NYで「ゴミを使ったアート」が流行中!? それらが示唆する社会経済状況、あるいはオプティミズム
大量生産、大量消費の経済サイクルから生み出される膨大なゴミ。そこには、環境破壊や公衆衛生への影響、グローバルな経済格差などさまざまな問題が見え隠れする。加速度的にゴミの量が増加する中、近年とみに存在感を増しているのが廃棄物を用いたアートだ。ニューヨークの3つの展覧会をレビューし、作品に込められたメッセージを読み解いていこう。

春から夏へと季節が移り変わる頃、ニューヨークの街ではゴミから出る茶色い液体や腐った食品が照りつける太陽にジリジリと焼かれ、辺り一帯に悪臭が漂う。しかし今年は、道端だけでなく、美術館やギャラリーの中にもゴミが入り込んでいる。それは、不用品として捨てられたゴミやガラクタを拾い集めて作ったアッサンブラージュ作品だ。ここでは「収集アート(gather art)」と呼ぶことにしよう。
収集アートの台頭を最も顕著に示すのが、MoMA PS1で開かれているグループ展「The Gatherers(集める人々)」で、さまざまな形態の廃棄物を扱う14人のアーティストの作品を紹介している。示唆に富んだこの展覧会のほかに、ニューヨーク各所のギャラリーで開催された個展でもこの傾向は見られた。たとえば、グリーン・ナフタリ(Greene Naftali)で開催されたレイチェル・ハリソンの印象深い個展や、1980年代から90年代にかけてロバート・ラウシェンバーグが廃棄物を使って制作した作品を集めたグラッドストーン・ギャラリーの展示などがある。
もちろんこれは、まったく新しいトレンドではない。似たものとして思い浮かぶのは、ロバート・ラウシェンバーグやイザ・ゲンツケンが手がけた、産業用機械の部品や都市のゴミ、消費主義社会の残骸などを寄せ集めた作品群だ。しかし、最近の「収集アーティスト」たちは、単にラウシェンバーグの方法論をよみがえらせているわけではない。ラウシェンバーグが重きを置いていたのは(日用品などを作品に転用する)レディメイドという概念そのもので、次から次へと製品を生み出す資本主義の力が主要な関心事ではなかった。一方、最近の収集アーティストたちは、グローバル経済や気候変動の問題について考察し、それを直接的に表現するのではなく、作品の中に間接的に織り込んでいる。
コロナ禍に端を発した景気の減速と低迷が続いたこの5年の間に、ニューヨークでは収集アートの流行が加速している。はたして収集アートの増加は、景気後退の指標になるのだろうか? この種の作品にはかなり陰鬱なものが多いことから、そう考えてもいいような気はする。それに、拾ったものを使うほうが、新しい素材を購入するより制作コストが抑えられる現実もある。経済状況が厳しくなれば、アーティストたちはコスト削減のため、いろいろなものを再利用、リサイクルするものだ。
だが、そうやって作られた作品が全て重苦しいわけではないのが収集アートの面白いところだ。一部のアーティストは、崩壊した社会の廃墟から生まれるものに楽観的なビジョンを抱いている。以下、ニューヨークで開かれている3つの収集アートの展覧会を紹介しよう(ロメックスでの展覧会は既に終了)。
「The Gatherers(集める人々)」/MoMA PS1

ルバ・カトリブとシェルドン・グーチがキュレーターを務めるこの企画展は、奥深いコンセプトに裏打ちされている。参加アーティストの多くが好んで作品に取り入れているのは、かつては高価だったが時代遅れとなり、ゴミ捨て場行きになったガジェットだ。たとえば、才能豊かな彫刻家、セール・セルパスの乱雑なアッサンブラージュ作品には、背面パネルが取り外されて絡み合う回路があらわになったテレビのフレームが、展示室の隅にある薄汚れたキャスター付きの椅子の上に危ういバランスで置かれている。
一方、ジャン・カタンバイ・ムケンディの《Trash TV(ゴミテレビ)》(2022)はテレビを模った彫刻だ。実際のテレビの部品ではなく、トラックのフロントガラスで作られた画面の上に、痛み止めの薬やカセットテープ、時計、定規などが隙間なく取り付けられている。さらにセルマ・セルマンは、廃棄された大量のコンピュータを分解し、その回路基板から取り出した微量の金を集めて作った1本の釘を壁に打ち込んだものを彫刻として展示した。こうして参加アーティストたちは、従来のファウンドオブジェ作品とは異なり、収集されたものを再配置することで、なぜこれほど多くの廃棄物が存在するのかを考えるきっかけを与えてくれる。
10月6日まで開催されているこの展覧会に並ぶ作品は、それぞれの方法でグローバル経済を映し出している。現在の世界では、グローバルノース(主に地球の北半球にある経済的先進国)が高価な製品を消費し、その副産物として大量の廃棄物が出る。そして、それらの生産国が多いグローバルサウス(主に南半球の新興国・途上国)に廃棄物が還流し、新たな用途を見出される。
その点が明確に示されているのが、カリマー・アシャドゥによるドキュメンタリー風の映像作品《Brown Goods(ブラウン・グッズ)》(2020)だ。そこでは、ドイツ・ハンブルクに住むエメカという名のナイジェリア人移民が、古タイヤの山の中を歩き回り、売れそうな物を探している。エメカは、西アフリカからの移民による廃棄物の売買は社会の腐敗の証だと言われることについて、「ドイツ人にとってこれらの品物は全部ゴミなので、彼らはそれがアフリカに輸出されるのを快く思っていません」と語り、ビザがないためドイツで正規の仕事を得られず、仕方なく廃棄物を売るようになったと映像の中で説明している。つまりこの作品では、誰かにとっての廃棄物が、別の誰かにとっては経済的な命綱であることが示されているのだ。
生き延びるために廃品置き場を漁る男の話は、どこかSF的だと感じられるかもしれない。だがそうした黙示録的光景は、「The Gatherers」展のあちこちで見られる。数々の廃墟のような作品で特筆すべきは、トリア・アスタキシュヴィリの見事なインスタレーションだろう。まるで展示室が何者かに不法占拠されたかのように、仮設の壁には落書きがあり、埃まみれの消火器や電源に接続された用途不明の装置などがそこら中に散らばっている。
とはいえ、この知的な展覧会の隅から隅までが終末的で暗い雰囲気に覆われているわけではない。一部のアーティストはまるで錬金術師のように、衰退する世界の残骸を、まったく新しいものへと変容させている。たとえば土肥美穂は、意外な素材を組み合わせた臓器のような形の彫刻を何点か出品している。その1つに付いている布と金属のバネでできた腸管のようなものは、健康で活力ある生き物の内臓であるかのように見える。
「Danica Barboza: Void Beside a Desire Machine(ダニカ・バルボザ:欲望マシンの脇にある空虚)」/ロメックス(Lomex)

「The Gatherers」展に参加しているセルパスや土肥などが抽象的なアプローチで廃棄物に肉体的な特徴を与えているのに対し、ダニカ・バルボザはより直接的に粘土で胴体を作り、切り刻んだ新聞紙やテープ、街で拾った廃棄物などでその彫刻を飾っている(作品の性別はよく分からないが、彼女が作るものの多くは脚を広げており、その間の裂け目や開口部を露わにしている)。バルボザが作る身体はどれも完全ではなく、この展覧会に展示されている胴体には頭部がない。その点で、時間の経過と共に四肢を失った古代ギリシャやローマの彫刻を思わせる。
だが、それらの身体は明らかに、「今ここ」にあるものだ。それは皮膚としてリサイクルされた新聞の見出し——腰のあたりにはデータ窃盗に関する記事がある——や周囲に置かれたゴミからうかがえる。たとえば《The Opposite of Super-Fluidity(超流動性の反対)》(2025)という作品では、シャワーカーテンで覆われたアルミ製のブロックの上に笑っている頭部の像が乗せられており、その背面にはコンピュータのキーボードが複数詰め込まれている。また、《Hakini Sollemnis Dimidiatus(ハキニ・ソレムニス・ディミディアトゥス)》(2025)では、前者に比べ暗い表情を浮かべた頭部が、ソニーのビデオレコーダーを積み重ねた台座の上に置かれている。
ここで使われている雑多な物品は、一番古くても数十年前に製造されたものだが、それにもかかわらず、何世紀も前に滅んだ文明の遺物のように見える。そして、比較的新しいものが多いにもかかわらず、本来の用途を言い当てるのは簡単ではない。その理由の1つは、多種多様なものが脈絡なくまとめられていて、個々の要素を切り分けて見るのが難しいからだ。
この点でバルボザは、使用済みの多様な素材を組み合わせて不条理な作品を作るレイチェル・ハリソンの後継者にふさわしいと言えるだろう。しかしハリソンがデュシャンやそれに続くいたずら好きな作家たちを暗に示した作品を多く作っているのに対し、バルボザの彫刻には近現代の美術史や古典への明確な言及はない。だが、それは理にかなっているのかもしれない。バルボザの作品は、現在における歴史の喪失をテーマにしているのだから。
※本展の会期は終了。
「Yuji Agematsu: 2023-2024(上松祐司:2023-2024)」/ジャッド財団とギャヴィン・ブラウン邸

上松祐司は、1996年から毎日ニューヨークの街でゴミを拾い集めてきた。舐めかけのキャンディやしわくちゃのレシートなど、ほとんどの人がマンハッタンの歩道の汚物として避けるものも躊躇なく拾う。そして、タバコの箱からていねいに剥がしたセロファンの袋の中に、まるで人類学者のような厳密さで収集品を収め、1つ1つ拾った場所と経路をノートに書き留める。ファーストフード店や主要な大通りなど、その日に足を留めた地点を、手書きの文字と抽象的な地図を組み合わせて記録するのだ。
現在、上松の2023年と24年の収集活動の成果を集めた展覧会が、ニューヨークの2つの会場で開かれている。23年の作品は、アートディーラーのギャヴィン・ブラウンが住むハーレムの自宅兼ギャラリー(229 Lenox Avenue, New York)で展示され、24年の作品はジャッド財団で見ることができる(2カ所とも8月30日まで)。財団の壁には棚が設けられ、繊細な容器に入った上松の作品が整然と並んでいる。
1日分の収集物を1つのセロファン容器の中に入れて、カレンダーのように等間隔に配置する上松の精緻な展示方法は、あたかもミニマルアートのようだ。中でも特に、実際に棚を制作したドナルド・ジャッドを強く連想させる(ちなみに上松は、ジャッド財団の建物の管理人を20年以上務めていた)。その制作プロセスにも、多くのミニマリストと同じ正確さがある。だが、どこかいかめしく、冷徹で、重みがあるミニマリストの彫刻と比べ、上松の作品は温かく意図的な脆さがあり、指先で軽く触れるだけで壊れてしまいそうだ。
いくつかの彫刻はわざと不安定な作りになっている。たとえば、タールのような黒い液体を含んだ作品は透明な容器から今にも中身が滲み出てきそうだし、別の作品には腐敗が始まったオレンジの皮が入っている。その一方で、永久に分解しそうにないものもある。たとえば、棒キャンディーの包装紙やプラスチック製のミニティアラ、造花、使用済みのフロス、映画『インサイド・ヘッド』に出てくるキャラクター、「イカリ」のフィギュアなどだ。
その中には過去の作品に繰り返し登場したものも多いが、今回展示されている新作には、ハッとさせられるほど私的なものもある。それはジャッド財団に並ぶ1点で、上松の名前が記された病院のリストバンドと思しきものが含まれている。おそらく上松はこう示唆しているのだろう。ゴミを生み出す私たちは、ゴミによって作り出されてもいる。そして、ゴミは私たちがこの世界に存在した証でもあると。(翻訳:野澤朋代)
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