。
ペンシルベニア州ニューキングストン近くのギブニー農場に設置されたアリス・エイコックの《Maze(迷路)》(1972)は、12角形の壁を5つの同心円状に並べた木造迷路で、直径が約9.8メートル、壁の高さは約1.8メートルある。3つの入り口から迷路の中に入ることができ、構造物の中心に向かって歩いていくうちに方向感覚を失うように意図されたこの作品は、エイコックによると数年の間は存在していたが、その後取り壊されたという。
ランドアートとポップカルチャー
自然の中で成立するランドアートとポップカルチャーとの関連性を見出すのは難しいかもしれないが、この2つを結びつけた作品はいくつかある。その代表的なものがテキサス州アマリロの《Cadillac Ranch(キャデラック牧場)》(1974)だ。チップ・ロード、ハドソン・マルケス、ダグ・ミシェルズの3人が結成したアートグループ、アント・ファームが制作したこの作品は、10台のキャデラックを一列に並べたもので、車体の前半分が地中に埋まっている。
10台は戦後アメリカの繁栄を象徴する派手なテールフィンが採用された1949年から1963年までのモデルで、ギザの大ピラミッドの斜面と同じ60度に傾いている。設置当初は工場出荷時の仕上げが残っていたが、落書きを隠すために長年にわたり再塗装が繰り返されている。前衛的な広告物にも見える《Cadillac Ranch》は、スミッソンの《The Monuments of Passaic》に見られるエントロピー増大の概念をモデルに、パロディとしての計画的老朽化を意図している。
一方、クリスト(1935-2020)とジャンヌ=クロード(1935-2009)の梱包プロジェクトは、それ自体がポップカルチャーを具現化したものと言えるだろう。ベルリンのライヒスターク(国会議事堂)を布で包んだことで知られる2人は、自然環境でも梱包シリーズの作品を制作している。しかし、コロラド州ライフルにある谷にオレンジ色の布で381 × 111メートルの壁を作った《Valley Curtain(ヴァレー・カーテン)》(1970-72)のような作品にどれほど強い視覚的インパクトがあるにせよ、そこに込められたエネルギーは一時的な作品として計画されたという事実で弱められてしまう。マイアミのビスケーン湾に浮かぶ島々をピンクの布で包み込んだ最大の作品《囲まれた島々(Surrounded Islands)》にも同じことが言える。
現在のランドアート
ランドアートというと、1960年代後半から70年代にかけての全盛期に生まれた作品が思い起こされるが、近年も興味深い取り組みが行われている。たとえば、1980年代後半から90年代初頭にかけ、メグ・ウェブスターの草地や庭のようなインスタレーションは環境主義に基づくアースワークの美学を復活させた。
1997年にはアートコレクティブD.A.ST. Arteamが、サハラ砂漠で9万3000平方メートルものインスタレーション《Desert Breath(砂漠の息吹)》を制作。中央の池から渦巻き状に伸びる2本のラインの片方には等間隔に穴が掘られ、もう片方には等間隔に砂を盛った小さな山が並ぶ。また、やはりアートコレクティブのポストコモディティは、アメリカとメキシコの国境沿いに目玉が描かれた巨大な風船を空に浮かべて並べるインスタレーションを2015年に実施。鳥よけの製品を使って、移民を巡る論争を題材とした作品《Repellent Fence(排除のフェンス)》を制作した。
ランドアートは他のアート分野と比べ、幅広い影響力を持つとは言い難い。その理由を物語るのは、《City》や《ローデン・クレーター》の完成に数十年を要すること、つまり、これほどの壮大な作品の制作には、たとえ非常に恵まれた状況にあっても巨額の資金がかかるという困難さだ。しかしその過酷さゆえに、ランドアートは見る者に畏敬の念を抱かせる。それは古代のモニュメントと同様、偉大なことをなし遂げられるのは人間の強い志と精神であることの証なのだ。(翻訳:鈴木篤史)
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