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追悼:日本初の女性報道写真家、国際的写真賞を受賞した笹本恒子が107歳で死去

日本初の女性報道写真家、笹本恒子が2022年8月15日に老衰のため107歳で死去した。笹本は、長い間男性のものとされていたフォトジャーナリズムの世界で、女性写真家の草分けとして活躍。2016年には国際的写真賞、ルーシー賞のライフタイム・アチーブメント賞を受賞し、生涯にわたる写真界への貢献を称えられている。

《笹本恒子(東京)》(1940/2020)撮影者不明 Courtesy Tsuneko Sasamoto and Japan Professional Photographers Society

笹本の作品は、2021年から22年にかけてニューヨークのメトロポリタン美術館とワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーで開催された企画展、「The New Woman Behind the Camera(カメラの後ろの新しい女性)」に出展された。この展覧会は、20世紀前半に表現手段としての写真の確立に貢献した女性作家を紹介したもので、笹本がカメラを構えている写真が展覧会の告知に使用されている。

1914年、東京に生まれた笹本は絵画や洋裁を学ぶが、1940年に写真協会の林謙一から声をかけられたのをきっかけに写真家の道を選んだ。写真を学んだ経験はなく、林の手ほどきで撮影を始めている。初期の作品は、ライフ誌で活躍した米国のフォトジャーナリスト、マーガレット・バーク=ホワイトを思わせるスタイルだ。

作品からはあまり感じられないが、笹本は女性であることの制約に立ち向かいながら仕事をしなければならなかった。ナショナル・ギャラリーの写真部門キュレーターで、「The New Woman Behind the Camera」を企画したアンドレア・ネルソンによると、笹本は当時の働く女性の慣習に従ってスカートとハイヒールを着用しなければならず、そのためにベストショットを逃すことがあった。また、第2次世界大戦中は女性であることを理由に、戦争の現場を撮影できなかったという。一方で、日本の週刊誌「写真週報」など出版社の委託を受けて、撮影のために各地を旅している。

戦後、笹本は大きく変貌していく日本を数々の写真に収めた。《銀座4丁目P.X.》(1946)では、PX(米軍専用の売店)の前を女性が通り過ぎるシーンを捉え、戦後、米軍が日本の生活に入り込んできた様子を伝えている。

日本では高く評価されてきたが、米国で広く知られるようになったのは「The New Woman Behind the Camera」展でのことだ。ただ、作品の紹介のされ方には批判の声もあった。というのは、その時に展示されていない作品の中には、右派の役人の肖像や、日本の進歩の象徴として西洋に輸出された写真もあるからだ。

たとえば、近代日本史を研究している歴史家のケリー・ミドリ・マコーミックは、ワシントン・ポスト紙への寄稿で、笹本が「第2次世界大戦中の日本政府の人種差別的、帝国主義的な方針に加担していた」と述べている。また、メトロポリタン美術館の展示については、「写真を本来の文脈から引きはがすのがいかに容易かを示している」と指摘した。

ネルソンは、コロナ禍の前に笹本に会い、数少ない女性報道写真家としてどう感じていたかを聞いている。その内容は、ナショナル・ギャラリーが2020年に発表した記事の中で次のように紹介された。

「彼女は、男性たちの中では孤立感があり、自分の仕事が真剣に受け止められていないと感じていたと語った。とはいえ、カメラマン同士のよしみで、仲間に助けられることがあったとも言っている。(中略)カメラが笹本に与えたものは、大きな自信と、多くの魅力的な人々との出会いだったのだ」(翻訳:清水玲奈)

※本記事は、米国版ARTnewsに2022年8月23日に掲載されました。元記事はこちら

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