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シルクロードの「闇」にも迫る特別展が大英博物館で開催中。宗教も拡大する巨大ネットワークの全貌とは?

大英博物館で大規模なシルクロード展が開催されている(2025年2月23日まで)。西暦500年から1000年頃までの時期に焦点を当てたこの特別展では、従来の認識をはるかに上回る、網の目のようなシルクロードの広がりを目にすることができる。企画の背景や見どころを担当キュレーターに取材した。

唐代(618年~907年)に副葬品として作られた三彩駱駝。Photo: ©The Trustees of the British Museum

「絹の道」の重層的な歴史と地理的広がりを伝える壮大な展覧会

絹と人類の歴史には長く密接な関係があり、考古学者によると養蚕が行われていた痕跡は今から5000年前にまでさかのぼることができる。中国の民話や孔子の著述には、養蚕の始まりをめぐる伝承が記されているが、それによると紀元前3000年頃に黄帝の正妃である嫘祖(西陵氏)が偶然絹糸を発見したという。

伝説の概略はこうだ。ある日、妃が桑の木の下で茶を飲んでいると、蚕の繭が茶碗の中に落ちてきた。繭が熱い茶の中でほどけ始めたので、さらにほぐしてみると、光沢のある長い糸になった。魔法のように糸へと変化する様子に驚いた妃は、繭を集めて糸をつむぎ、布を織った。養蚕の祖となった西陵氏は絹の女神と呼ばれるようになり、現在も「蚕母」として、中国では広く崇拝の対象となっている。

紀元前2世紀頃にシルクロードが誕生するまで、中国は何世紀にもわたり養蚕の秘密を守り続けてきた。贅沢でエキゾチックな魅力のある商品としてシルクロード貿易の中心となった絹は、人気のあまり、その秘密を手に入れようとするおびただしい数の間諜を生んだと伝えられる。それに対して中国の宮廷は、蚕を国外に持ち出した者や、養蚕の過程を外国人に伝えた者は死刑に処すという厳しい勅令を出すことで絹を独占した。

それでも、東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌス1世は、帝国の栄光を取り戻すために養蚕を試みようとした。皇帝は僧侶に命じ、竹筒に蚕の卵を隠して持ち出させたという。絹はエリート層のステータスシンボルとして垂涎の的となり、高い価値を持つ貴重な商品として、香辛料、宝石、武器のほか奴隷との交換にも頻繁に用いられた。

大英博物館で開催されている「Silk Roads(シルクロード)」展は、絹を取り巻く複合的な歴史をたどる意欲的かつ画期的な展覧会だ。日本の平城京から始まる展示は、砂漠や山岳地帯、豊かな森林から海洋へと見学者を誘い、絹をめぐる物語と、商人たちが絹を世界のあらゆる地域に広めた経緯を解き明かしている。

絹の女神「絹姫」を描いた奉納のための板絵(6世紀頃)。Photo: ©The Trustees of the British Museum

シルクロードというと、西洋と東洋を結ぶ一本道の交易路というイメージが一般的だ。しかし今回の展覧会は、シルクロードがアフリカ、ヨーロッパ、アジアを縦横無尽に結び、数多くのネットワークを形成していたことに光を当てている。展覧会の共同キュレーター、スー・ブラニングは、US版ARTnewsの取材にこう答えた。

「この数十年間、(シルクロードの)複数のネットワークや、それがどこまで広がっていたか、誰と誰がどのようにつながっていたかについて盛んに研究されています。結果、さまざまなことが明らかになり、シルクロードに対する理解が深まりました。シルクロードが単なる東西間の貿易ルート以上のものだったことが分かってきたのです」

さらに重要なのは、シルクロードを行き来したのは、香辛料や砂漠の船と呼ばれたラクダだけではないことだ。ブラニングはこう付け加えている。

「調査を重ねるにつれ、数々のネットワークや南北方向にも広がる交易だけでなく、人や物、アイデアの移動など、商業以外の動きにも目を向けるようになりました」

アル=イドリーシの地理書『ルッジェーロの書』(原題:Nuzhat al-mushtaq fi ikhtiraq al-afaq)の世界地図(初版は1154年、写真は1533年の写本)。Photo: ©The Bodleian Libraries, University of Oxford

アジアからアフリカ、ヨーロッパに至る交易や文化交流のネットワーク

展覧会は地域によって5つのセクションに分かれ、ウズベキスタン芸術文化振興財団、サマルカンド国立歴史博物館(ウズベキスタン国立歴史博物館別館)、スコットランド国立博物館(エジンバラ)、スウェーデン国立歴史博物館(ストックホルム)など、イギリス内外の29の文化施設から貸し出されたものを含む約300点の展示品を見ることができる。貴重な展示品の貸し出しには、タジキスタン国立博物館をはじめとした外国の政府機関との交渉を重ねる必要があったという。2019年から準備を進めてきたブラニングは、展覧会が実現した喜びをこう語った。

「本当に膨大なプロセスでしたが、一歩一歩進めてきました。そうした努力の甲斐がある展示だと、多くの人たちに思ってもらえることを願っています」

象牙製のチェスの駒(500年頃)。チェスはインドに起源があるとされる。Photo: ©ACDF of Uzbekistan, Samarkand State Museum Reserve

「中央アジアからアラビアへ」のセクションには、これまで見つかった中で最も古い象牙のチェスの駒があるが、これは西暦500年頃にインドで作られ、700年代にウズベキスタンで発掘されたものだ。インドが起源とされるチェスはシルクロードに沿って伝播し、ササン朝ペルシアで人気を博したのちイスラム世界、そしてヨーロッパへと広まっていった。また、エジプトのビーズ製ネックレスもシルクロードの広大さを象徴している。使われているのは、バルト海北部の琥珀、イランのカーネリアンビーズ、スリランカや南インドの細かな貝殻を含んだ緑色のガラスビーズなど、遠く離れた地域から運ばれた材料なのだ。

展示では、シルクロードが陸路だけではないことも示されている。その一例が、インドネシアのブリトゥン島近海で発見され、6万点を超える交易品が積まれていたと見られる9世紀の難破船だ。1998年に引き揚げられた品々の中からは、化粧品や薬を入れていた中東の小さなガラス瓶、スマトラの青銅鏡、中国の陶磁器などの宝物が展示されている。

インドネシア・ブリトゥン島近海で難破船の積荷から見つかった八角形の金杯。Photo: Asian Civilisations Museum, Tang Shipwreck Collection

シルクロードによって宗教や学問がどう伝わったかを教えてくれる展示もある。たとえば、ハッジと呼ばれるメッカへの巡礼を詳述したコーラン最初期の写本のそばには、ムハンマド・イブン・ムーサ・アル・フワーリズミーやハバシュ・アル・ハースィブなど、地理学の発展に貢献したイスラムの学者による地図が置かれている。そのほか数多くの展示物から、キリスト教、イスラム教、仏教の拡大にシルクロードが重要な役割を果たしたことが分かる。

サハラ縦断交易と西アフリカの関係をテーマにしたコーナーでは、イボ=ウクゥ(現在のナイジェリア)から出土した青銅の器や装身具が、同地の繁栄と創意工夫を物語っている。さらに、地中海、アラビア、インド、レバント地方の物品も出土していることから、非常に広範囲にわたるネットワークが存在していたことが見て取れる。

イボ=ウクゥで出土した腕輪。Photo: ©The Trustees of the British Museum
イボ=ウクゥで出土した半月形の鉢。Photo: ©The Trustees of the British Museum

奴隷貿易や帝国の興亡など「負の側面」も含めた新しい視点を提示

しかし、シルクロードの歴史には影の部分もある。展覧会で取り上げられたのは、奴隷制度、戦争、宗教的対立、占領などだ。たとえば、中国の敦煌で発見された写本は、周辺地域に組織的な奴隷取引の市場があったことを示している。展示されている契約書には、シアンシェンという28歳の女性が、奴隷として絹5反と引き換えに売られたことが記され、仏僧と尼僧が売買の証人として契約書に署名している。こうした市場は、奴隷を贈り物にした外交使節にも利用されていた。

また、シュラという名のヌビア人女性の売買を詳細に記録したアラビア語の文書は、ヌビア地域(エジプト南部〜スーダン)で奴隷が商品として扱われていたことを示すものだ。奴隷の状態を保証する証書には、身体の特徴となる傷跡などが記されている。エジプトの乾燥した砂漠気候のおかげで奴隷売買に関する何百もの法的文書が残っているが、その中には奴隷にされた人々の詳細な情報もあり、身元や過酷な境遇を今に伝えている。こうした負の側面に光を当てたことについて、展覧会の企画に関わったビザンツ世界の専門家、エリザベス・R・オコネルはこう説明する。

「シルクロードの物語は、太平洋から大西洋に至る広大な地域をまたいで行われた無数の旅で成り立っています。シルクロード展では、この地域で覇権を握った帝国から1人の旅人まで、自発的な、あるいは強制的な移動を促すネットワークが広範囲にわたるものだったことを明らかにしています。外交使節や巡礼者、学者や学生、難民や捕虜、商人や隊商が繰り広げる多彩なストーリーを皆さんに見ていただけるのは、とても光栄なことです」

サマルカンドの《Hall of Ambassadors(大使の間)》南壁の壁画。君主の祖先に参拝する儀式の列が描かれている。Photo: Andrey Arakelyan/©ACDF of Uzbekistan, Samarkand State Museum Reserve
サマルカンドの《Hall of Ambassadors(大使の間)》南壁の壁画(部分)。ラクダに乗った2人の男性。Photo: Andrey Arakelyan/©ACDF of Uzbekistan, Samarkand State Museum Reserve

文化の壁を越え、広い地域での交易を実現するには、地政学的な側面からの同盟や外交も必要とされる。そうした関係を強化し、維持するために不可欠だったのが贈り物の交換だ。現在のウズベキスタン・サマルカンドのアフラシャブ遺跡で発見された《Hall of Ambassadors(大使の間)》の壁画は、ソグド人が東西交易に活躍した時代の貴重な美術品として知られる。そこに描かれているシルクロードの名高い商人たちは、地中海からインド、中国へと、数千キロもの交易の旅をしていた。

6世紀初頭、ソグディアナと呼ばれるこの地の都市国家群は、突厥(トルコ系遊牧民)の帝国に征服される。その後、突厥と都市国家の複雑な関係は同盟へと発展し、ソグディアナによる交易の独占を後押しした。上記の壁画などの考古学的発見からも明らかなように、ここでは洗練された宮廷文化が花開いたが、それは交易によって蓄積された富と、広範な地域との外交関係が(時に敵対することはあっても)築かれていたおかげだった。

大英博物館の大規模なシルクロード展は、そこで起きた数々の出来事をさまざまな側面から紹介している。しかし、「これ以外にも今後さらに掘り下げていくべきテーマや物語、ストーリーがあります」とブラニングが言うように、シルクロードの全てを網羅しているわけではない。それでも、見学者に威圧感を与えるほど膨大な展示品を集めた今回の展覧会は、シルクロードのネットワークが想像以上に広大な地域に及んでいた事実を反映している。それが何を伝えてくれるのか、ブラニングはこう語る。

「展覧会では、世界のさまざまな地域同士のつながりにどれほど奥深い歴史があるかが示されています。今日、私たちが暮らすグローバルな世界と照らし合わせることで、多様な地域の異なる文化との協調が可能であることを理解できるでしょう」(翻訳:清水玲奈)

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