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見えない世界を植物とガラスが可視化する──地球の「記憶」をめぐる佐々木類の実践

いま日本では、伝統工芸と現代アートをつなぐ試みが各所で行われている。11月2日から5日に京都で開催されている「日本の美術工芸を世界へ 特別展『工芸的美しさの行方―うつわ・包み・装飾』」もその一つ。本展の参加アーティストであり、「記憶」をテーマに植物とガラスを用いた幻想的な作品で高い評価を得る佐々木類に話を聞いた。

金沢市内にある自身のスタジオが整うまでの間、金沢駅から車で数十分ほどの山間にある市営のガラス工房の一角を借りて制作を行なっているという佐々木類に会いにいくと、エプロン姿で出迎えてくれた。雨が上がったので、スタジオの周辺にある植物を採りに行っていたのだという。

「私、間違いなく花時計で生きている。植物に翻弄されていると思います」

植物の痕跡をガラスに封じ込めた作品で知られる佐々木はそう笑うが、話を聞いていると、確かにどこか農家や植物学者のようだな、と思う。季節の移り変わりとともに植物が繁茂したり枯れたりするとき、あるいは野焼きが始まるとき、彼女の生活は完全に植物優先の状態になる。「その時にしか現れない植物の姿があるので、ときには朝3時に起きて植物採取に行くこともあります」

彼女が用いる作品の素材は、基本的にはたった二つ。なるべく採取したばかりの新鮮な状態の草花(「水道水で洗い流すとカルキが残るので大抵の場合は洗わない」という)と、それらを収めるのに適したサイズにカットされた何枚ものガラス、以上。冗談で自身が「3分クッキング」と呼ぶ制作プロセスも、これらガラスを重ねて植物をピンセットで置き、その上にまたガラスを重ねて窯で焼成する、というシンプルなもの。

しかし、そうして生まれる作品が光に照らされると圧倒的に美しく、しかし同時に、深淵に吸い込まれるような怖さとどこか儚い夢を見ているようなメランコリックな気持ちにもさせられる。ガラスの中で灰と化した植物は永遠の存在となって、地球の記憶を私たちに語りかけてくる。

シンプルな素材と工程にどんな魔法をかければ、あんな作品が生まれるのか。彼女との対話から、その秘密を紐解いてみたい。

工房の周辺から採取したばかりの草。

──佐々木さんは、草花の姿をガラスの中に入れて焼成することで永遠に記憶するというアイコニックな作品を制作されています。用いられる草花は、どんな基準で選ばれているんですか? 

たいていは、朝、自宅からアトリエに向かう途中で気になった植物があったら採取したり、アトリエの周辺を散歩しながら採取したり。自宅の庭に生えているものを摘んでくるときもあります。

その日の天候や環境の変化によって、同じ植物でも様子が違ったりするんです。さっきまで雨が降っていたんですが、雨上がりに咲く花の様子を見に行ったり、雨に濡れて茎から紫っぽい液体が出ていたり。最近はアトリエ周辺で野焼きがあったんですが、一度は焼失してしまった植物が再び芽吹いてきたな、と確認しに行ったり。

──佐々木さんの日常にある、「特別じゃない」植物なんですね。

そうですね。その植物自体に何か特別な意味があるわけではなく、なんか素敵だな、綺麗だな、これ昔も採ったことあるな、というように、本当に何気なく目にとまったものを選んでいます。

ただ最近、作品をご覧になった方々から植物の名前を聞かれることが増えてきて、私も気になりだしてグーグルレンズで調べるようになりました。すると、例えばアトリエ周辺に植生している植物には、キツネなど動物にちなんだ名前のものが多いことに気づき、さらに調べると、昔はその植物をキツネを追いかけるときに使っていたことがわかりました。そんなふうに、なんでもない植物を通じて昔の人々の暮らしに触れたりできることが面白い。あるいは、実は身近にある植物でも在来種は本当に稀で、たいていは帰化植物だということも知りました。海外で出合った植物になぜか懐かしさを感じたりするのは、そういうことなのかもしれないと思うと、ますます興味を掻き立てられます。次第に、その植物の来歴やその背景を知ることへの関心が高まってきました。

なるべく自然な姿を残すべく、ガラス板に挟んだ植物をピンセットを用いて整えていく。
根っこについた土もそのまま使う。「雨上がりだと植物が根っこから抜けやすいんです」と佐々木。

──植物の名前や背景を知ることで、佐々木さん自身の考え方に変化はありましたか?

以前は、人間の記憶ってとてもパーソナルで独自のものだと思っていたんですけど、そうした記憶も、実は自分や国を超えて、さらに外に繋がっているんだと想像力が広がりました。植物の話題は万国共通、植物を介して、色んな国や地域、背景の人たちとコミュニケーションを取ることができる。つまり人間には国境があるけど、植物は国境を超えられる。そう思うようになってから、境界という概念についても考えるようになりました。

──一方で、そうした植物の名前やストーリーをあえて言葉で説明しないのは、見る人たちの想像や解釈の余地を残しておきたいという思いがあるからですか? 

確かに、私の作品はよく「標本みたい」と言われます。でも、私は学術的な目的で作品を制作しているわけではないので、強いていうなら「記憶の標本」を作っている感覚でしょうか。私の作品の中の植物は焼失していて、その痕跡だけが残っているわけで、ある意味とても曖昧な存在です。でも、そうした曖昧な存在であっても、見る人は私の作品と自分の過去の経験や記憶を無意識につなげて、共感したり想像したり解釈したりする。そうした作用が面白いなと思います。

昨年、アメリカ・ポートランドで作品を制作したのですが、ちょうどサンフランシスコ近くで山火事が発生した頃で、ポートランドの空も黄色く染まってしまったんです。それが原因で州立公園の植物が病気になり、切らざるを得なくなりました。私はそうして切られた植物をもらってきて作品を制作したのですが、ガラスの中で焼成したそれらの植物から、いつもとは違うベージュやピンクっぽい煙が出ていました。そういった物語は私にとっては非常に重要なのですが、それを全て説明するのは違う気がして。それよりも、見た人に、なぜそれが他のものとは色が違うのかと考えたり想像してほしい。作品のキャプションではなく、背景を書いたプリントを置いておいて、ほしい人だけ自由に取ってもらうということはあっても、あくまで見る人が読む/読まないを選択できるようにしておきたいと思っています。

《植物の記憶 / Subtle Intimacy》(2012-2023)h253.5 x w310 x d332cm、ガラス、植物(2012〜2023年に国内外で採取)、LED、アルミニウム Photo: Nik van der Giesen / 金沢21世紀美術館蔵
《植物の記憶 / Subtle Intimacy》(2012-2023)h253.5 x w310 x d332cm、ガラス、植物(2012〜2023年に国内外で採取)、LED、アルミニウム Photo: Nik van der Giesen / 金沢21世紀美術館蔵

──作業を拝見していて、ガラスの中に閉じ込める植物を例えば人為的に曲げてドラマチックに見せたりはせず、あくまでそのままの姿に敬意を払っている印象を受けました。

それは私自身が、有機物であろうと無機物であろうと、かたちあるもの、物質を信じているからだと思うんです。むしろそれに固執していると言ってもいいくらい。だから用いる植物も、私が勝手に造形的に見せることはしたくないんです。剪定もしませんし、根っこについた土も葉の中に隠れた虫も、雨の滴もそのまま使います。植物は私の作品の素材ではあるけれど、私よりも上位の存在という意識があります。同じ植物でも天候や季節、土地によっても全然違うので、いつも振り回されるのですが(笑)、どうすればその植物のその時の状態を生かして自然に美しく焼けるか、どうすればその植物が最後の息を吐き出しやすいか、ということを考えながら、植物のために私が技術的な最善を尽くしている、という感じです。

──ガラスも作品サイズにカットするだけで、特別な加工などは施さないんですね。

そうですね。焼成したあとも、少し磨いたり削ったりする程度です。実はガラス会社は世界情勢や気候変動といった社会問題の影響を受けやすいんです。今使っているのはドイツのガラス会社のものですが、ロシア・ウクライナ戦争の影響で工場が一時閉鎖されてしまいました。その後、再開されたものの、これまで調達できていた原料が入手しづらくなったようで、ガラスの性質が変わってしまったんです。あるいは、ガラス製造は莫大なエネルギーを消費するので、イスラエル・ガザ戦争による原油の高騰の影響も受けています。こうした世界情勢による影響を、私がコントロールすることはできません。であるならば、いま手に入るこのガラスをどうすればよりよく使えるだろうか、ということを考える必要があります。

植物がなるべくそのままの姿でいられるよう、ガラスの性質を考慮しながら、私が働く、という関係でしょうか。

ガラスに植物をセットした後、固定して窯で焼成する。
佐々木は全ての作品について、その日の天候や植物の状態、窯の焼成温度などを詳しく記録している。「気候変動によって30年後にはもう同じ草には出会えないかもしれない」

──北アルプス国際芸術祭2024では、黒部ダムにある廃屋の窓ガラスをそのまま用いたと聞きました。

そうなんです。そのガラスには、鳥のフンや埃、雨の跡、木枠のペンキなどがついていて汚れていたのですが、それはこの建物の記憶だなと思い、質も粗悪で割れやすいけれど、そのまま使ってみたんです。焼成すると、埃がすごい気泡になったりして、それはそれで面白い作品になりました。ガラスも先ほどのような理由から入手しづらくなってきたし、ガラスに記憶されているものにも興味が湧いて、今後、役目を終えた古いガラスを使ってみようかなと。ガラスも植物も、焼いてみないとわからないところが多くって。科学実験に近い感じです。

──窯から出したとき、何を思うのでしょう? 

見えなかったもの、知らなかったことが、ガラスを焼成することで見えてくるのが面白いんです。例えばコロナ禍やその直後は、植物の外見上の変化はないのに、ガラスに挟んで焼成すると、なぜか割れてしまうんです。作品がつくれなくて大変でした。

何が真実なのかわからないような時代ですし、人間の記憶も曖昧だったりする。でも、植物とガラスは、今なにが起きているのかをニュースよりも正確に伝えてくれたりするんです。窯から出したとき、植物の美しさに感動することもあるけれど、それ以上に、身の回りの環境から植物が得ている情報に驚かされます。

北アルプス国際芸術祭で展示された《記憶の眠り》。Photo: Courtesy of the artist

──出来上がった作品が「失敗」であることもあるんですか?

もちろん、植物の状態に合わせてガラスを扱うためには技術力が必要で、目下、それを磨いているところでもあります。ただ、例えば植物の水分が多かったりして、泡ができてガラスが割れてしまったとします。ガラスの職人であれば、泡がある時点で明らかに失敗作だと思いますが、私の場合は、そうした現象からどんな情報やストーリーが読み取れるかの方が重要です。コロナ禍で割れてしまった作品も、そのときはストレスでしたが、あの特殊な状況下でしか作れない作品だと思います。

加えて私にとって重要なのは、一つひとつの作品で成立することよりも複数の集合体としてどうインスタレーションとして見せていくか。ガラスに対して多くの方が、「きれい、美しい」と感じると思うんですが、以前はそう言われることに違和感を覚えた時期もありました。でも今は、その美しいガラスには環境問題や紛争というような見えない問題が隠れていて、そのギャップが面白いと思うようになりました。そういったことを、どうすれば全体として表現できるかをいつも考えています。

──今後、挑戦してみたいことはありますか?

倒れた木をそのまま使うなど、巨大な作品に挑戦してみたいです。そのためには自分だけでは難しくて、専門家の知識や設備も必要なので、科学者など異業種の人たちとどう協業できるのかが今後のチャレンジかもしれません。あとは、日本だけでなく様々な場所で制作したいとも考えています。植物は自分からは動けないので、私が移動する必要がある。大自然の中の植物だけではなく、例えばニューヨークのような大都市の植物で作品を制作したら、なにが立ち現れてくるか。そういったことにも興味があります。

Photos: Kaori Nishida Text & Edit: Maya Nago

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