ARTnewsJAPAN

訃報:東京ビッグサイト巨大ノコギリ彫刻の作者、クレス・オルデンバーグが死去。ポップアート最後の大物の足跡を辿る

洗濯バサミやスプーンなど、日常のありふれたものを題材にした巨大彫刻で知られるクレス・オルデンバーグが、7月18日に自宅で死去した。93歳。日本にも、巨大ノコギリ(東京ビッグサイト)や口紅の彫刻(ファーレ立川)を残している。ポップアートの代表的作家の中でも異色の存在だったオルデンバーグの足跡と作品の特徴を、3つのキーワードで振り返る。

クレス・オルデンバーグ Photo Alex Brandon/AP

亡くなったオルデンバーグは、腰の骨折で療養中だった。なお、所属していたポーラ・クーパー・ギャラリーとペース・ギャラリーが、逝去に際して声明を出している。

オルデンバーグは、何の変哲もない電気のスイッチ、ピクルスを乗せたハンバーガー、逆さになったバドミントンのシャトルなど、身の回りのさまざまなものを芸術的な彫刻に仕立て上げた。それも、見る者の頭上にそびえるほどの巨大なサイズで。妻の故コーシャ・ヴァン・ブリュッゲンと共同制作した作品も多い。

こうした非現実的な魅力のある作品は、オルデンバークを60年代のポップアートを代表する作家の1人に押し上げた。当時のアートシーンは抽象画が主流だったが、そこに大量消費社会を象徴するような商品や広告のビジュアルを持ち込んだのが、新たに台頭したポップアートだった。

「抽象表現主義の画家たちの作品は、何かを語りかけてくるように思えなかった。自分が求めていたのは、主張があり、ごちゃごちゃしていて、どこかミステリアスな作品だ」。オルデンバーグは2017年に評論家のランディ・ケネディにこう語っている。

オルデンバーグの作風は、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタイン、ジェームス・ローゼンクイストといったポップアート作家の中でも際立っていた。彼の作品は、より奇妙で、よりストレートで、よりユーモラスなのだ。たとえば、空気でふくらませるビニール玩具がしぼんだような便器の彫刻がある。こうした作品を作るのは、当時の感覚からすれば突拍子もないことだったろうが、オルデンバーグはそれを心から楽しんでいたように思える。

それゆえに、彼の作品は見る者をも楽しませ、幅広い人々に愛された。たとえば、ヴァン・ブリュッゲンと共同制作した《Spoonbridge and Cherry(スプーンブリッジ・アンド・チェリー)》(1985-88)は、米国を代表するパブリックアートの1つだ。巨大なスプーンの先端にサクランボが乗っている彫刻で、全長は約16メートル近い。サクランボはというと、重力の法則に逆らうようにスプーンの縁に留まっている。この作品はミネアポリスのウォーカー・アート・センターの所蔵で、長らく同美術館で公開されている。

クレス・オルデンバークとコスエ・ファン・ブルッゲン《Spoonbridge and Cherry(スプーンブリッジ・アンド・チェリー)》(1985-88) Toronto Star via Getty Images

世界的なメガギャラリー、ペースの創設者アーネ・グリムシャーは、声明の中で次のように述べている。「20世紀で最も先鋭的なアーティストの1人と、すばらしい友情を築けたことを光栄に思う。オルデンバーグは、ポップアートの発展に欠くことのできない役割を果たしただけではない。彼は、彫刻といえば固い素材で作るものだった時代に、やわらかい素材でソフト・スカルプチュア(ソフトな彫刻)を生み出し、彫刻の概念を大きく広げた。その影響は今でもあちこちに見られる」

クレス・オルデンバークのソフト・スカルプチャー《Floor Hamburger(フロア・ハンバーガー)》(1962) Toronto Star via Getty Images

キーワード1:日々のくだらないこと

1961年に書かれたマニフェスト風の小論で、オルデンバーグはこんなふうに言っている。「私が目指すのは、日々のくだらないことにまみれつつも、他を圧倒してトップに立つような作品だ。人間を模倣するアート。必要とあればおどけたり、暴力的になったり、状況に合わせた表情を見せるアート。生命そのものの形から生まれるアート。そして、生きることと同様に、ねじれ、伸び、蓄積し、吐き出し、裂け、重く、粗く、ぶっきらぼうで、やさしく、バカバカしいアートだ」

この言葉は、その後60年にわたり、生きることイコール制作活動だった彼の信念を見事に言い表している。

評論家のバーバラ・ローズは67年のアートフォーラム誌への寄稿で、オルデンバークは3つの領域から題材を選んでいるとした。その3つとは、「ホーム(家)、ストリート(街路)、ショップ(店)」で、このうち2つ目と3つ目は、オルデンバークがニューヨークで発表し、名声を得るきっかけとなった作品のタイトルでもある。

《The Street(ザ・ストリート)》(1960)は、ニューヨークのワシントン・スクエア公園の近くにあるジャドソン記念教会で行われた期間限定のインスタレーションだが、そこには段ボールや紙くず、汚れた新聞紙など、街のゴミがあふれていた。この時の記録映像を見ると、包帯を巻いたオルデンバークと当時のパートナー、パトリシア・ムチンスキーが、インスタレーションの中で暴れまわっている。翌年にイーストビレッジで発表された《The Store(ザ・ストア)》(1961)では、ドレスや靴、デザートなどを売る店を思わせるスペースに、いろんな色を塗ったデコボコの彫刻が所狭しと展示されていた。

オルデンバーグはこの2つのプロジェクトで、当時ニューヨークの前衛アーティストの間で流行っていたハプニングと呼ばれる手法を取り入れつつ、生活の中のありふれたものを芸術に仕立て上げている。

アートフォーラム誌の記事でローズはこうも述べている。「一流のアーティストは皆、世界を自分のイメージで再構築したいと夢見るものだ。オルデンバークは実際に身の回りの環境を、彼の大柄で筋肉質な体型を思わせる様々な形とイメージに変換することに成功した」

日本で見られるオルデンバーク作品のひとつ、ファーレ立川に展示されている《リップスティック》(1994)

キーワード2:スケールアップ

荒削りな雰囲気があり、作りも大雑把な《The Store》や《The Street》に比べると、それに続く作品群は、少しだけ普通の彫刻に近いものだった。食べものや車、服などを題材にした、空気が抜けたようにたるんだソフト・スカルプチュアだ。

ソフト・スカルプチュアには、バターの塊が2つ乗ったベイクドポテトやミントグリーンのアイスクリームコーンなど、本来ならばおいしそうなものもある。ただ、塗りむらがあったり、形が変だったりするので今ひとつ食欲をそそられない。それでも、見る者の笑いを誘う、愛嬌たっぷりの作品が多い。

こうした作品を制作する時、オルデンバーグは昔ながらの彫刻の手法を使ってスケールアップしている。まずは模型を作り、そのデザインを大きなカンバスに拡大して型紙を作る。それを切り抜いて縫い合わせる作業は、もっぱらムチンスキーの役目だった。彫刻の膨らみを出すために発泡ゴムが詰め物に使われ、やがてビニールも素材として取り入れられた。

必要に応じて彫刻の形を簡単に調整できることから、彼はこのフォーマットを気に入っていたようだ。「毎日でも変えられる」と、オルデンバークは2015年のインタビューでバーバラ・ローズに語っている。

オルデンバーグ逝去にあたっての声明で、ポーラ・クーパー・ギャラリーのポーラ・クーパーはこう述べている。「大勢のアーティストが、独創性のかたまりのような彼の初期の作品に影響を受け、彼の自由な発想とラディカルな表現から多くを学んでいます。私も親交のあったコーシャ・ヴァン・ブリュッゲンとの共同制作が始まると、作品はより壮大で大胆になっていきました。彼の考え方は一風変わっていますが、それがとても楽しく、こちらの気分が一瞬で変わってしまいます。オルデンバーグと一緒に仕事ができたのは得難い経験でした」

しかし、誰もが最初からソフト・スカルプチュアに理解を示していたわけではない。オルデンバークの初個展が開催された1964年、評論家のジョン・カナデイは、ニューヨーク・タイムズ紙に皮肉っぽく書いている。「この調子でいくと、ありふれたものに奇抜なインパクトを持たせる効果以外、この種のポップアートには新しさがないことがすぐバレるだろう。そのインパクトが薄れたとたん——待てよ。地平線の向こうにあるのは大きな黒雲か?(それともただのエナメル革か?)」

こうした批判の声はありつつも、オルデンバークは早くから多くのファンを獲得した。初個展と同じ年のヴェネチア・ビエンナーレの米国館には、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、ジョン・チェンバレン、フランク・ステラらとともに出展を果たしている。68年にはドクメンタ4にも参加し、《Giant Pool Balls(巨大なビリヤードボール)》(1967)を出展した。

72年のドクメンタにも参加し、初期の実験的な作風に回帰したかのようなインスタレーション《Mouse Museum(ネズミ美術館)》を出展。この作品では、上から見るとミッキーマウスのようなネズミの頭の形をした黒い展示室の中に、食べものなどをかたどったカラフルな小ぶりの彫刻が並べられていた。その後も彼の仕事にたびたび登場することになるネズミの形について、オルデンバーグはニューヨーク近代美術館(MoMA)にこう語った。「ミッキーマウスは楽しさの象徴だが、自分の作品は精神的な活動の象徴を意図している」

65年に初めて作られた《Mouse Museum》は、77年にオルデンバークによって改修され、59年に制作した彫刻のタイトルにちなんで「レイガン・ウィング(Ray Gun Wing)」と呼ばれるエリアが増設された。ここには、直角の部分があるオブジェが展示されている。オルデンバークは、「Ray Gunを逆から書くと“Nugyar”で、“New York”と似ているからね。ニューヨーク、ヌギャール」とMoMAに語っている。

コーシャ・ヴァン・ブリュッゲンとクレス・オルデンバーク ©1990 Sidney B. Felsen

キーワード3:取るに足らないもの

オルデンバークは1929年にストックホルムで生まれた。スウェーデンの外交官だった父親は、最初はニューヨーク、次にシカゴのスウェーデン領事館に勤務。それに合わせ一家は36年にシカゴに移った。

オルデンバークは少年時代から美術、特にドローイングを好んだが、本人の回想によると、他の子どもと違って早くからコンセプチュアル・アートに傾倒していたという。実際、南大西洋に浮かぶ「ノイベルン」という架空の国を作り、その国のドローイングをたくさん描いていた。

しかし、進学したイェール大学では、美術ではなく文学と美術史を専攻。50年に卒業した後は記者として働いた。後にロサンゼルス・タイムズ紙のインタビューで、彼は自分が執筆した記事はどれも「取るに足らないものだった」と述べている。記者時代に生涯をかけてガラクタを集め続けた老人についての記事を書いたことがきっかけで、オルデンバーグ自身も街でゴミを拾っては自分のものにするのが習慣になった。56年にはニューヨークに移住。その後オルデンバークは、この街で名声を得ることになる。

オルデンバークの作品は、次第にスケールが大きくなっていったが、身の回りのありふれたものを題材に取り上げる点は変わらなかった。中には明らかに政治的なものもある。たとえば69年に制作された《Lipstick (Ascending) on Caterpillar Tracks(キャタピラー上の〈せり上がる〉口紅)》という作品では、戦車のような構造物の上に巨大な口紅が乗っている。これは、ベトナム戦争に抗議する学生たちを支援するために作られたもので、反戦デモが行われていたイェール大学の広場に設置され、演台として使われた。この彫刻は、現在でもコネチカット州ニューヘイブンの同大学構内で見ることができる(*1)


*1 オリジナルは伸縮する口紅部分が布製で壊れやすかったため、数年後に堅牢な素材で作り直された。

他にも、オルデンバークは数多くのパブリックアートを手がけている。オハイオ州のオーバリン大学構内には、地面から突き出た巨大なプラグをかたどったコルテン鋼の彫刻が設置され、フィラデルフィアには14メートル近い洗濯ばさみの彫刻がある。

その後の作品には、77年に結婚したコーシャ・ヴァン・ブリュッゲンと共同制作したものも多い。たとえば、ケルンのショッピングモールにある逆さまのアイスクリームコーンや、アイオワ州デモインにある地面に突き立てられた鏝(こて)、バルセロナの曲がったマッチが詰まった箱などだ。なお、ヴァン・ブリュッゲンは2009年に亡くなった(最初の妻のムチンスキーとは70年に離婚。また、フェミニズム・アートで知られるハンナ・ウィルケと交際していた時期もある)。 

こうした巨大な常設作品だけでなく、大規模な個展もたびたび開催されている。95年にはワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーとニューヨークのグッゲンハイム美術館で、2009年にはホイットニー美術館(ニューヨーク)で回顧展が開催された。また、この9月からピッツバーグのカーネギー美術館で開催されるカーネギー・インターナショナルでも作品が展示される予定だ。

アート作品としては稀に見るほど巨大な造形物を作ってきたオルデンバーグだが、インタビューではいつも等身大の言葉を使い、ざっくばらんな調子で自分の作品について語っていた。2015年には、フリーズ誌にこう話している。「とても小さな彫刻でも、巨大彫刻と同じくらい力強い作品になり得る。大事なのは想像力とファンタジーだ。これは、芸術に対する私の見解でもある」(翻訳:野澤朋代)

※本記事は、米国版ARTnewsに2022年7月18日に掲載されました。元記事はこちら

あわせて読みたい