メガギャラリー所属でないとニューヨーク有名美術館での個展はムリ? その問題点を考察する

この春、ニューヨークを代表する4つの美術館で、実力派現代アーティストの大規模個展が開かれている。それぞれに見応えのある展覧会だが、全員が同じメガギャラリーに所属している点について、US版ARTnewsのシニアエディターは疑問を投げかけている。以下、その論考を紹介する。

グッゲンハイム美術館ではラシード・ジョンソンの個展を開催中。Photo: David Heald

美術館は、市場とは切り離された存在であることを標榜している。しかし現実はもっと複雑だ。ほかでも指摘されているように、今日のアート界では、作品の売り上げが名声につながり、名声が回顧展につながり、回顧展がさらなる売り上げにつながる。美術館の壁に展示された作品には値札が付けられていなくても、そこに展示されることで価値が上がるのは間違いない。

そのことを感じているのは専門家だけではないだろう。しかし、日頃からそれをよく分かっている業界人でさえ、現在マンハッタンの有名美術館で大規模個展を開催しているアーティストが全員、同じギャラリー所属であることは看過できない事実だ

同一ギャラリーの所属アーティストが大規模個展を独占

ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ホイットニー美術館、グッゲンハイム美術館でそれぞれ個展を開催中のジャック・ウィッテン、エイミー・シェラルド、ラシード・ジョンソンは、いずれも世界4大メガギャラリーの1つ、ハウザー&ワースに所属している。5月中旬からメトロポリタン美術館(MET)で個展を開くローナ・シンプソンもそうだ。先日、ニューヨーク・タイムズ紙にザカリー・スモールとジュリア・ハルペリンが書いていたが、今シーズンの展示はすでに「ハウザーの春」と呼ばれているそうだ。いずれ、「ツヴィルナーの秋」や「ガゴシアンの冬」が到来するのは想像に難くない。

とはいえ、この春ニューヨークの主要美術館で個展を開いているハウザー&ワースのアーティストたちは、その栄誉にふさわしい実力者ばかりだ。3月のレビュー記事で書いたように、ウィッテンの回顧展は私が見た近年のMoMAの展覧会の中でも最高のものだった。また、ミシェル・オバマの公式肖像画を手がけたシェラルドは、想像力豊かな肖像画家として広く知られている。ジョンソンについては、これまで絵画シリーズの「Anxious Men(不安な人々)」だけで語られがちだったので、それ以外の創作を紹介する回顧展が待たれていた。シンプソンは写真家として語られることがほとんどだが、彼女は才能ある画家でもある。METの展覧会はそれを証明するものとなるだろう。

このように、4人は市場の力によってのみ認められた凡庸なアーティストではなく、むしろその逆だと言っていい。問題なのは、1つのギャラリーのプログラムが、これら全ての美術館の企画展を生み出したかのように見えることなのだ。

ホイットニー美術館で開催中のエイミー・シェラルドの個展。Photo: Tiffany Sage/BFA.com

ますます曖昧になりつつあるギャラリーと美術館の境界線については、ひとまず置いておこう。というのも、最近アートネット誌やニューヨーク・タイムズ紙の記事でも指摘されている通り、ギャラリーが美術館の展覧会に資金を提供するのは当たり前になっていて、一般の人々が気づいているかどうかはともかく、かなり前からの慣行だからだ

上記の4つの展覧会のうち3つについて、ハウザー&ワースがどれだけの資金を提供したのかを知ることはできないし、おそらく今後も知ることはないだろう。ニューヨーク・タイムズ紙によれば、ハウザー&ワースはMoMAのジャック・ウィッテン展には資金援助をしていない。一方、エイミー・シェラルド展とローナ・シンプソン展には「支援」をしており、グッゲンハイム美術館のジョンソンの回顧展のウェブページには、彼の作品を取り扱っている他のギャラリーと並んで、ハウザー&ワースへの謝辞が記載されている。

確かなのは、世界各地に17の展示スペースを展開し、100人以上のアーティストや遺産管理団体を扱うハウザー&ワースが、豊富な資本と人員を駆使してビジネスを進める大組織だということだ。そして、このギャラリーの所属になることは、アーティストとして大成功を収めたことを意味する。美術館のキュレーターたちが同ギャラリーのアーティストに注目するのは当然で、それ自体に驚きはない。私たちだって彼らに注目している。しかしながら、ハウザー&ワースの取り扱い作家に対する美術館の注目は、やや度を超していると言えないだろうか?

ニューヨークの有名美術館で回顧展を開くのに、必ずしもハウザー&ワースの所属である必要はないが、同程度の力を持つギャラリーに所属していないと難しいかもしれない。近年のMoMAの展示、特に同美術館で一等地とされている6階で開催された企画展のリストがそれを証明している。2022年にデイヴィッド・ツヴィルナーが取り扱うヴォルフガング・ティルマンス、2023年はガゴシアン所属のエド・ルシェ、そして昨年春にはグラッドストーン・ギャラリージョーン・ジョナスの回顧展がここで開かれている。

もちろん例外もある。その1人が、2005年にヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞し、昨年秋にMoMAで回顧展が開かれた彫刻家のトーマス・シュッテだ。彼はメガギャラリーに所属しておらず、ニューヨークではピーター・フリーマンIncが、ヨーロッパではフリス・ストリート・ギャラリー、コンラート・フィッシャー・ギャラリー、カルリエ|ゲバウアーなどが彼の作品を扱っている。しかし、メガギャラリーはそうしたアーティストを放っておかない。実際、MoMAの展覧会が終了してからほどなくして、シュッテはガゴシアンで展覧会を開いている。

これは今に始まったことではなく、アートニュースペーパー紙は2015年の記事の中で、(2007年から2013年の間に)アメリカの美術館で個展を開催したアーティストの3分の1近くが、ガゴシアン、ペースマリアン・グッドマン・ギャラリー、デイヴィッド・ツヴィルナー、ハウザー&ワースの5つのギャラリーのいずれかの所属だと指摘した。その状況は現在も変わっていない。

調査をもとにこの記事を執筆したジュリア・ハルペリンは、図録制作や画像使用、オープニングレセプションなどに必要な費用をギャラリーが提供することで美術館を助けることができると書いている。その一方で、調査で明らかになった「アート市場の再編が急速に進む中で、少数のギャラリーの影響力が増している」ことには懸念を示している。この点について、今、改めて考えてみるべきだろう。

しかし、こう反論する冷めた読者もいるかもしれない。「だから何だ? どんな作品が人々の目に触れ、話題になるかは往々にして市場が決める。それは言うまでもないことで、少しでも関心を持っている人なら誰でも知っていることだ」と。

MoMAで展示されているジャック・ウィッテンの「Black Monoliths」シリーズの作品。Photo: Jonathan Dorado

メガギャラリーによるモノカルチャーに支配される危険性

現在の美術館をめぐる状況は、以前にも増して難しいものになっている。一般市民やアート界の人々は、有色人種やクィア、女性アーティストにもっと重点を置くよう美術館に変化を求めている。そして、上で挙げたニューヨークの4つの展覧会は、いずれもその要求を満たしている。同時にそれは、美術館で展覧会を開く資格があるのは、大手ギャラリーに所属するアーティストだけだということも示唆している。別の言い方をすれば、売りやすい商品を量産できる者だけが、その栄誉にあずかれるということだ。

美術館がメガギャラリーの嗜好に沿った展示をする中で、私たちはメガギャラリーが作るモノカルチャーにはまり込んでいる危険性がある。モノカルチャーと言っても、1つの形式だけで構成されているわけではない。メガギャラリーは、抽象画家、具象画家、彫刻家、写真家、ビデオアーティスト、デジタルアーティストなど、さまざまな分野のアーティストを扱っている。問題なのは、一般の人々がどのアーティストを深く知ることができるかに関して、少数のディーラーが決定権を握っているように見えることだ。

こうした傾向は、主にアメリカ、そして特にニューヨークで顕著なようだ。海外へ目を向けると、まったく別の景色が広がっている。たとえば、昨年シャルジャ美術財団(アラブ首長国連邦)ではマオリ族の画家、エミリー・カラカの初回顧展が開催された。また、現在ロンドンのテート・モダンで開催中の大規模回顧展が評判を呼んでいるリー・バワリー(1994年に死去したパフォーマンス・アーティスト)の例もある。

カラカとバワリーは、美術史においては周縁的な存在だが、今日活動する多くのアーティストに大きな影響を与えてきた。そして両者とも大手ギャラリーに属していないが、上記のような世界的に名の知られた美術館が個展を開いている。しかし今のところ、どちらの展覧会もニューヨークに巡回する予定はない(もしかするとメガキャラリーが関わっていないからではないだろうか)。

今のニューヨークの状況は、国際的な芸術祭の傾向からも外れているように感じられる。たとえば、昨年のヴェネチア・ビエンナーレのメイン展示に参加したアーティストの中でメガギャラリーがついていたのは、ガゴシアンに所属するローレン・ホールジー1人だけだった。それも驚くべきことではないのかもしれない。ヴェネチア・ビエンナーレは、キュレーションの実験の場であり、未知の才能がスポットライトを浴びる場なのだから。それとは対照的に、美術館の回顧展はキャリアを確立した作家がさらにその地位を強化する場だと捉えられている。

国際的な芸術祭の傾向とニューヨークの美術館が目玉として打ち出す企画展との間には、明らかに落差がある。そして、皮肉なことに、その落差は美術館の企画展と常設コレクション展示の間にも表れている。

ニューヨーク近代美術館で開催中のジャック・ウィッテンの回顧展「Jack Whitten: The Messenger」の展示風景。Photo: Jonathan Dorado

たとえばMETには、2024年のヴェネチア・ビエンナーレに参加した2人の作家、バーマン・モハセスとケイ・ウォーキングスティックによる素晴らしい絵画が展示されている。両者ともニューヨークで回顧展を開催したことはなく、メガギャラリーの所属作家でもない。

ウォーキングスティックの作品は、クリストファー・コロンブスによるアメリカ「発見」500周年に焦点を当てたMoMAの展示でも見ることができる。その近くには「Clandestine Knowledge(秘密の知識)」というタイトルが付けられた展示室があり、解説文によると「世界を理解し、生き残るためのオルタナティブな方法」に焦点が当てられている。そこにも2024年のヴェネチア・ビエンナーレに参加した2人のアーティスト、エヴェリン・タオチェン・ワンと、ウイトト族アイメニ氏族の独学の画家サンティアゴ・ヤワルカーニの作品が並んでいるが、2人ともニューヨークで回顧展を開催したことはない。

3月にMoMAでジャック・ウィッテンの回顧展を鑑賞した後、私は「Clandestine Knowledge」の展示室に迷い込み、ヤワルカーニが2022年に手がけた《Cosmovisión Huitoto(ウイトトの世界観)》を目にした。これは何世紀もの間、暴力に晒されながら生き延びてきたアマゾンの先住民の歴史を樹皮に描いた作品だ。この絵にはとても心を打たれたが、なぜそれが素晴らしいかを説明する言葉を私は持たなかった。そしてMoMAのような美術館がヤワルカーニの回顧展を開き、それを表現する言葉を与えてほしいと感じたのだった。

ハウザー&ワースやそれに匹敵する大手ギャラリーに所属していないヤワルカーニの個展が、近いうちに美術館で開かれる可能性は低い。しかしMoMAはリスクを取ってでも、こうした展覧会を実施してほしいと思う。過去半世紀に目覚ましい業績を遺した偉大な画家の1人であるウィッテンの回顧展は、遅ればせながら実現した重要企画であることは確かだ。その一方で、ヤワルカーニのようなアーティストの個展を美術館が開くことも必要ではないだろうか。美術館がやるべきことはまだまだ多い。(翻訳:野澤朋代)

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